第2節『神秘と葛藤と』

「ついに、ついにこの時が来たのだ!」

 達成感と興奮に衝き動かされて、男は震えていた。

「これで、肉体がもたらす下劣な欲求に支配されることなく、霊の清潔と純真を保つことができる。」

 これから訪れる魂のけがれからの完全なる解放を思うと、涙が頬を伝っていった。待ちに待った瞬間がまもなく到来するのだ。その手には神秘的な魔法光を放つ特別なペンが握られている。またその眼前には、小さな神という名の、四大天使とは異なる、もう1柱の大天使、『大エノク』との契約を実現ならしめる神秘の羅針盤が鎮座していた。その手に握りしめた特別の聖筆で、そこに自身の名を記すならば、その大天使とのよすがが結ばれ、時と空間を含むあらゆる法則を支配できる全能の叡智を授かることが叶うのだ。そうすれば、霊性は無垢に清められ、魂の座には、純粋で高潔な、完全なる精神を迎えることができる!そう思うと、ペン先は一層小刻みに震えて的が定まらなくなった。男は、震える右手首を左手で支えて、その羅針盤に署名を施していく。一文字、一文字、その不思議な素材で形成された透明なガラス板のごとき盤面に、最高知性へと導くというその羅針盤の上に、自らの名前を刻んでいった。

 署名を終え、大きく息をつくと、その羅針盤はまばゆい魔法光を放って、たちまちの内にその男の全身を包んだ。刹那、男の精神には、星々や世界の創造と終焉に関するありとあらゆる神秘と秘術の知識が流れ込んでくる。胸元からは、何か濁って複雑な色をしたものが抜け出ていき、そこにできた空洞に魔法の鍵のようなものが静かに座していった。魂の座が清廉な神秘に満たされたまさにその瞬間であった。


「これで天上の神秘に直接到達し、けがれに満ちた救いようのないこの世界を新しく創り直すことができる。悲しみを消し去り、絶望を除き、拒絶をなくすことがついにできるのだ。世界は喜びと愛、歓喜と祝福の歌に満たされる。もはや涙は、喜びの他で流されることはなくなるだろう。それを実現する力をついに得たのだ。残る過程はあと少し。この鍵でかの門を、現世と神秘を隔てるあの門を開きさえすれば、すべてのことは完了する。魂の座に仕舞われた鍵を再び引き出すには媒体が必要になるが、その準備はすでに整っている。あと少し、あと少しだ!」

 そう思って男は静かに目を閉じた。その身体は、神秘が支配するまばゆい魔法光に包まれ、その精神を永遠の知識と法則が満たしている。男は深い満足と大いなる期待に悦楽を得て、深く静かに瞑想した。


 * * *


 時を同じくして、深夜のアカデミーを徘徊する一人の女の影があった。それは美しい天使のシルエットのローブを身に着け、頭上には人為的に錬成された天使の輪をいただいている。葬送の儀式が執り行われる聖堂に至り、地下の納骨堂へと通じる入り口を探しているようだ。

「情報通りなら、地下研究施設は納骨堂を抜けた先にあるはず。あれだけアカデミーに通っていながらその場所を把握していないとは…。」

 彼女は自分の不勉強を悔やみつつ、あたりを丁寧に見て回る。どこかにきっと入り口があるはずだ。聖堂の会堂側から祭式用の祭壇に至るまで、立ち並ぶ長椅子の下を覗き込みながら、丁寧に見て回った。あたりは真っ暗だ。手にわずかな魔法の灯火を灯してはいるが、あまり明るく灯すわけにもいかない。不自由な目を必死に凝らして、目的物を視界にとらえようと奮闘する。やがて、祭壇の手前にまでたどり着いた。

「祭壇の裏にないのなら、きっとこの辺りにあるはずだ。」

 そう思ってあたりを見回す。すると、祭壇のちょうど前の床にそれは存在していた。

「あった!」

 思わず飛び出そうになる声を必死に飲み込んで、慎重にあたりを見回す。周辺では、『アカデミー治安維持部隊が』番犬よろしくうろうろと夜回りをしていた。彼女たちを退けるのは容易だが、任務の特性上、ここにいることを知られることの方がまずい。そう思って息を殺し、祭壇前にある納骨堂への扉に手をかける。当然にして施錠されていた。『不触の鍵:Invisible Keys』を用いるが、そこにはよほど重要なものが隠されているのであろう、一般的な出力ではすぐに開錠できなかった。

「やはい、納骨堂の先に何かあるのは間違いない!」

 そう思い定めて、重い扉をゆっくりと開いていく。引き戸が立てるキィキィという音が外に漏れないよう慎重に気配りしながら、戸を静かに開けきると、そこには地下へ続くと階段が伸びていた。


 女の影は、再度あたりを見回し、他人の気配がないことを慎重に確認してから、階段を降りて納骨堂に向かい始めた。本来、納骨堂はそれほど頻繁に人が行き来する場所ではないのだから、埃が積もっていてもよさそうであったが、その予想に反して、階段は毎日人の往来があるかのように、綺麗な状態を保っていた。納骨堂の中は一層暗く、夜目が効かない。手元に灯した魔法の灯火をいくばくか大きくして、更に前進する。問題はここからだ。この納骨堂の先に、アカデミーが秘密裏に運営する研究施設があるはずなのだ。まずはその入り口を探さなければならない。

 目を凝らしながら、あたりを見て回るが、納骨用の小箱が棚状に立ち並んでいるほかは、これといったことはなかった。ただ、部屋の中央には、そこに安置されている人々の名を刻んでいるのであろう銘板が、大きな台座の上に設置されていた。それを間近でよく観察すると、タイル状に敷き詰められた銘板のうちのいくつかが抜け落ちている箇所があり、その下のテーブル上の部分に、ちょうどその抜け落ちた箇所にあてはまりそうなアルファベットの金属板が複数置かれていた。開いているのは5か所。置かれているアルファベットは多種多様だ。中には記号も混じっている。空所にアルファベットの金属板を適切に当てはめると鍵の作用をするのであろうことは予想できるが、組み合わせが膨大すぎる。でたらめに当てはめていたのでは、途方もない時間がかかってしまって手に負えない。

「アルファベットで5文字…。」

 彼女はありとあらゆることを思い出していた。初めて『アーカム』を訪れた時のこと、リリーの店でアルバイトした日々のこと、正体不明のP.A.C.という異形と交戦したこと…、これまでの経験に何かのヒントがあるかもしれない。P.A.C.では文字数が足りない。念のため試してはみたが、やはり効果はなかった。それ以外でアルファベット5文字の何か…、そう漠然と考えていた時、1つの考えに思い至った。

「M.A.R.C.S.だ!」

 魔法社会の古い童話に登場する『魔法のお印』というような意味の言葉。それはアーカムに至る鍵でもあった。

「試してみる価値はある!」

 そう思って、彼女は、プレート下の台上に乱雑に散らばるアルファベットの金属板から、M.A.R.C.S.の5文字を見つけ出し、左から順に、銘板の空所にあてはめていく。最後の S を入れ込んだ時、小さく「カチャリ」と金属音がした。よく見ると、その銘板と金属版を据える台座の下に、一見してすぐには分からないほど微妙に、扉と思しき境界線が描かれてある。その左手に刻まれた不自然なくぼみは、いかにもその扉を開くための取っ手のようにも見えた。

 そのくぼみに手を入れて引いてみると、それはゆっくりと口を開く。

「やった!あたりだ!」

 そう小さく呟いて、彼女はその扉の中に入っていった。


 * * *


 扉をくぐると、ほどなくして下に繋がる階段が姿を現した。その入り口と階段は狭かったが、下りきった先には眼前に広い廊下が広がり、その空間は青白く淡い魔法光の照明に照らされていた。


「ここに間違いない!ついに見つけた!」

 そう呟いて、一方の壁にぴったりと身体を寄せながら、ゆっくりと先に進んで行った。しばらくの間は、まっすぐに廊下が続くばかりであったが、やがて、その視界はひとつの扉を捉えた。その扉が、秘密の研究室の入り口であることは疑いようもない。

 女の手に汗がにじむ。俄かに緊張感が高まってきた。呼吸を整えて落ち着きを取り戻そうと図る。緊張で手と膝が震える。必死でそれを抑えながら、扉に近づいていった。幸いにして、魔法による『監視の瞳』は配置されていないようだ。もしかすると、常時の監視に堪えられないくらいの悪辣がその内側で展開されているのかもしれない。そう考えると緊張の上に恐怖が覆いかぶさってくる。

 静かに扉の横に取り付く。鍵はかかっていたが、高出力の『不触の鍵:Invisible Keys』の術式を行使すると、幸いにもそれは戒めを解いてくれた。


 横開きの扉を静かに開いて中に忍び込む。その中は、特別な魔法によって空調が施されているのか、周辺よりも明らかに気温が低かった。それは、その内部で何らか生物を扱う実験がされていることを示していた。

 あたりを慎重に見まわすが、何者かが警戒している気配はない。そう確認してから手元の魔法光を大きくし、あたりを照らし出した。その時だ!目の前のガラス越しに、天使の姿をした人物の姿が現れたのである。


 それは生きているようではあったが、動くわけではなく、ただ虚空を静かに見つめていた。年端も行かない少女を素体にしていることだけは明らかだったが、いったいどのような非道を行えばこのようなことができるのか、俄かには理解が追い付かないほどに、その姿は変わり果てていた。顔こそ、人間の少女のそれであったが、身体はエーテル状の透明な器の中に、錬金的というべきか人工的というべきか、言葉の選びようのない不自然な構造体がはめこまれており、それがすでに人間を失っていることだけは明らかだった。頭上には天使の輪が輝き、その背には翼が広がっている。それは、つい先日アカデミーで犠牲になった少女の姿と非常によく似ていた。その異形の存在は、動くでも話すでもなく、ただただ静かに視線を虚空に送っている。透明な体内をほとばしる魔法光だけが、その生命がまだ潰えてしまってはいないのだということを、物語っていた。


 驚きと恐怖を隠せないまま、研究室の内部を見回る。貴婦人からは、「何を見ても絶対に何もするな。そこにいたことを気取られてもいけない。」そうきつく言いつかっていた。許されざる生命への冒涜を前にして、胸に突き上げてくる怒りを必死にこらえながら、ガラス窓の下に目をやると小さな金属製のプレートがあり、そこには犠牲になった少女の名前に加えて、「適正あり。因子に反応」と記されていた。よく見ると、周囲にも同じような犠牲者たちが、ガラスの中に一種の陳列をされており、各々に付されたプレートにはどれにも同じ文言が刻まれていた。

 どうやら、何らかの「因子に適性」があると『天使化』とでもいうべき現象が発現するらしいことがわかる。犠牲者の陳列棚はなおも続いた。その傍らには、彼女たちを動かす時に着せるつもりなのであろうか、白衣のような独特の様相のローブを身にまとったマネキンが数体立ち並んでいる。

 実験台と思しきところに目をやると、不思議な、卵のような物体が陳列されており、その下にも同じようなプレートが設置されていた。そのプレートには、やはり少女と思しき名前と、日付が刻まれている。その中に、「7月20日摘出:被検体ニーア、摘出時の状態死亡も卵は健在」と記されたものがあった。


 進んでいくほどに、もはやそれらが何であるか、俄かにわからないものばかりが陳列されている場所に出た。しかし、それらが、アカデミーに所属する少女たちの、そのかけがえのない生命と人生を犠牲にした、おぞましい「何か」であるということだけは疑いようもない。調査のために、その卵らしい物体を持って帰ろうかとも考えてたが、「決して何もするな」という戒めを思い出して思いとどまった。


 * * *


 その研究室はさらに奥に続いている。すでに十分な非道を目にしていたが、その全てを把握するのが今回の務めだ。女は意を決して、更に深淵へと足を進めていった。深部は照明も暗くなり、その不気味さを一層際立たせている。

 研究成果を記した文書が積み上げられているのであろう机を前にして、手に灯した魔法灯火の出力を更に大きくすると、その内容を読み取れるようになった。手にした文書は、『霊性の穢れと純潔のために』と題されている。ページをめくる手は次第に怒りに震えた。それほどまでにおぞましいことが、その文書には記されていたのだ。以下にそれを紹介しよう。


『霊性の穢れと純潔のために』


 創世年紀2319年4月18日

 アカデミー最高評議会 議長殿

 概 要:研究における極めて核心的な要約


 天使の卵による天使化は、被験者の身体的・魔法的能力の外延を著しく拡張し、伝説的な天使に近い転身を果たす成果を得ることに成功しました。しかしながら、生体を被検体として用いる以上、その霊には肉体的その他の要因に影響される霊のけがれによる魂の瑕疵かしがあり、その精神を完全な神秘の知性的器うつわとするには不完全であることがわかりました。そこに無理に神秘を送り込むと、暴走して自己破滅します。また、肉体的拡張も、極めて強力ではありながら不完全で、純潔で純真なけがれなき魂のための万能なうつわとすることはできません。


 そこで、考えられるのが、『堕天使の卵』による一時的なアンデッド化を経由した天使化です。人間から天使に直接転身させるのではなく、人間から、肉体の死であるアンデッドに一度変異させることで、死による霊性の洗浄を行い、― すなわち、霊性の座=魂を空白に戻すこと ― によって、素体からけがれを取り去ることによって、純然たる神秘的知性の流入に耐えうるうつわとできるはずです。霊のけがれがなければ、各種の欲や嫉妬、憎しみといった負の感情にとらわれることなく、純真に、善、愛、正義、慈しみといった正の属性だけをもった新しい生命体の創生が可能になります。


 この秘術を用いて人間を創り変えることで、我々人類は、悲しみや裏切り、絶望といった負の側面から解放され、喜びと愛、善と友情といった正の要素だけに満たされた美しい世界を再構成できるようになるのです。これは、人類の再創造、ひいては世界再構築の試みであり、私はこの秘術を、古き創生の神話になぞらえて、M.A.R.C.S. と名付けたいと思料します。この M.A.R.C.S. 計画が完遂したときには、人類は魂の解放と革新、その霊的自由と救済を手に入れることが遂に実現するのです。多大な犠牲を伴う秘術ではありますが、躊躇ためらう余地も必要もありません。人類の、魂の救済と、神秘の受け入れに足る全能化のために、これはすみやかに完遂されなければなりません。懸命なご判断を請います。


 作成者:■■ー■■■ル■■■


 それを読む手は怒りに震え、いまにもページを引き破かんばかりであった。人間の魂からけがれを取り除くために、一度人為的にアンデッド化してから、次は更にそれを天使に変えるという。その身体と霊は、天上の神秘を授かるうつわとして機能し、愛や喜びでそれが満たされるというのだ。その文書の著者は、それこそが人類の解放と革新、自由と救済になるのだと、躊躇ためらいなく断言している!そんな馬鹿なことがあってたまるか!人生に、不如意や困難、裏切りや絶望といった負の側面が常に付きまとってくることは間違いない。しかし、それらの経験をも自らの血肉に変えて成長し、心を鍛え、精神を磨き、魂を健全に保って自分らしい自分だけの道を歩んで行くことこそが、人生であるはずだ。人為的に空っぽにした霊性の容れ物を、ただ喜びと愛で満たしたとして、完全な人生ができあがるなどということは断じてない!書類をめくるその手に一層の力が入る。こんな非道と滑稽を許すわけにはいかない!この計画こそ、尊い人間存在への恐るべき挑戦であり、冒涜である。彼女はそう思い定めて唇を強くかみしめた。

 自由とは与えられるものではない、求めるものだ!そういって書類を机の上にたたきつけた。怒りでその全身が小刻みに震えている。美しい瞳が涙をたたえていた。こんな非道のために、アカデミーの学徒達が無差別に犠牲にされつつあるのだ。なんとしてもこれを止めなければ!

 そう言って立ち並ぶガラス窓を見やると、そのアンデッド化を経由した天使化なのであろう、おぞましい実験の被験者が、哀れな姿をそこにさらしていた。それはもはや、生きているのか、すでにこと切れているのか、それすら判断できない様相だったが、瞳だけは妖しい魔法光に彩られている。


 とにかく証拠を確保するために、周囲にあるものを片っ端から魔術記録に収めていった。犠牲者たちのその哀れな姿は直視に耐えなかったが、この非道を止めるためと覚悟を決めて、彼女は手を動かし続けた。怒りからくる涙と震えがいつまでも止まらない。

 最後に記録したのは『人為の堕天使の卵』と呼ばれる物体であった。


 あらかたの証拠を記録に収めてそこを立ち去ろうとした、その時だった。

 確かに誰もいなかったはずのこの場所に、人らしきものの声が響いた。


 * * *


「ここを見たからには生かして返すことはできん。」

 どこか、聞き覚えのある声だった。以前よりはいくらか自然で人間らしい響きにはなっているが、それでも人工的で禍々しい響きを相変わらずたたえている。

「やはり、来たようね!」

 そう言って振り向くと、ローブを目深にかぶった、いかにもおぞましい存在が静かにそこにたたずんでいた。


「ここを見ることは許されない。お前は誰だ?」

 謎の影が問う。

「あなたたちに同情する者よ。」

 彼女は皮肉をきかせてそう応えた。

「愚かな。同情など不要だ。我々はいずれ完全な存在になる。不完全な人間であるお前たちとは厳然と区別されるのだ。」

「それで、あなたの人生はどこで報われるのかしら?」

「人生など不要だ。幸福と愛、喜びと友情、この身の全てがそれらに満たされる日を待っている。」

「へぇ、善で彩られた飾り物になろうというわけね?」

 以前よりは会話が成り立つようになった。アンデッド化によって霊性は失っていても、精神は完全には崩壊していないようだ。しかし、説得が通じる様子でもない。

「善、それは至高。善、それは完全。善、それは愛。」

 そう言うなり、両手に魔力をたぎらせて今にも襲い掛かってきそうなそぶりを見せた。

「ここで、そんなものを使ったら、せっかくの研究が台無しよ?」

 不気味な影は、その言葉の意味が分かるのか、一瞬怯みを見せる。

「場所を変えましょう。ここは私にとってもいろいろと不都合なのよね。」

 そう言うと、彼女は大出力の『転移:Magic Transport』の術式を繰り出して、その異形ごと、アカデミーの北にある荒野にまで転移した。相手を道連れにそれだけの長距離を一気に移動するとは、身にまとう装具の力もあるのだろうが、その女自身が、かなりの魔法力の持ち主なのは間違いない。


 夏の深夜の荒涼とした原野に、謎の魔法使いと哀れな異形が対峙していた。

「さぁ、ここならいいわよ。あなたが今どれほど幸福なのか存分に見せてちょうだい!」

 そう言うや、彼女は『炎の潮流:Flaming Stream!』の術式を繰り出す。十分に強化されたその潮流は、炎の津波のようにして異形に襲い掛かった。異形は、片手で特大の防御障壁を展開してその影響を巧みに避けながら、反対の手で『招雷:Lightning Volts』の術式を繰り出してくる。

 彼女は、身体を巧みにひるがえしてそのすべてを華麗にかわしていく。身に着けた天使のローブに備わる翼は、ただの飾りというわけではなく、虚空のローブと同様、反重力作用と飛行能力を持っているようだ。両者の激突は、さながら天使対堕天使という面持ちをかもしていた。

 異形は続けざまに強力な魔法を繰り出す。今度は『貫通衝撃:Strike Impact!』だ!貫通性の高圧の衝撃波が彼女を襲う!それは障壁を突き破るが、ローブと一体になった魔法金属製の軽鎧がその効果をはねのけた。その衝撃を意にも解さず、彼女は殲滅性の術式を矢継ぎ早に繰り出してみせる。


『水と氷を司る者よ。この手に水流を束となせ。一陣の清流を生み出し、その高圧で我が敵を薙ぎ払わん!収束線流:Water Raid Beam!』


 その手からほとばしる水流は、光線のようにして高速に周囲を薙ぎ払い、それに触れたものを高圧で瞬く間に粉砕していった。水流は異形のまとうローブの裾を大きく断ち切ったが、惜しくもその体幹や四肢を的確にとらえることはできなかった。その身体に生えるおぞましい翼もまた、飾りというわけではないようで、上下左右に巧みに移動してその直撃を避けきったのだ。

「なかなかやるわね。あなたには同情するけど、でも、いつまでも構っていられる余裕はないのよ!」

 そう言うと、女は詠唱を始めた。


『火と光を司る者よ。我が手に厚い雲をなせ。そこから火の雨を降り注がせよ!すべてを焼き払え!焼夷の雨:Burning Rain!』


 彼女が掲げる手の上に、炎の雲がうずたかく積みあがり、あたりを俄かに明るく照らし出した。周囲は一瞬、さながら真昼用のようになる。


 異形は、背の翼を活用し、また『転移:Magic Transport』の術式を小刻みに使用して、位置を連続的に変えながら彼女と距離をとっていくが、その炎の雲から一斉に降り注ぐ火の雨から逃れることはできず、その身とその周りにまとわりつくローブはすべて焼き尽くされてしまった。

 堕天使はおぞましい悲鳴を上げて燃え上がり、数多の火の粉を巻き上げながらもだえ苦しむその動きに伴って、ローブが剥がれ落ちていく。


 そして…。


 それは見るもおぞましく、哀れな姿をその場にさらした。


「なんてひどいことを…。」

 目の前で惨たらしく非人間的な姿をさらすその存在にも、かつては人生があり、それは夢や希望、愛や喜びで満たされていたはずなのである。しかし今のその姿は、絶望や裏切りなどよりもはるかに非情なものに見えた。


 その哀れな姿はなおも翼を広げて襲い掛かってくる。翼に絡みつく複数の腕が、複雑に絡み合いながら翼を繰り出し、残る2本の腕が魔法の術式を撃ち出してきた。あの無数の腕にもかつては持ち主があったはず…、そう考えると胸が締め付けられる思いがした。

 剥き身の堕天使が『殲滅光弾:Strike Nova』の術式を繰り出そうとした、まさにその瞬間、女は、術式媒体であろう剣を抜いて、詠唱を始める!


『閃光と雷を司る者よ!法具を介して加護を請わん。我が手にその力を預けよ!神秘の門を開き、ほとばしる稲妻によって己が敵を薙ぎ払え!光の剣:Photon Blade!』


 天から一筋の雷が舞い降りたかと思うと、たちまちそれは彼女の剣を包んで巨大な閃光の刃をなし、驚くべき質と量をもって、周囲を一気に薙ぎ払った。哀れな異形は、その閃光の中でなすすべもなく塵と消えていく。その光の刃は、まるで周囲を空間ごと引き裂いてしまいそうな、それほどのすさまじさを演出していた。


 あたりを『バレンシア山脈』から吹き降ろす季節外れの北風がなでおろしている。その乾いて冷ややかな風が、彼女の美しい髪をなびかせ、その額と首筋の汗をさらっていった。


 彼女はいったい何者であるのか?その卓越した魔法能力はいったいどこから引き出されているのか?何もわからぬままに、その場を吹き抜ける風は、異形の燃え滓をさらいながら、雲を運んで月を覆い隠していった。月明かりを失って周囲は俄かに真夏の漆黒に覆われる。その闇を照らす『転移:Magic Transport』の魔法光とともに、女の姿は消えていった。


 * * *


「署名をさせてしまってよかったのですか?」

 エメラルドの瞳の少年が訊ねる。

「あの署名さえ拒否すれば、少なくともこれ以上の大事は防げましたのに。」

「そうね。あなたの言うことは正しいわ。でも、あの法盤と聖筆による儀式には、私の意思がその全てには及ばない側面があるの。特にあの名で呼ばれて契約を迫られると、法盤に名を刻んだ者と契約を交わすこと自体が、また一つの約束として機能するのよ。」

 そう言って、その人物はお茶を一口傾ける。

「しかし、これで彼は扉に到達し、剰えそれを開くかもしれません。その時はどうされるのですか?」

「そうね。そのときはもう一度、拒絶するしかないわね。誤った神秘の節理をこの世界の運航に組み込むことはできないもの。だからね、私はその役目を彼女にお願いすることにしたのよ。」

「そうですか。彼女なら間違いなくその期待に応えてくれるとは思いますが…。」

「その代償として彼女には人間を捨ててもらわなければならなくなるわね。確かに、彼との契約を拒んでいればその事態は避けられたわ。しかし、既に運命の歯車は動き出してしまったの。」

「貴女でも、先を見誤ることがあるのですか?神秘を直接見通すことのできる御力をお持ちなのに。」

「あら、買いかぶってはだめよ。我々とても、それほど先のことまで正確に見通せるわけではないわ。そもそもあの一言が、彼をこんな狂気に捉えるとは思ってもみなかった。彼が見かけよりも、はるかに純真で愛を重んじる存在だとはわからなかったし、あの時はただ、存在の基盤が違うから、彼の提案に乗ることはできないという、それくらいの意味でしかなかったのよ。ところが、彼には、それが魂の拒絶に映り、その原因を自身の霊性のけがれにあると考えるようになってしまった。ある意味では私の思料不足が招いた種ね。だから、その責任は私がとらなければいけないわ。どのような形に帰着するかは分からないけれど、できれば彼をその呪わしい思い込みから解放して、生を離れる代わりに、複雑に捕らえられた神聖な運命から解き放たれて欲しいと願っているわ。私の目的は、彼の精神と心の自由なの。私自身で導くこともできないことではないけれど、今回のことで、彼とはまた新しいよすがが結ばれてしまったから、もう一度私自身が彼に拒絶の引導を渡すというのではあまりに救いに乏しいでしょ?それよりは、彼女に終焉と解放を任せる方が、ずっとその救いを大きく深いものにできる信じているの。結局は、私の自己満足なのかもしれないけれどね。」

 そう言って、また一口お茶を飲んでから、彼女は静かにすっとため息をついた。

 あたりを照らしていた神秘の光が静かにその場を暗幕で覆っていく。

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