暗恋 Ⅱ

「皇帝陛下に至急奏上したい議があって参りました」

 銀の櫛に黄金の簪、玉や真珠の飾りを挿した頭を、しずしずと下げる。いくら国主は副業・・として行っているとはいえ、李晴に不幸があって間もないのだ。夫たる皇帝が住まう聖麒殿に押し掛けるのは、窈児とて多少は気が引けた。すぐに成偉の元まで通してもらえただけでもありがたい。

「面を上げてくれ、窈児。今日の君は、いつにも増して美しいね」

 それは、女官の化粧の腕前のおかげですわ。今にも虚ろな想いを吐き出さんとする唇で、無理やりに弧を描く。

 正式な行事の際の正装として定められたものにも似た、紫の羅にくまなく雉を刺繍したさん。五弁の花の形に金箔を押し当て、その中心に真珠を縫い付け、梅に見立てた文様が連続する紅のくん

 皇后として恥じるところのない恰好は、夫への罪の意識の表れでもあった。いつもそうなのだ。夫である成偉と離れている間は、窈児をもう一人の妹として可愛がってくれている、彼の優しさを思い出す。しかし顔を合わせれば、優玉と比べずにはいられない。

「陛下も既にお聞き及びやもしれませぬが、本日我が宮に父が訪れました」

 義父上が、と僅かながらとはいえ目を瞠りつつ零した様子からして、成偉は筆頭宰相の突然の来訪を全く把握していなかったらしい。

「人心を惑わせぬためにも、李晴どのの件は病死とすると決められたとのこと。まこと道理に適ったご聖慮でございます」

「……あ、ああ、そうだよ。君にも伝えなければと思っていたのだけれども、義父上が僕の代わりを果たしてくれたようだね」

 ついでに、この狼狽えた様子からして、緘口令が夫の意思であるかは怪しいところだった。大方、父が群臣と協議して決定したのだろう。あるいは、父の独断なのかもしれなかった。その現場がいかに人智を超えた有様であったとしても、李晴が不審な死を遂げた以上は、真っ先に疑われるのは父なのだから。

「しかし令婉は、この沙汰に納得できぬのです」

 仮にも皇帝の意に反対するのだ。へりくだる気持ちを演出するためにも、久々に舌に乗せた己の真名は、やはり馴染みがなかった。皇后となってからは二親すら呼ばなくなったより、優玉が愛おしげに囁いてくれた小鳳や窈児にこそ馴染みがある。

「陛下とて、五行怪事の仔細については既にお聞き及びでしょう? 李晴どのが木の怪事の犠牲となった現在、残るは土。土徳の帝であらせられる玉体が、些かなりとも損なわれてしまったら……」

 窈児が偽りの涙を溜めた瞳で夫の面を注視すると、夫の背後に控える宦官が息を呑んだ。全き身の官僚たちには不孝者と蔑まれ、后妃からは時に奴婢同然に扱われる宦官の紐帯は太く強い。自分たちの長の死を、彼らはどんなにか悼み、その仔細を闇に葬らんとしている何宰相に対する憤りを募らせているのだろう。

「陛下の、民を想う気持ちは尊いものです。しかし陛下は国と民の父でございます。陛下に万が一があれば、子はどんなに嘆き悲しむでしょう。父を喪った子は、いかにして生きていくというのでしょう」

 涙は偽りだが、夫に死んでほしくないという気持ちだけは本物だった。龍宝が成人し、国政を担う重責に耐えられるようになるまでは、たとえお飾りだとしても成偉に君臨してもらわなければならない。

「どうか、どうかのためにも御身を慈しみ、お考え直しください。それが人であれまた人外の者であれ、五行怪事の首魁を捕らえよと主上が一たびお命じになれば、百官と万民は身を粉にして尽くしましょう」

 凝脂さながらに白く滑らかな頬の上を、水晶の粒が伝い落ちる。

「……皇后娘娘」

 何宰相の娘として、水面下で窈児を敵視する者も多い宦官の一人が、僅かとはいえ濡れた囁きを絞り出した。これを切っ掛けに、宦官たちが窈児に味方してくれれば心強いのだが。あとは、成偉が自らの・・・意見を翻してくれれば――

「窈児、君の気持ちは嬉しい。けれど、そんなに騒ぎ立てなくてもいいんじゃないかと、僕は考えてるんだ」

 静まり返った室内に、穏やかな、何も考えていないのではないかとの疑いを挟んでしまう応えが響く。すると晴天の太陽のごとき光を宿していた双眸は、たちまち厚い雲に覆われた月となった。曇ってはいるが、しかし光を宿しつづける。

「五行怪事なんて、ただの偶然だよ。君もいつもそう言って、怒ってたじゃないか」

「しかし、」

 艶やかに彩った唇を僅かに尖らせた皇后は、夫の瞳に差した色に、慌てて黒髪を結い上げた頭を垂れた。

「……女の身で、差し出がましいことを申してしまいました」

 窈児もやはり、緊張していたのだろう。今になってやっと気づけたが、目前の夫は皇帝にしては質素な衣服に身を包んでいる。ということは、念花堂に赴くつもりだったに違いない。

 念花堂とは、前帝の御代に、当時は皇太子ですらなかった成偉のために建てられた離れであった。前帝――崩御後に贈られた廟号は英宗――は優玉と同じ司馬一族出の皇后が生んだ明哲な皇太子ではなく、優秀とは言えないが見た目も中身も己にそっくりな成偉を可愛がっていた。何よりこの父子は、画業においては師と弟子という関係でもある。そして夫の才は、父たる帝を遥かに凌ぐものだった。

 しかし現皇太后、当時の貴妃さい氏は、絵に逃げてばかりの息子を叱咤し続け、時に筆などの道具を成偉の目の前で打ち捨てさえした。母に似て利発で聡明な興誠こうせい長公主ちょうこうしゅ――成偉の妹は、兄をいささかも庇おうとしなかったという。嘆く愛息子であり愛弟子の姿を見かねた英宗は、成偉が心行くまで本業に没頭できる場所を作らせたのだ。それこそが念花堂である。

 ……司馬皇后が廃位され、母子ともに庶人としての死罪に処せられていなければ、お兄さまの画才は皆が何の含みもなく賞賛するところだったでしょうに。

 窈児も、幾度か成偉の手による山水画を鑑賞した経験がある。だからこそ、彼に対する哀れみを抑えられそうになかった。

「妾は女子おなご。殿方の深遠なるお考えを理解できる知性など、端から持ち合わせてはおりませぬ」

 言外に、本業に勤しむ時間を奪ってしまって申し訳ないと詫びる。すると、成偉は表情の少ない面をぐしゃりと歪めた。

「そ、そんなことはない! 君は僕などよりもよほど優秀だ。僕は、どんなに君を頼りにしていることか」

「でしたらどうか、内々に五行怪事を追い続けるという、妾の身勝手はお許しくださいませ。夫のために仕事に取り組むのは、婦徳の一つでございますもの」

「もちろんだ。君は、僕のような不甲斐ない夫には勿体ない妻だよ」

 これで、皇帝の許しは得られた。父の妨害を受けても、皇帝の権威によってねじ伏せられる。

 多少思惑とは異なるものの、首尾よく目的を達せられた。しかし皇后は、喜色をおくびにも出さなかった。そうして表面上は淑やかに退出した皇后は、輿に揺られながら熟考せずにはいられなかった。吾子を授かれたのは奇跡だ、と。

 画業に熱中するゆえか、あるいは心に決めたただ一人の女への愛ゆえか。成偉はいずれも高官の娘揃いの妃たちの存在を、半ば忘れ果てている。入宮してから一度のお渡りもなく、日々時を空費するばかりの彼女たちの心情は、皇后として定められた折に拝礼を受ける、僅かな間だけでも痛いほどに察せられた。

 だのに窈児が龍宝の母となれたのは、この後宮において唯一の正式な妻だからか。あるいは、生家と父の権勢を、夫なりに慮ったゆえなのだろうか。いずれにしても、己が女として愛されているからではないのは明らかだった。窈児としても、それが心地よかった。窈児は、己は絶対に愛されないと確信していたから、成偉の妻となることに同意したのだから。


 ◇


 毛並みも見事な二頭の馬が、市井から宮廷への道を進む。都に居を構える高官は、会議を控える日には明六つには宮中に参内するのが常である。よって彼らは、陽とともに床を抜け出すのだ。

 早起きはまだ年若い身にはいささか酷な務めである。だが優玉自身は父と駒を並べて宮殿に赴く時間を満喫していた。

「学業に励んでいるか、優玉?」

「はい。皇子様がたと研鑽を積むのは楽しいです」

 皇帝より直々に声がかかり、宮中にて父が政務に励んでいる間、優玉は皇子たちと席を並べる日々が始まってから、早一年が過ぎた。

 ――そなたもいずれは司馬家の子息として、皇太子を支えるべく宮中に出仕する身。それが少し早まっただけと考えて、気楽に過ごしておくれ。

 優玉に又従兄弟でもある皇太子の学友となれ、という命を下したのも、他でもない皇帝である。それは唯一の正妻である司馬皇后――悍婦として評判の父の従妹に憚るがゆえかもしれない。しかし、最初に学友として宮中に参内した日、内々に優玉に声をかけてくれた皇帝の眼差しは、どこまでも穏やかで。

『幾度か、皇后の元に赴く姿を見かけていたのだが、そなたは本当に花綬かじゅに――余の寵姫に瓜二つだ。血の繋がりとは、まこと不思議なものだな……』

 かつて寵愛をほしいままにし、あまりにも早すぎる死の後に皇后に継ぐ座たる四夫人の一つ、賢妃の位を追贈された叔母。主上の解語の牡丹と称えられた女性のあざなを呼んで涙ぐむ男の姿には、畏敬よりも哀れみを抱かずにはいられなかった。

『余と花綬に子がいれば、そなたのように育ったやもしれぬな。だからどうか、宮中では余を父とも想って過ごしておくれ。臣下の礼など要らぬ』

 帝が絞り出した哀訴・・には、恐れ多くて頷けなかったけれど。

 主上は高賢妃を――優玉の母の妹を心から愛していたのだ。優玉が生まれる少し前に亡くなってしまった彼女の面影を、今でも忘れられないほどに。その胸の裡は、心から理解できた。

 もしも、優玉が小鳳を喪ってしまったら。優玉もきっと、生涯彼女の面影を偲んで過ごすだろう。あるいは、悲しみに耐えられず自害してしまうかもしれない。

 婚約を結んではや二年。優玉はもはや、小鳳以外の者を妻になどと、考えることすらできなくなっていた。

 男女七歳にして席を同じゅうせず、という警句がある。堉のみならず周辺の蛮国ですら貴ばれている礼教の祖が説いたとされる戒めだ。

 あるいは天子よりも尊敬を集めている聖人の教えに従うのなら、もう十二になった自分たちが、みだりに顔を合わせるわけにはいかない。婚約が成った宴の前に、一度彼女と会わせてくれただけでも、感謝しなければならないぐらいだ。

 しかし優玉は、小鳳ともっと一緒にいたかった。だから宴の後も、幾度となく何宰相の屋敷に通ったものである。ある時は父に無理を言って。ある時は、一人でこっそりと。

 しかし、最初は自分たちの様子を微笑ましく見守ってくれていた何家の者たちも、次第に眉を顰めるようになっていった。きっと、自分たちが成長したためだろう。特に小鳳など、あと三年もすれば笄礼けいれいを行い、あざなを得る――大人の女性と認められる年頃なのだから。それでも優玉は、小鳳との時間を諦められなかった。

 優玉にとっては都合が良いことに、何氏の屋敷の隣は空家で、その敷地の壁の近くには枝ぶりも見事な木が一本生えていた。木に登って枝伝いに塀に下りれば、小鳳の元まで忍んで訪れられもする、絶妙な場所に。

『優玉さま。どうか、危ないことはなさらないで。もしも優玉さまがお怪我をなさったら、小鳳は悲しいです』

 優玉が彼女を訪れると、小鳳はいつも眉尻が下がった可愛らしい眉を曇らせる。でも次の瞬間には、輝く笑顔を見せてくれるのだ。

 小鳳とはもちろん文も交わしている。考え抜かれた文面と見事な手には感嘆するばかりだ。それでも、生身の彼女には及ばない。父はいつも、優玉が科挙の進士科に合格したら、小鳳との婚礼を挙げさせようと言っている。彼女も、いつまでも待つと約束してくれた。けれども、あまり待たせすぎてしまうと呆れられてしまうかもしれない。小鳳の父も祖父も曾祖父も、進士科に合格して官吏となったのだから。

 進士科は、まだ紅顔の頃から数え切れぬほど挑み、総白髪になる頃にやっと合格する者も珍しくない難関だ。だが小鳳の周りには、狭き門を潜り抜けた者などあり触れているのである。科挙及第者を多く抱え、そして子弟に進士科を突破させるべく教養を付けさせているのは、司馬家も同様だった。あまりうかうかとしていると、同門の誰かに小鳳を取られてしまうかもしれない。

 彼女の期待に応え、そして彼女への愛の証とすべく、通れば栄達を約束されたも同然の進士科を状元いちばんで及第する。それも、一族の同世代の誰よりも早く。少年が抱く大志は、祖父の三男である父が遅くに設けた一粒種である身には、いささか無理難題にすぎるかもしれない。けれども優玉は許嫁との未来のために、日々経典と向かい合っていた。

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