ささくれのその“先”
翁
第1話
「ささくれってどこまでむけるんだろーな」
子どもの頃の、なんともくだらない思いつき。当時好きだった男の子の言葉じゃなかったら、とうの昔に忘れていた。
連絡先すら知らないけれど、彼のこういった冗談は、大人になった今でも素敵に輝く思い出だ。「ささくれってどこまで剥けるんだろーな」なんて、周りの大人が聞いたら一笑に付してそれっきりだと思う。でも、今の私にはそういう微笑ましさが必要だった。
少し、疲れているのだと思う。
昔憧れていた大人の世界は、憧れていた通りにはいかないまでも、結構楽しい。やりたいことは割とできるし、有頭エビフライの食べ方だって分かる。しかし、それには責任が伴った。色んなことが冗談では済まなくなって、ノスタルジーは机の上の限定品だと気づいた。
いや、気づいたのではなくて、私がそう思い込んでいるだけかもしれない。
世界がつまらないわけじゃない。世界をつまらなくしているのは、いつだって私の方。
そう、私は、世界を面白くしたかった。弁解の余地はないけれど、動機はこんなところかな。
もう分かったと思うけれど、今私は、
"ささくれを限界まで剥いてみた"
もう既に肘の辺りまで剥き切った。いや、この言い回しは不吉だから、「剥いている」と言っておこう。なが〜いささくれで露わになった皮膚の下が、空気に触れてヒリヒリとする。けれど、ノスタルジーが机の上から羽ばたいたという実感が、その痛みを快感に昇華させている。元来人間というものは、わざわざ耐え難い苦痛をかっくらって己を満たす習性を備えている。そう、人間は不合理な生き物なのだ。くれぐれも勘違いしないでほしいものである。私は自分の皮を剥いて興奮するマゾヒストなんかではなくて、逃れられない人間の特質を、正面から受け止めているだけだ。ドストエフスキーもそんなことを言っていたことを気がするし、何もおかしいことじゃない、はず。うん、多分。
始終こんな様子で、なんとか頭に浮かぶ疑念をかき消しながら、ここまでやってきたのだった。当初は肩まで辿り着ければ上出来かな、と思っていた。しかし、なんと素晴らしいことに、すでに折り返し地点に到達している。この分では余裕だなあ。本当に限界まで剥けてしまうのではないか———そう、軽く考えていた。私が最も恐れていた、あの事態に陥るまでは…………。
飽きた。
やたら痛いし、思っていた以上に疲れるし。長いささくれというものが、こんなにもストレスだったなんて。確かに、ささくれといえば、「見た目より痛いものランキングトップ10」常連の猛者である(因みに、1位は鼻うがい)。そんな痛みとストレスの元凶をここまで育てるなんて、正直どうかしていたと思う。「面白いこと」なんて、他にいくらでもあるはずなのに。ノスタルジーが爆発した末の行動だとしても、少しやり過ぎたな、と思う。私の腕にできあがったささくれと言えば、もしここを通ってエネルギーが供給されるとしたら、指先からレーザービームが撃てそうなほど立派で……いや、本当に何言ってるんだろう。少し落ち着いた方がいい。
めくりあげた皮をさっさと切ってしまおうか思ったけれど、せっかくなので友人に見せることにした。直接見せに行って周囲から奇人扱いされることは不本意なので、写メを送りつけた。
『ホントにやってる人初めて見た爆笑』
『どういうこと??』
『ほら、ちょっと前にバズったじゃん。配信者がささくれめっちゃ剥くやつ。あれの真似したんじゃないの?』
そう返信がきた後、続いてその動画のリンクが送られてきた。動画を見てみると、確かに、私と同じことをやっている。しかもあろうことか、その動画の投稿者は、ささくれを肩甲骨の辺りまで到達させていた。はっきり言って、完敗だ。ただささくれの長さで負けたというだけじゃなく、あの男の子への想いでも負けた気がした……。自分自身がどんなに破天荒だと思ったことも、往々にして先駆者がいるものだ。結局私は、大事にしまっていた宝物をわざわざ引っ張り出してきた挙句、乱暴に扱って傷をつけただけなのかもしれない。
とかなんとか考えてみたけど、別にそんなに気にすることでもないか。ささくれを肩甲骨まで剥けなかったからなんだと言うんだろう。結果として負けはしたが、承認欲求を得ようとしてささくれを剥いたこの動画投稿者よりも、昔の恋慕に殉じようとしてささくれを剥いた私の方が、この「ささくれ」という現象を楽しんだに決まっている。それに、私はこんな動画のことは知らなかったのだし。自分の発想力が多くの人を愉快にさせられるのだと考えると、それはとっても素敵なことだ。
私は、自ら行動することよって世界を少し愉快にできた。今はそれで充分だろう。
めくりあがった皮を切りながら今後のことを考えていると、また楽しい気持ちが湧き上がってきた。さあ、次は冷凍したお好み焼きでフリスビーでもしてみようかな。
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