第四章 江戸前蕎麦に地獄割り①

第21話

 美味しいお蕎麦が食べたい、と言い出したのは編集長である。


 いつものごとく、突拍子も前触れもない。


 それは、しめ鯖にシソを巻き付けて口に運んだ絃が、酸っぱさとじんわりとした魚の油にしみじみしていた時のことだ。


「絃さん、お蕎麦です。お蕎麦」


 隣に座った編集長は、ニコニコしながら絃を見つめている。

 爽やかな味のお酒が注がれたおちょこを揺らし、編集長は香りを楽しみつつ話しかけてきていた。


「食べたくないですか?」


 たっぷり余韻に浸っていたのに、いきなり編集長の声で現実に連れ戻された感じがする。絃は少々口を尖らせながら、編集長の眼鏡のふちを軽くにらんだ。


「聞こえております。でも今は、しめ鯖に集中しているんです」

「終わったら僕の声に集中してください」


 編集長はわかっていますとばかりにうなずいてから、肘をつきながら絃の様子をじっと見てくる。


 集中できるわけがない。

 絃は肩を落とした。


 今思えば、鶏肝のお店は彼の罠だったのではないだろうか。あのお店は、すっかり絃のお気に入りリストに追加されている。


 まんまと編集長についていったのが悪かった。美味しいお店を見つけたのは嬉しいが、これでは休肝日が減ってしまう。


「お蕎麦ですね、編集長」

「はい、美味しいお蕎麦です」


 編集長はふふっと笑った。


 こんなに顔を合わせているのに、お互いの連絡先をいまだに知らない。


 お互いに生存確認をしあっているようなものだと、絃は考えようとしている。が、いかんせん鶏肝の一件以来、距離が縮まってしまっている。


 毎週と言わず、数日にいっぺんは顔を合わせているから、彼はなんだか立派な飲み友達だ。


 そうして、赤ちょうちんが灯らない日には、決まって紺暖簾を一緒にくぐるような仲になっている。


 この店では会うか会わないかわからないのだが、紺暖簾の時だけは示し合わせたように、店の少し手前のバス停で待ち合わせるようになった。


 プライベートで会う友達は少ないほうがいい。わずらわしい関係は嫌だ。そんな絃の気持ちをわかっているのか、編集長は絶妙な距離感を保ってくれている。


 この関係に、心地よさを感じているのは、そろそろ認めないといけないかもしれなかった。


 彼のお酌を受けた時、初めて編集長に全部ごちそうになった。


 僕が誘ったので、の一点張りで、絃の出したお札を受け取らなかった。まあ、連れていかれたと言っても遜色ない場面だったので、良しとした。


 それ以来、おごってもらうことは一切されていない。


 またご馳走になるようなことがあったら心地悪いなと思っていたので、そのあたりの感覚も編集長は見事だった。


 お互い、踏み込むべきみぎわをよく理解していると思う。


 距離が縮まったのは確実だが、編集長とはそれ以上でもそれ以下でもなくて、気を張らなくていい。


「僕はね、なんでもおいしく食べられるんです」

「それは、もうじゅうぶん存じております」

「でもね、好みはあります」


 たしかにそうだ、と絃はうなずく。


「関西のお蕎麦は、ちょいと僕には甘いのです」

「そうですか?」


 そうですそうです、と編集長は杯を干した。


「お蕎麦だけはね、からいのがいいんです。絃さん、からくて美味しいお蕎麦、食べたくないですか?」


 関西のお蕎麦でじゅうぶん美味しいと言おうとしたのだが、絃は踏みとどまった。編集長の言う美味しいお蕎麦、という言葉が妙に気になる。


「それは、編集長の言う美味しいはハズレがないから食べたいとは思いますけど」


 絃はしめ鯖の皿に盛られた大根のつまもきれいに食べて、わさび茶漬けを頼んだ。

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