壱の壱 佐々木小次郎の忘れ形見
「……つまらん」
女武者は泡立つ血を噴き上げながら倒れ伏した最後の男を見下ろし、びゅんと長刀を振った。
嫌らしい不快な臭いをそっちのけで、懐から懐紙を取り出し、ゆっくりと長刀を拭う。
あまりにも長大過ぎるそれの血曇りを無かったことにするのは本来面倒なはずだが、それは一度拭えば、何故か本来の輝きを取り戻した。
艶麗な梨地肌は月夜に濡れる海の砂のよう、菖蒲造りの鋒がより悩ましい。
とんでもない凶悪な武器であるというのに、その長刀の存在感はどこまでも女っぽく感じる。
ゆるりと、女は長刀を振った。
血を拭った懐紙をはらはらと落とす。
その長刀に相応しい、女は美貌の持ち主だった。
まさに若衆の凛々しさ瑞々しさを含みながら、女の顔は幻妖なまでに蠱惑的だ。何ならあまりの美しさに神をも惑わせる魔物に似ていると言ってもいい。
橋の上でまだ興奮冷めやらない野次馬に、晴れやかな笑みを向けると、そこここから溜め息がこぼれた。
女は背中に負った鞘に長過ぎる長刀を収めた。
女ながら、その長刀に振り回されている感のない長身だ。並の男より大分高い。
身に着けている亀甲に花と雲の散る緋色の絹の若衆小袖、花亀甲を連ねた袴が実に豪奢に映える。流行りの傾いた格好だが、女の存在自体にどことなく気品があり、下品な感じは全くしない。
と、女は振り返って何かに目を留め、すたすたと歩み寄った。
野次馬たちが怪訝な顔をするその前で、その女は血の雨を免れた河原撫子と菖蒲に手を伸ばした。
その可憐さと艶とに満足したように微笑み、屈み込んで何輪かを摘んだ。たった今、血の惨劇を引き起こしたことなど忘れてしまったかのような風情だ。
野次馬たちの間に妙な空気が流れ出した。
自分が作り出した無惨な血塗れの死骸のすぐ側で、花を品定めする女の異様さに、誰もが鼻白む。
血はまだ流れ続け、その傍らで女はいっぱいの花を摘んで振り返った。
死骸の側まで来ると、女ははみ出た臓腑と血の上から、花をぽとり、ぽとりと落とし始めた。
まるで楽しんでいるような表情――いや、楽しんでいるのか。花は汚ならしい赤その他に落とされ、それを吸い込んで凄惨さをますます見せ付けようとする。
ぽとり、ぽとり。
一つの死骸が終わると次に。まるで幼子が葬式ごっこでもするように、無邪気に花を血に染めていく。
最後の死骸の、何か叫び出しそうにがくりと開いた口に花びらが舞って、女はすっかりその遊びを終えた。
花まみれの死骸四つを見回し、ようやく一仕事終えたと言いたげな顔をする。
橋の上の野次馬は、今やすっかり腰が引けていた。
女の強さ美しさに見とれていた者たちも、今しがたの異様な女の振る舞いのせいで、別のざわめきを放っている。
なんだあの女。おかしい、絶対に頭がおかしいぜ。
と、野次馬を掻き分ける手があった。
同心だ。
不動明王のような、厳つい赤ら顔が、橋の上からじろじろと惨劇の場を見下ろす。
一瞬顔をしかめ、次いで周囲を震わせる大音声が彼の口から放たれた。
「
女が反応する。
赤ら顔の同心を視界に捉え、陽気に手を振る。
「おう、赤星の旦那! 丁度良かった」
「何が丁度良かっただ! 全くもってお前はまたこのような……!」
何か言いかけて口をつぐみ、どかどかした足取りで橋を渡って回り込み、赤星と呼ばれた同心は土手の斜面を横切って河原に降りてきた。
その背後にまだ若い、こざっぱりした同心がもう一人、そして小柄で何となく鼠を思わせる男がもう一人、付き従っていた。
「また派手にやったもんだな」
血の惨状を見渡して、赤星は呻いた。四つあるどの死骸も、みな胴を逆袈裟に斬られて体の中身も露に絶命している。
戦国の荒っぽい気風が燃え残るこの時代、刃傷沙汰とそれによる死骸は珍しいという程ではない。
しかしそれにしてもそれらの死骸は無惨過ぎた。悪趣味にもばら蒔かれた花が、より一層それを強調している。
若い同心が、思わず口元を押さえて目を反らした。鼠のような男も血の気が引いている。
「矢野、千太。よく見ておけ。これが『燕返し』の傷だ」
赤星は十手で手近な死骸の上から花をどけ、同心と鼠のような男に傷口を示した。
「赤星さん、燕返しというと、芝居でやるあの、
わずかに気を取り直したらしい同心が、赤星に尋ねた。
「おいおい、芝居じゃない。佐々木小次郎は本当にこの世に生きてた人間だ」
答えたのは、花渡と呼ばれた女だった。
「巌流も燕返しも、本当にある流派に技だ。赤星の旦那から何も聞いていないのか?」
呆れたような花渡の口調に、同心はいささかたじろいだ。
この惨状を作り出した人間に話し掛けられたと思うと、いくら見た目が度外れた美形の女でも、緊張を禁じ得ないらしい。
「馬鹿者、大層な口を叩くな。お前はこの騒動の下手人だぞ、もっと神妙にせんか!」
「下手人って……私は何もしていないぞ?」
花渡は不満そうに口を尖らせた。
「この状態で何が何もしていないだ! この死骸は何だか説明せんか!」
怒鳴られ、花渡は秀麗な顔をしかめた。
「呼び出されて襲われたんだ。朝、長屋の戸口にこんなものが挟んであった」
花渡が懐から引っ張り出した紙を、赤星はひったくった。
見る間にその赤ら顔が曇る。
「……昼九つまでにここに来なければ長屋に火を放つ? むう……」
記された脅迫を読んで赤星の目がより険しくなる。
「何と……そういうことなら、何故番屋に届けなかったのですか!?」
若い同心が目を剥く。
「赤星さんの知己でらっしゃるなら、直接奉行所の赤星さんをお訪ね下されば」
「いやいやこういう奴らはそれじゃすまねえ、どちらにせよこの嬢ちゃんが引きずり出されることにはなったと思うぜ、矢野の旦那」
口を挟んだのは、鼠のような小男だった。
矢野が同心の名前ということは、こいつが千太であろう。多分岡っ引きだ。
「矢野の旦那は若くてピンとこねえかも知れねえが、本当にそういうことを平気でする奴ってのはいるんですぜ。こんな若い嬢ちゃんを四人がかりで襲う奴等だ、まともな訳はねえでがしょう?」
矢野がむうと唸った。
「しかし……」
「……まあ、こういうことなら仕方あるまい。しかし、実際に人が死んでいるんだ、全くお構い無しにも出来ぬぞ?」
赤星が苦り切った表情で花渡を見やった。
「多分仕置きされる訳じゃないだろう。なら構わんさ」
うーんと伸びをして、花渡は言い放った。
「……で、何をすりゃいいんだ?」
「千太は、ひとっ走り行って、大八車を借りてこい。この仏どもを運ばにゃならん。矢野は取り調べをやってみろ。この花渡に事情を聞くんだ」
てきぱき部下に指示を飛ばす赤星に、花渡は目をぱちくりとした。
「事情って。今話しただろ」
「この矢野は、お前の事情をよく知らないからな。一から取り調べをする手慣らしにお前を使わせてもらおう。毎度騒ぎを起こしておるんだ、少しはこちらに協力しろ」
花渡は盛大な溜め息をついた。
千太はその間に走って町並みの中に消えたが、それにも気付かない。
「では、不肖この私、
生真面目に宣言した矢野に、花渡は二度目の溜め息をついた。
赤星に促され、死骸の散らばる河原から、枝を張り出した木の下に場所を移す。
「武家の出とお見受けするが、お名前と生国と、父君母君のお名前と役職を」
「佐々木花渡、生国は江戸、父も母も亡いが、父は元
すらすらと答えた花渡の答えを吟味して……矢野はふと、怪訝な顔をした。
「……今、父君のお名前を佐々木小次郎、と仰ったように聞こえたのだが……」
「ああ。私は佐々木小次郎の実の娘だ」
さらりと、花渡は受け答えた。
「……佐々木小次郎……佐々木小次郎……、巌流島の決闘で宮本武蔵と戦い敗れたあの巌流佐々木小次郎と何か……」
「だ、か、ら、その佐々木小次郎だ! 巌流の開祖で、宮本武蔵に負けた、おまけにその話がかなり尾ひれがついて芝居だの何だのになっている、あの、佐、々、木、小、次、郎、だ!!」
もやもやした空気を振り払うように。
その佐々木花渡は声を張り上げた。
「私は、その巌流佐々木小次郎の実の娘で、巌流の技と父が使っていた長刀を受け継いだ、佐々木花渡だ!!」
妙な沈黙が落ちた。
まじまじと、遠慮も忘れた視線を送られた花渡がうんざりしたように見えた。
「本当に……いやあの、あの剣豪佐々木小次郎殿の実の娘……本当に……」
「本当だ! 嘘をついてどうする! だから私は命を狙われているんだ。いつだったか、今回のように私を狙ってきた雇われ浪士が、そんな話をしていやがった」
畳み掛け、花渡はふうっと何度目かの溜め息をついた。
今から二十年程前に、有名な巌流島での宮本武蔵との決闘の結果、その命を散らしたとされる剣豪。
得意とするは燕返し。
宮本武蔵にその技を破られたと巷間喧伝されているが、その強さが本物でなければ、宮本武蔵の今日の名声もなかった。
引き立て役で終わらせるには、いささか凄みが有りすぎるが。
宮本武蔵の人となりは、この江戸でもおよそのことが知られている。
芝居や講談でいささか実際の歳より若く見積もられたりはするが、大体が男臭い壮年の剣豪だ。
しかし、佐々木小次郎は違う。
実際の歳がいくつくらいなのか、剣の師匠が誰なのか、生国はどこなのか、何一つ確かなことが分からない。
取り上げる芝居や講談によって、いかにも悪役なむくつけき中年男にも、或いは前髪の少年のような美剣士にも、都合良く解釈され表現される。
彼について唯一確かなことは、巌流島で宮本武蔵と戦い敗死した、ただそれだけだ。
「……あなたが佐々木小次郎の実の娘だから、狙われたとそう仰ったか?」
いささか気を取り直した矢野が、慎重に尋ね直した。
「わざわざそう言ってきたし、それに何の禄も後ろ楯もない女を狙って下さいやがるんだから、実際にそうなんだろう。何でも親父が殺された後、それぞれの弟子同士でもごたごたが持ち上がったそうだから、その絡みかもな」
花渡は微妙な含みのある微笑を見せた。
矢野は緊張と驚きでその含みに気付いていない。
「すると……まさかあの死骸は、宮本武蔵の弟子と……」
「そういう奴も以前はいたのかも知れんが、こいつら自身はそうでないと思うぞ。言葉が江戸者のだ」
さらりと、花渡は否定してみせた。
「奴の近い筋が江戸で雇った刺客ということもあり得るが、そうすると妙だ。奴が今どこにいるのか知らんが、江戸に来たという話はないからな」
恐らく、穏便に「世間的な」見方をしていたのであろう矢野は、困惑しきりで声もない。
「それにな、離れた場所から将軍様のお膝元にわざわざ刺客を放つことが出来るような
花渡の立て板に水の推論を、矢野は凝然と聞くしかない。
「一度や二度ではない……以前にも似たようなことが?」
「もう何回襲われたか覚えてもおらんよ。何せ、子供の頃からだ。私を葬りたい奴がその無数の刺客を雇うためにいくら使ったのか、想像するとなかなかに楽しいものがある」
はっはっと花渡は笑った。
まさに花がほころぶような笑み。懐から金泥に蝶の扇を取り出し、優雅に扇ぐ。
「どういうことだ……貴殿は佐々木小次郎の娘で、子供の頃から命を狙われている……刺客を送り込んでいるのは、宮本武蔵では……ない……?」
狼狽える矢野に、花渡はにわかに厳しい表情を見せた。
「……前に赤星の旦那にも言ったことだが、これは一介の同心がどうこう出来る話じゃない。あんたは、この浪士どもが不埒な脅迫で佐々木小次郎の娘の首を取ろうとした、そういう話を聞いたに留めておくべきなんだ」
「いや、しかし……」
明らかに矢野は動転した。
生真面目なこの若造にとって、このような不埒を将軍の膝元で許しておくのは、抵抗がありすぎるという訳だ。
「もういい、矢野」
赤星がぽんと若い同心の肩を叩いた。
「悔しいが、花渡の言う通り、事の真相に迫るのは俺たちでは荷が勝ちすぎる。刃傷沙汰があった、目の前のその事実だけを扱うしかねえ」
ふうと息を吐く。
「やはり矢野にお前の事情は重すぎたか。しかし、これからもこの矢野は町奉行所の同心として、お前絡みの事件を扱わねばならないだろうからな……」
「ま、大体こんなもんだと知っておいてくれればいいさ。知ってることは大体話した。突っかかってくる刺客を斬ってしまえば、私は楽なもんだ、後始末するあんたらの方が大変だろうが」
他人事のように事態を放り出し、花渡は優雅に扇を動かしたのだった。
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