第11話「二人の魔導書」
その姿は長身の巨漢、恰幅のよい紳士だった。
シルクハットに燕尾服、いずれもピンクと黒のストライプ……そして、緑のシャツに金色のネクタイ。長く伸ばした顎髭は三つ編みで、趣味の悪さの総合商社みたいだった。
なにより、その顔に浮かぶ笑みが不気味だ。
隠れて覗き込むヤイバは、自分と同じ警戒心を隣のカホルにも感じていた。
その紳士は、気取って気障ったらしい所作で深々と頭を垂れる。
「お初にお目にかかる、イクスロール殿。吾輩はキルライン伯爵。神秘を求める探求者にして、滅びゆく世界の救世主!」
あ、これは駄目だと思った。
ヤイバの直感が告げている。
絶対に関わってはいけない人物だ。
だが、その男は片眼鏡を指で上下させながら、ゆっくりとイクスに歩み寄る。
イクスは乗ってきたほうきを逆さまに立て、杖にしながら一歩下がった。
「その話、長くなるのかのう……ワシ、ちょっと腰を下ろしたいんじゃが」
「ええ、ええ! いいですとも! ぜひ座ってご清聴ください! イクスロール殿……いえ」
ギラリとキルライン伯爵の瞳が輝いた。
それはまるで、燃える野心が灯ったような光だった。
そして、放たれた言葉にイクスが思わず動揺に固まる。
「
――エクストラ・スクロール。
直訳すれば『
それはおおよそ、一人の女性の名前としてふさわしいものではなかった。そして、あくまでヤイバがイクスと認識しているハイエルフへ、冷たい伯爵の視線が突き刺さる。
イクスは僅かに緊張感を漲らせたが、溜息を零して背後の岩に座った。
「……やはり、こうなるのかのう。全ての魔法を封印すべく、ワシはこの地へ転移したんじゃが。で? なにが望みじゃ?」
「全てっ! あらゆる全てを! 貴女の持つ魔法、いえ……貴女そのものを頂きたい!」
「ヤじゃ」
「ではさあ、こちらへ!」
「嫌だと言ったんじゃ! 話をきかんか、このヘッポコ伯爵!」
「なんと……滅びし種族、ハイエルフの末裔ともあろう者が、なんたる言い様!」
大げさに伯爵は、ハンカチを取り出すなりめそめそと泣き出した。
だが、露骨に嘘泣きで、そのことをイクスは即座に見抜く。
勿論、見守るヤイバやカホルにも同様に見えた。
「つまらぬ演技はやめよ。そして、元の世界へ戻るがよい。帰りのゲートはワシが開いてやる故な」
「いえ! いえいえ、お手を煩わせはしませんぞ。吾輩はどうしても、魔法の力が必要なのです! 吾輩が起たねば、あの世界は滅びてしまう」
不思議と嘘は感じない。
伯爵の要求は露骨なまでに正直だし、世界を救いたいという気持ちには演技を超えた何かが宿っていた。
だが、妙に胡散臭い。
本音で語るその実、まだ本心は隠されているような気がする。
そして、イクスはまたもやれやれと肩を竦めて溜息を零した。
「かの世界はもう、錬金術……科学による文明へと歩み始めた。もう魔法などいらぬよ。神も魔王も消え失せ、これからは人間の時代になるのじゃ」
どこか寂しげな、だが確固たる言葉。
自分に言い聞かせて噛みしめるような声音だった。
そう、魔法とはすなわち、魔を討ち滅ぼす法。故に、魔王を倒し終えた今、イクスはその全てを封印して永久に消し去ろうというのだ。
その覚悟だけが、ぼんやりとヤイバにも伝わってくる。
だが、どうやら伯爵は本気のようだ。
「錬金術! 科学! ああ、嘆かわしい……吾輩の愛する大地が今、危機に瀕しておるのです! 空気は濁り、空は曇り! 水は澱んで海は黒く奈落のよう」
「それは、お主たち人間が悪いんじゃよ。急激に化石燃料を多用すれば、自ずと惑星の調和は崩れてゆこう。環境の悪化は人類が原因じゃ」
「しかり! しかりですぞ、エクストラ・スクロール殿っ!」
「……その名で呼ぶのはやめい」
「これは失礼! しかし、そんな人間たちを誅する者が必要なのです。そう、かつて悪の魔王を倒すために、異世界より召喚されし勇者……貴女自身が禁忌の術で10年前に召喚した、英雄たちのような存在が! 今! 必要なのです!」
まるで陶酔感に浮かれたように、熱っぽく伯爵は語る。
だが、その言葉が迫真を帯びる程に、イクスの目は光を失っていった。
言葉が通じているのに、会話が成立していない様子だった。
そして、ついにイクスが苛立ちを隠せずに立ち上がる。
彼女はよろけて両手でほうきに縋りつつも、真っ直ぐ伯爵を睨めつけ言葉を選んだ。
「人が人を誅するなど……思い上がりも甚だしい。それはお主が第二の魔王となるという意味じゃ」
「構いませぬ! 例え魔王の汚名を着てでも、吾輩はやらねばなりません……あの惑星は今、悪化する環境下で死に絶えつつある。救えるのは吾輩、ならば魔王ともなりましょうぞ!」
その時だった。
既に鎮火して燻る飛空船の残骸から、幼い声が響いた。
「パパ、無事……? パパ、どこ……」
思わずカホルが声をあげかけて、慌ててヤイバはその口を手で覆った。
なんと、伯爵には同行者がいたのだ。
そして、ようやく真実が脳裏に浮かび上がりつつある。
どうして、魔法がすべて消え去った異世界から、異世界転移の魔法でゲートが開いたのか。どうしてキルライン伯爵はこちら側へやってくることができたのか。
その理由はなんとも単純、極めてシンプルな話だった。
「なんと、エルフ……ダークエルフかや! 見れば幼い……お主、この娘をどこで!」
「これなるは我が愛娘ブランシェ……ブランク・スクロール。今はまだ、空白多き未熟な魔導書なれば」
「やめよっ! そのような物言いは許さん! ……しかし、ダークエルフの生き残りがいたとは」
「驚きますよなあ? 何故ならエクストラ・スクロール……魔王側についたダークエルフを虐殺したのは、勇者一行の貴女だからです!」
ブランク・ロール、仮にブランシェと呼ぶ。
ヤイバがそう思った少女は、あまりにも幼い。見た目こそイクスと同じ用に見えるが、平坦な身体は幼年期のそれで、ほぼほぼ裸のような格好で全身を革のベルトで縛り上げられている。
褐色の肌に伸び放題の白い蓬髪、ブランシェはよたよたと伯爵の横に立った。
「この娘に禁術、異世界転移のゲート魔法を覚えさせるのがどれほど大変だったか。貴女が世界中から消した魔法の痕跡をたどり、遺跡を巡り、あらゆる書物を収集して!」
「黙れっ! 黙れ黙れ、黙るのじゃあ! ……クッ、かようなことが」
「現実です! さあ、お認めなさい。高貴なハイエルフとて、同胞たるダークエルフを差別し迫害し、皆殺しにしたのです!」
「それは……かの者たちは皆、魔王に……じゃから、ワシは、ワシらは」
「贖罪の気持ちが少しでもあるなら、全ての魔法を渡してもらいましょう。貴女に刻み込まれた、全ての魔法を」
さらには、拘束具を着たようなブランシェの頭を、伯爵は優しく撫でる。
「さあ、御覧なさい、ブランク・スクロール。あれが、貴方がたダークエルフ一族を滅ぼした仇敵! あらゆる魔法の簒奪者、エクストラ・スクロールです!」
「……あの、お姉さん、が? でも、でも――」
ヤイバが飛び出したのは、カホルとほぼ同時だった。
もう見てはいられない。
別世界の傍観者でいる自分に耐えられない。
今すぐイクスの側に行きたい、手を握ってやりたい。
だが、カホルは逆に伯爵に突進していた。
「うああああ! だらっしゃあ! キモッ、超キモい! キノコジル伯爵? あんた、最低っ!」
「ぬおっ、なんとはしたない! 淑女が飛び蹴りなど! それと、吾輩はキルライン伯爵! 後の世に第二の魔王と記される英雄なのですぞ!」
「うっさいバカッ! エルフさんもそっちの子も、泣きそうじゃんか!」
カホルの放ったキックを、なんと幼いブランシェが受け止めた。
というよりは、伯爵が彼女を盾にしたのだ。
そして、空気が一変する。
シュボッ! と見えない炎が白銀にきらめく。
ヤイバは見た……ブカブカのシャツもキュロットスカートも、一瞬で燃えて消えた。全裸になったイクスの白い肌に、あっという間に無数の模様が浮き上がる。明滅しながらうごめくそれは、まるで呪いの紋様……くまなく全身を覆った、イクスに刻まれた烙印のようだった。
「そこまでじゃ、黙れ……キルライン伯爵。ワシを怒らせおって」
「おお、おお! それです、その刻印! あらゆる魔法をその身に……ささ、はやくブランク・スクロールに移植しましょうぞ! ふふ、はは、はははっ! やはり存在した! 全ての魔法を収めた魔導書は実在したのだ!」
「黙れと言うておるっ!」
毅然と立つイクスの怒りに、翡翠色の長髪が怒髪天を衝く。
長い耳もピン! と上に尖って見えた。
同時に、彼女の手から激しい稲光が走った。まるで蛇のようにのたうつ電撃が、無数に伯爵を襲う。その時、全身に輝く紋章の一つが、一際激しく燃えるように発光していた。
だが、伯爵はまたもブランシェを盾に背後へ飛び去る。
その手にはいつのまにかステッキが握られており、それは先端が割れてプロペラになった。
「ひとまずここまで……また会いましょうぞ、エクストラ・スクロール殿! ……まずは一つ、魔法回収完了ですなあ! うは、うはは、あーっはっはっは!」
飛び去る伯爵の小脇に抱えられた、小さな女の子が泣いていた。そして、その少女の身体に突然紋様が浮かび上がる。イクスの赤いものとは違って、ギラつくように金色に光っている。それは同時に、同じ形の紋様がイクスから消えることを意味していた。
魔法を一つ、取られた。
どうやら、魔法の呪文、それを圧縮した紋章が巻物から巻物へと写し盗られたようだった。
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