ひまわり
「ただいま」
玄関から声がしてフッとまな板の上にあった視線を上げる。
「おかえりー」っと口にしながらキッチンのタオルで手を拭いて玄関を覗く。
「あれ…?」
玄関先に置いた小さな花瓶にはついこの間まで花が生けてあったのに、今はすっかり干からびて何が生けてあったかすら判らない。
どれだけの時間が経ったんだろう?
外から光の入らない小さなマンションの玄関は昼でも暗く、梅雨前の5月だと言うのにフローリングの床はひんやりと、そして外の音が吸い込まれているように静かだった。
あの時、あの時確かに夫はここに居たんだろうか?
「ただいま」と、いつものように声が聞こえた気がした。
何も変わらない日常が確かにそこにあった。あるはずだった…
でも、キッチンから覗いた玄関にあったのは今と変わらないこのヒンヤリとした空気だけだった。
まるでそこにある当たり前を否定するみたいに。
それからあっと言う間に時間が過ぎて、色んな人が来て、そのくせ皆同じような言葉と雰囲気を纏って通り過ぎて行った。
そうして皆家に帰れば纏った黒い雰囲気を脱ぎ捨てて、いつあるかないか分からない次の為にクリーニングに出し、さっさとまた日常に戻って行くんだ。
当たり前はいつもそこにあるから当たり前なんだ。
この玄関の向こうもきっと、いつものように明るい日差しが見えるんだろう。
でもどうしても私はここから先に進めない。
もう進もうとする理由がないんだ。
例えば健康の為の散歩とか、家族が増えればと毎週の様に行ってた病院。切れかけてたビールを気まぐれに買い足してあげたり。
もうここから出る理由が見つからなかった。
そこにある日常に戻っても、私にとって一番大切だった日常が戻って来ないのはなんとなく、ボンヤリとは分かってたんだ。
私は幸せだったのかな?
不機嫌に帰ってきて、「疲れた疲れた」とふらふらと風呂に行って、いつもシャワーから出てくるタイミングを見計らってごはんを温めてもろくに礼も言わず座椅子にもたれてだらしなく食べる。
食べ終われば食器をシンクに積んで、スマホゲームを一人でしてたりする。
狭い部屋にふたりでいて、なのに何故か寂しかった。
家族が増えるイメージが湧かず、たまに話しかけてもいつだって彼は不機嫌に生返事を返すばかりだった。
ずぼらで自分勝手で、休みの日にも一人で趣味に出掛けて、たまに一緒にスーパーに買い物に行くと疲れたと無口になる。
そんな人…
私は幸せだったんだろうか?
でも
本当は分かってる
そうやって自分を納得させようとしても
どうしようもなく
もう帰らない夫と言う名の「日常」の不在が
こんなにも私の世界を変えてしまった事実を。
そして
あなたが買って来てくれた
玄関で輝いていた
花の名前を。
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