第53話 見送りに行ってあげて

「ここなら、二人っきりになれるよね」


 栗原さんに腕を絡まれて連れて行かれたのは、昨日と同じ僕が着替えている場所だった。

 昨日はここで栗原さんとキスしそうになったというのに、どうしてここを選んだのだろうか。


「でも、別の場所が良いんじゃ……」

「何言ってるのよ。チア部の部室だと皆に感づかれちゃうからね。優汰君以外はこの部屋を利用しないから、何があっても気付かれることはないからね」


 そう話すと、栗原さんはベンチに座ってバッグからマイボトルを取り出す。蓋を開けてのどを潤すと、そのまま蓋をしてバッグに戻す。

 一連の仕草を見ていると僕の中の思春期男子の悪い部分が出てしまい、ここの部屋であらぬ格好をしている栗原さんの姿が頭に浮かんだ。艶めかしい声を上げ、体操着をまくりあげて淫らな誘惑を仕掛け、汗と甘い香りのまま激しいひと時を過ごす、そんな妄想が。


「……優汰君、何を考えているのかな?」

「あ、いや、その、これは……」


 栗原さんの一言で一瞬にして我に返る。

 昨日の栗原さんは僕の反応を楽しんでいたが、今日は真剣な眼差しを向けている。


「それで、話というのは昨日の続き?」


 僕が問いかけると、栗原さんは無言でうなずく。


「そういや、昨日はどこまで話したかな? 覚えている範囲でいいから答えてみて」

「ええと……。柚希と沼倉が男と女の関係になったことと、柚希と別れたこときっかけで僕が変わったってこと、かな」

「そうだね。よく覚えているじゃない」

「記憶力は人一倍優れているからね」

「それじゃあ、話すね。ほかの子から又聞きしているから不正確なところはあるかもしれないけど、そこは大目に見てね」

「うん」


 栗原さんは僕がうなずいたのを見ると髪をかきあげて、天井を見上げて何かを思い出すように話し始めた。


「まず、沼倉君と阿部さんのことだけど、沼倉君は阿部さんと席が隣同士になったことがきっかけで親しくなったのよ」

「それで、二人が付き合うようになったのっていつ?」

「五月の中旬辺りかな。沼倉君が誰にも知られないように屋上へと繋がる階段に阿部さんを呼び出して、そこで告白したらしいのよ。阿部さん、恥ずかしながら『いいよ』って答えて……、その時からね、二人が付き合ったのは」


 栗原さんの話を聴いた途端、僕はその頃のことを思い出した。

 毎日朝早く起き、校門が開くのと同時に教室へ向かい、そこから音楽室へと向かって朝練をこなす。授業を受けて放課後になると校舎が閉まる時間まで練習をして、家で勉強をしてから寝る。

 ブラック部活という言葉をよく耳にするが、うちの学校の吹奏楽部はまさにその通りだった。その頃の僕の楽しみは、たまの休みに図書室から本を借りて読むことくらいだった。

 一方で、柚希はというと暇さえあればスマホでファッションやコスメをチェックし、家に帰ったら服を引っ張り出して一人でファッションショーを楽しんでいた。そして、たまの休日になると部屋を空けることが多くなった。

 最初は別々の学校に通っている友達と遊びに行ったのではないかと思っていた。しかし、あの日の柚希の発言は僕の淡い期待を裏切るものとなった。そして今日、栗原さんの発言で改めて柚希は僕のことを異性として見ていないという現実を突きつけられた。

 ショックなのかというと、そうでもない。既に僕の心はチア部の可愛らしい部員たちのことで一杯だ。無論、その可愛らしい部員には栗原さんも入っている。


「あら、平気そうな顔をしているのね」

「そんなこと、いつまでも気にしていられないよ」

「そうね。それじゃあ、優汰君がそう思っているならば二人がいつキスしたか聞かせてあげましょうか」


 栗原さんは腕を組みながら、僕の視線を避けるようにしてまた話し始める。


「優汰君って、吹奏楽部の合宿には参加した?」

「もちろん、参加したよ」

「二人がキスしたのは、その時ね」

「ということは、僕が知らないうちにキスをしていたということに……」

「そういうことになるわね」


 栗原さんの話を聞いて、合宿の二日目の夜に柚希と沼倉の二人が居なくて先輩が僕に向かってどこに行ったのか質問したのを思い出した。僕は「知らない」と答えたけど、まさかこっそりと愛し合っていたなんて。


「最後に、二人が愛し合ったことだけど……、あれはつい最近ね。ところで、優汰君が阿部さんにサヨナラされたのはいつだったかな?」

「先月の第四土曜日だったかな。あの日突然呼び出されて、『話しかけるな』って言われて……。その後の記憶は全くなくて、家に戻ったら何にも考えられない状態だったよ」

「その日って阿部さんの家のカーテンは閉まっていた?」

「あまり良く覚えていないけど、閉まっていたよ」

「優汰君、これはあなたにとってはショックなことになるかもしれないけど、黙って聞いてくれる?」


 栗原さんの話を聞いて、僕は黙ってうなずいた。いや、そうせざるを得なかったのだろう。

 栗原さんは僕との距離を縮め、それから深呼吸をしてから話す。


「阿部さん、彼を連れ込んでエッチなことをしていたのよ。ひょっとしたら、優汰君は目の前で二人の秘め事を……」

「見ていた可能性があるってことになるのか……」


 栗原さんが信じられないことを口にした瞬間、僕は一瞬だけ血の気が引いた。

 柚希が僕にサヨナラして、僕を居ないものとして二人で愛し合っていたということになるのだろうか。


「でもその日って、カーテンは閉めていた?」

「その日ね……」


 僕は腕を組んで、その日のことを思い出した。

 その日は公園から戻ると部屋の中にある本やウェブ小説を読んで、ずっと気を紛らわせていた。そして、柚希の部屋が見える位置にあるカーテンを閉めていたことも。

 次の日も食事とトイレ、風呂以外は自室にこもりっぱなしだった。その日も部屋の中にある本を読んでいたけど、どんな本を読んだのかは全く分からない。正気に戻ったのは、月曜の朝になって小泉さんに大声で呼ばれて一連のやり取りをしてからだった。

 情報を整理すると、深呼吸をしてから栗原さんの顔を見て動揺しないようにゆっくりと話しかける。


「……確か、柚希の部屋が見える場所のカーテンはずっと閉めっぱなしだった気がする」

「それじゃあ、二人が愛し合っているところを見ていないってこと?」

「そうだね。二人の声も聞いていたけど、恐らく覚えていないかも……」

「それなら良かったじゃない。もしその現場を見ていて、阿部さんの声を聴いていたら、優汰君は壊れていたかもしれないわね」


 栗原さんは真剣な眼差しでそう答えた。

 二人が愛し合っていた時に何を言っていたのか、思い出そうにも思い出せない。恐らく、僕の心が壊れないようにと無意識に記憶を封じ込めているのだろう。

 栗原さんは僕が聞き入っていることを感じ取り、さらに一言付け加える。


「でも、優汰君は壊れることがなかった。そうなったのも、恐らく優汰君の信念が強かったからよ。それと、優汰君は今まで自分のことを阿部さんに比べて劣っていると感じていた?」

「そうだね。これまではそう感じて身体が思うように動かなかったけど、今は思うように動けるようになったよ」

「そうなったのも、幼なじみによって押さえつけられていた本当の自分を解放できたからよ。だから、優汰君は自信を持っていいのよ。桜井先生も仰っていたでしょ、『誰が何を言おうと、今の信念を貫きなさい』って」

「まさか、昨日の話を耳にしていたのか?」

「ばっちりよ。良い先生じゃない、桜井先生って。私たちの担任とは大違いよ」

「そ、そうだね」


 そう話すと、僕たちは二人しかいない部屋で笑いあった。昨日のことは別にして、栗原さんは僕の味方になってくれている。それが分かっただけでも、僕は嬉しかった。

 そう思っていると、栗原さんは自分の荷物を手に取ってベンチから立ち上がり、僕に向かって一声かける。


「そろそろ体育館に戻るけど……、ひとつだけ付け加えてもいい?」

「何?」

「明日だけど、見送りはいいって言われた?」

「言われたよ。それが何か?」


 僕がそう問いかけると、栗原さんは僕のことをちらっと見てこう答えた。


「……優汰君、彼女の見送りに行ってあげて。私も行くから」

「それって一体、どういうこと?」

「今は言えないわ。……それより、体育館へ戻らないと奏音ちゃんの出番が見られなくなるわよ」


 その一言を聞いて腕時計を眺めると、かれこれ十分以上は過ぎているのに気付いた。

 バレーの試合は予選が七点先取、決勝は十一点先取でデュースなしのルールとなっている。二枚のコートで試合を進めている以上は、もう次の試合が始まってもおかしくはない。


「じゃあ、行こうか」


 僕は荷物を手に立ち上がると、栗原さんの後を追うように体育館へと向かった。

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