第1章 最終節『闇に消える桃衣』

「お待たせしました。」

 聞きなれた声を聞いて安堵する。

 今、夜の10時15分を回ったところだ。合流は無事に出来た。すべてはこれからはじまる。

 深夜11時から、ここポンド・ザック街の一角で、大天使ガブリエルにまつわるさまざまの品物をやり取りするという闇市が開催される。アーカムで手に入れた恋の秘薬と引き換えにその情報を得たのは、今から4日前のことだった。黒髪のネクロマンサーは、この闇市の常連らしいケイティという名の少女から、見事にその情報を引き出すことに成功した。恋の秘薬を手に入れたケイティの機嫌は上々で、この闇市のどこで何が扱われているかまで、その知る限りを懇切丁寧に教えてくれたという。必要な情報はいま私たちの手中にあらかた揃っていた。真夏の夜の、むっとした暑さと湿気があたりを取り巻いている。

 声の主の姿を見て、ウォーロックは少し驚いた。

「まぁ、あなたそのままの格好で来たの?それって例の看護学部の制服でしょ?」

「ええ、着替える時間がなくて。どうやらアカデミーでも今日のこの闇市については把握しているようで、講義の後にそれはそれは随分と長いお説教と警告があったんです。本当は一度寮に帰って、ネクロマンサーの制服に着替えてから来るつもりだったのですが、ここまでの移動のことを考えると、その時間がありませんでした。」

「そんなに遅くまでお説教とは、ずいぶんね。」

「はい。木曜の看護科は準夜間講義ですから、終わるの自体が午後8時です。そこからあのお説教が始まって、私たちが解放されたときには、時計はもう9時に差し掛かっていました。アカデミーからここまで歩いて1時間少々かかりますから、着替えていたのでは間に合わない目算が高かったのです。それで、そのまままっすぐここに来ました。」

「なるほどね。でも耐性の方は大丈夫なの?」

 そう言われたネクロマンサーは改めてウォーロックの装束を見た。彼女が身に付けているのは、ブラウスとコルセット、そして丈の短いプリーツスカートから成る、術士の制服と呼ばれるいわゆるアカデミーの制服だが、特にコルセットはいくつかの防御呪印を配置することで、物理的と魔法的の両方の耐性を高めた特別のものを身に付けていた。ブラウスとスカートにも工夫があるようだ。確かに、これから闇市で窃盗犯に接触しようというのだ。せめて死霊科の制服にだけは着替えて来るべきだったかもしれない。ネクロマンサーの脳裏に後悔の念がめぐったが、今更いってみても仕方がない。

「ずいぶん、耐性に配慮した構成ですね。私ももっと考えるべきでした…。」

「私たちの学年だとまだローブは着られないから、せめて制服だけでもと思ってね。」そういってウォーロックはコルセットを強調して見せた。


「もうすぐ10時40分か。そろそろね。会場の方に移動しましょう。」

 ポンド・ザック街は普段から人通りの多い繁華街で、メインストリートの周辺は様々な商店や飲食店、趣味の店などが所狭しとひしめいて賑わっている。しかし、それとは反対方向の、何本か通りを奥に入り込んだあたりからポンド・ザック川にかかる小さな橋に向かう方角にかけては、蜘蛛の巣状に古い通りが入り組む迷路のような構造になっており、ケイティの話ではその橋にほど近い、特にたくさんの小さな裏路地が複雑に入り組む辺りが今日の闇市の会場なのだということだった。

 正直、こんな深夜に女二人でそんな場所に出向くというのはぞっとする話だ。好奇心よりも不安と恐怖が勝る。まして、これから接触しようというのは、あの有名な神秘の法具屋『アーカム』から法石の指輪をまんまと盗み出したという名うての盗人なのだ。ふたりの顔に緊張と心配の色がにじむ。

 狭い裏路地を幾重にも重ねていくうちに、あたりはどんどん光を失っていく。また、先ほどまで気味悪いほどに静かだったその場所に、にわかに人影が現れ動き出すのが感じられた。ひそひそとした声と物音がしきりに聞こえてくる。どうやら少しずつ、その闇市とやらが胎動を始めたようだ。

 ケイティから、制服を売るならここだと教えられた場所にとりあえずやってきた。

「10時55分。少しずつだけど取引はすでに始まっているようね。」

 緊張に震える声でウォーロックが語る。

「そうですね。急に人影が多くなりました。会話する声も目立ちます。始まったのは間違いないみたいです。」ネクロマンサーも周囲の気配に気づいていた。これから件の男を探し出さなければならないが、アーカムの店主、アッキーナの瞳と同じ色の法石の指輪を持つ男という以外に手掛かりはない。じっとしていても、その男と邂逅できる可能性は低いだろう。ウォーロックが一つの提案をした。

「闇市は午前1時までよね。ふたりでずっといっしょでは効率が悪いから、まずは別々にそれらしい男を探しましょう。それで、12時にまたここで落ちあって情報交換よ。」

 その提案は、合理的なものに思えた。なにより人知れず「自分の目的」を探す時間的猶予もできたわけだ。ネクロマンサーの内心は踊る。

「それがいいですね。そうしましょう。万一の時はポンド・ザック橋を抜けるところまで逃げて、そこで落ち合うということで。」

「わかったわ。そうしましょう。じゃあひとまず12時にここで。」

「はい。」

 そういってふたりは別れた。11時を回って、ますますその闇市の舞台はひそやかな活況に包まれてくる。ところどころに人だかりができ、競売のようなことが行われている。声を出すのは具合が悪いのであろう、誰もがなにやら手を頭上に高く挙げて、指を折ったり曲げたり、見たこともない仕方で値段らしきものを伝えている。ときどき、静かな歓声があがる。売買が成立したのだろう。

 狭く入り組んだ裏路地をあちこちに行ったり来たりするが、一向にそれらしい男の姿は見えない。というよりも怪しさで言えば、どれもこれもがそれらしくて仕方がない。酒の匂いを振りまきながら千鳥足で通りを蛇行する老人、人目をさけるようにこそこそと裏路地のより深いところへ消えていく男、袋小路に座り込んで、客を待っているらしい商人、どれがその盗人なのか見当をつけることも難しかった。

 そうこうしているうちに、早くも約束の12時が近づいてくる。この街では、深夜12時の少し前から、自警団が夜回りと火の用心の鐘(といっても騒がしいものではないが)を鳴らす。その音が遠くから聞こえてきた。ひとまず戻ろう。ウォーロックはさきほどと同じところ、看護学部の制服を売るならここ、の場所に踵を返した。


 * * *


 見知った姿が見える。

「どうだった?」

「だめです。人が多すぎて…。それらしい人物は見つけられませんでした。」

「同じくよ。」

「これからどうしますか?」

「そうね、やみくもに歩き回っても駄目だということはわかったわ。困ったわね。いざという時のためにも、これからはできればふたり一緒にいたいし。」

「同感です。」

 そんな相談をしているときだった。

「もし。」

 聞きなれない声が背後から聞こえた。

「あのう、それ。そちらのお嬢さんが着てらっしゃるのは、アカデミーの看護学部の制服でございますよね?」

 慇懃無礼な言い回しが不快に耳に絡みついてくる。ネクロマンサーは脅えて身構えた。

「だったらなんだというのかしら?」ウォーロックは強気に応じた。

 その声の主は一見初老の紳士風であったが、その口元は少し下卑ていて、いかにも好事家といういやらしい表情にも見えた。


「いえね。へへ。お恥ずかしい話ですが、今日の私めの目的は、そちらのお嬢さんのお召し物なのでして。」

 ぞっとする話である。こんな初老の男が、女学徒が今まさに身に付けている制服をよこせというのだ。ふたりは背中に何とも言えない気味悪さを感じた。早くこの場から立ち去りたいというのが、共通の思いだった。

「あなた、自分の言ってることがわかってるの?ここでこの子をひんむこうってわけ?どうかしてるわ。」

 そう息巻くウォーロックの後ろで、ネクロマンサーは片手で胸元をキュッと握り込み、身体を小さく固くしている。心なしか震えているようだ。

「これはこれはお手厳しい。何もただでと言っているわけではございませんじゃあないですか。なにせここはガブリエルの闇市ですから。そうですね。とてもかわいらしいお嬢さんのお顔を直に拝見できましたから。へへ。お顔付でなければこれくらいですが。」

 そういって、甲を向けた左手の指を二本立てながら、

「生のお顔付ということで、これくらいでどうでしょうや?」

 男はその二本指を三本指に変えて見せた。

 その刹那、ふたりはおもわず息をのんだ。

 あった!!

 男が示す三本目の、老いぼれたその薬指に、『アッキーナの瞳』に違いない美しい指輪が輝いている。ここで逃すわけにはいかない。邪険にすることもできなくなった。

「そ、そうね。悪くないわね。」

 それがいくらを指すのか、ウォーロックには見当もつかなかったが、とにかく興味はあるというそぶりを見せなければと思わせぶりに返して見せた。

「で、ございましょう?これでも十分破格だと思うところに、これですから。へへ。悪くはない話でございましょうや?」

 男はその指を二本にしたり三本にしたりしながらにやにやとふたりの顔を覗き込んでくる。生理的嫌悪を必死に抑えて、彼女は続けた。

「それでも安いくらいだわ?あなた、この子が何者か知っているの?」

「いえ、特段存じあげませんが。でもまぁ、お美しい方であることだけはこの目に映ってございまして。」いちいち気味が悪くて仕方がない。

「この子は綺麗なだけじゃなくて、4年でただ一人、死霊科と看護科を掛け持ちする秀才中の秀才よ。だから、この子の制服をここで引きはがそうというならそれ相応のものをもらわなきゃね。」

 後ろでネクロマンサーがもうやめてくれという泣きそうな顔で、胸元を握っているのとは反対の手でウォーロックのスカートの裾にしがみついていた。

「ほぅほぅ。それはそれはなんとも素晴らしいお話で。で、お嬢さん方はこの老いぼれの何を欲しいとおっしゃるのかな?」

 くいついた!!

「そうね。見たところ、あなた、ずいぶんと分不相応な指輪を身に付けてるじゃない?それと交換というのはどうかしら?」思い切って本題に切り込んでみた。

「おやおや、この指輪に目を付けるとはお目が高い。しかしですな。これは、お嬢さんたちもご存じでしょう。行きたくても行けない神秘の法具屋『アーカム』から手に入れた極上の逸品でして。私めと致しましてもおいそれと差し出すわけにはまいりませんので。」

 まあそうだろう。

「『アーカム』から手に入れたが聞いてあきれるわ。それはあなたが盗ったものでしょう?ネタは割れているのよ。さっさと返してちょうだい!」

「おやおや、盗んだとは心外な。盗んだというならそれは『アーカム』の方でございまして。へへ。これはもともと正真正銘私めのものでございますから。」

 どういうことだろう?しかし今はそんなことを問答している暇はない。

「まあ、それはどうでもいいことよ。いい。あなたはこの子の着ている制服が欲しい。そして私たちはあなたの指にあるその指輪が欲しい。需給は一致していると思うけど?」

「へへ、これは一本取られましたな。なんとも賢いお嬢さんで。よござんしょう。あなたの提案で手打ちと致しましょうじゃあありませんか?」

 慇懃無礼なその物言いがとにかく耳について仕方がないが、上手く話しはまとまった。困ったのはネクロマンサーの方である。ウォーロックの背に小さく身体を隠しながら顔を小さくふるふると横に振っている。

「なによ。腹をくくりなさいよ!これで一件落着なのよ。制服くらいなんとでもなるじゃない。いざとなれば、死霊科の制服で看護科の講義に出ればいいだけだわ。」ウォーロックはそう小声で言い放ったが、ネクロマンサーはいよいよその黒い瞳をうるわせ始めた。

「なによ?」

「あ、あの、だって…、だって私いま…。」とうとう泣き出しそうである。

「ああ、そういえば、それもそうね。」何やら思いついたようにウォーロックが男に告げた。

「もう一つ、欲しいものがあるわ。」

「こりゃあ何とも欲深いお嬢さんで。なんですね?」

「今あなたが着ている、その薄汚いコートよ。いくらなんでもここでこの子をひんむいたままにしておくつもりじゃないんでしょ?」

「へへ、そりゃあどうも。気が付かないことで。失礼致しやした。よござんしょう。この指輪とコートを差し上げますから、私めにはそのお嬢さんの、肌のぬくもりが冷めないうちのやつをひとつおねがいしたいんで、へへへ。」

 気持ち悪さに我慢も限界だが、ここは耐えるしかない。

「まずは指輪よ。着替えるには場所を移さなないといけないわ。だからまずは指輪を渡してちょうだい。」

「よござんす。」

 そういうとその老紳士は静かに指輪を抜き取り始めた。

 その時である。壊れた蓄音機のように乱れた響きが彼らの耳に届いた。

「おい。その指輪をこちらに渡せ!」


 * * *


 ふりかえるとそこには真っ黒な魔帽とローブを目深にかぶり、顔を隠した気味の悪い風体の男が立っていた。


「もう一度言う、その指輪をこちらに渡せ。」

「なによ、横取りするつもり?残念だけどあなたに渡すつもりはさらさらないわ。さっさと消えなさい。」

 その刹那だった。その魔法使いの手から炎がほとばしる。『火の玉:Fire Ball』の術式だ!

 あぶない!その熱球がウォーロックの額をかすめた。髪の毛の焼ける嫌な臭いが鼻を刺す。

「なによ!?問答無用ってわけ?」

 男はなおも手を緩める気配がない。

「お嬢さん方、こりゃあ危のうございます。とにかくまずはひと気のないところまで参りましょうや。」老紳士が言う。

「そうね。さあ!」しがみつくネクロマンサーを促す。

「どっちに向かうの?」

「そうですねぇ。ここは人通りが多くていけません。そうざんす。ポンド・ザック橋へ向かいましょう。この時間のあそこらへんは殆ど閑古鳥です。」

「わかったわ。」

 そういうと三人は一斉に走り出した。

 黒づくめの男は走るというよりは転がるような姿でその後を追ってくる。

「何よあいつ、なんであんなに気味が悪いのよ!?」

 ふらふらよたよたとよろめきながらも、しかしその男は三人の後を追ってくる。すぐに追いつかれるというのではないが、背後から襲ってくる火の玉がやっかいだ。その騒動に気づいて周りも騒然とし始めた。野次馬ができては非常にまずい。厄介ごとはごめんだ!

「急ぎましょう!」ネクロマンサーにも力が戻る。

 火の玉を巧みにかいくぐりながら、できるだけひと気の少ない真っ暗な通りをいくつか抜け出て、ようやくポンド・ザック橋を見据えられる小道に出た。ひと気の方はすっかりついえたようだ。あとは、とにかくあいつを何とかしなければ!

「あの…」

「なによ、こんな時に」

「『雷:Lightning』の術式はどうしたんですか!?」

「っつ!」

「ここまでくればもう魔法を使っても大丈夫なはずです。あの男ひとりなら、『雷:Lightning』で退けられるでしょうに!どうして使わないんですか!?」

「お嬢さんはそのお歳で『雷:Lightning』の術式がお使いになられるんで?」

 老紳士も魔法には詳しいようだ。

 簡単に言ってくれるわね。ウォーロックはバツが悪そうに言う。

「使えるには使えるけど…。」

 息を切らしながらウォーロックは続けた。

「私の『雷:Lightning』は、威力は超一級だけど、命中精度は三流以下なのよ!」

「なんですかそれ!?私たちの力じゃ、『雷:Lightning』が使えるのはせいぜい1回ですよね?どうするつもりなんです?あなたを当てにしてたのに!」

「わかってるわよ。だから何とか…」

 そういうウォーロックの頭上を火の玉が再びかすめる。

「何とか狭いところに追い込めないかを考えてるわけ!使えるのは一回こっきり、外したらそれまで、魔力枯渇よ!」

「それじゃ、まるであなたがお荷物じゃあないですか!?」

「わかってるわよ!」

 以前に、護身のできない看護学部生では足手まといになると言ったのを憶えられていた。その唇は呪文を詠唱しようと微かに動き出すが、思いがどうにも定まらない。機会は一度しかないのだ。こんなところで万一にも魔力枯渇を起こしてしまえば、それこそ一貫の終わり。美女の姿焼きの盛り合わせ、変態添えのできあがりである。冗談じゃない!

「それじゃあですね…。」

 老紳士が割って入ってきた。老練というべきか、彼の足腰は年齢不相応に強健で、ふたりについてくるというより巧みにふたりを誘導するかのごとく、道筋を的確に選びながら橋に向かっていく。

 月は厚い雲の中にその顔を隠しており、辺りは漆黒の闇に覆われていて、ろくに周囲の様子を確認することもできない。足元が走りやすい石畳なのがせめてもの救いだ。橋がますます近づいてくる。それは欄干の低い石造りの古いもので、人がなんとかすれ違うことができるくらいの道幅しかないものであった。長さはそれほど長くないが、狭さという点ではうってつけである。

「あの橋の真ん中に追い込みましょうや!」

 たしかに、あの橋の上であればまず外すことはない。

「でも、そのためには挟み撃ちにする必要があるわよ!どうやって!?」

「それなら、任せてください。」ネクロマンサーがきっぱり言い放った。

「さっきから気になっていたのですが、あの男、私たちを追っているというより、いちいち動くものに反応しているようなところがあるんです。だから、こうすればきっと!」

『現世に漂う哀れな霊の残滓よ。我と契約せよ。我が呼び声に応えるならばその彷徨える魂に仮初の影を与えん!魂魄召喚:Summon of Ghost(s)!』

 制服のポケットから小ぶりのワンドを取り出してそう詠唱すると、ネクロマンサーはたちまちのうちに自分たちにそっくりな背格好の霊を三体同時に召喚して見せた。4年生にして同時に三つ、しかも霊の姿形を適切巧みに造形している。すごい!ウォーロックは息をのんだ。老紳士も感心しているようだ。

 案の定、黒づくめの輩はその影の方に気を取られたようである。相変わらず歩くともこけるともつかないしぐさで今度はその影を追い始めた。

「今でござんす。」

 そういうと、老紳士はふたりの魔法使いのからだを路地横の防火井戸の陰に押し込んだ。黒づくめはそれに気づくこともなく、橋に向かう霊の影の方を追っていく。しめた!三人はその背後をとることに成功したのだ!

 やがて橋のなかほどまで差し掛かれば、霊の影と後を追う三人で、あれを狭い橋の真ん中にくぎ付けにできる!

 井戸の横をそれが通り過ぎた後、しばしの間隔をとって気取られぬように三人はその後を追い始めた。相変わらず壊れた操り人形のような奇妙な動きを連続させながら、その男のような生き物は一心不乱にその前を行く霊の影を追っていく。それが繰り出す火の玉の明かりだけが頼りというほどにあたりはどんどん暗くなっていった。

 いよいよ、霊の影がその狭い石橋に差し掛かる。それを追って蠢く黒い生き物。橋の中ほどで、霊の影はぴたりと止まった。

「追い詰め、め、た、たぞ。」冷たく壊れた声が響く。その手に火の玉を宿しながら、それは霊の影との距離を詰めた。


「ゆ、指輪を、指輪をわ、わたせ、せ、せ、せ…。」それはいよいよ人間離れした様子を呈し始めた。

「今です!」

 ネクロマンサーの合図に続いて詠唱の声がこだました。

『天候を司るものよ。わが手に閃光をともせ。雲を呼び集めよ。雷光をもってわが敵を打ち払わん!雷:Lightning!』


 一瞬、昼光のまぶしさがあたりの造形物の詳細をありありと照らし出す。ウォーロックの手から鋭い雷がほとばしり、それは正確にその黒づくめの身体の中央を貫いた!雷が大木を引き裂く音の後、狭い石畳の橋の真ん中あたりで、その生き物の身体は激しく燃え上がった。炎に包まれながら、いよいよ壊れたゼンマイ仕掛けの機械のような、およそ人間のもがきとは明らかに異なるしぐさを紡いで、それはよろよろと欄干にもたれかかり、そのまま下の川の中に燃え落ちていった。不思議だったのは、そのローブの材質の所以だろうか、炎の色が普通の色とは違って、薄気味の悪い白味がかかったピンクとも紫ともつかない色を発していたことである。その最期は焼け崩れて闇に消える桃衣のようであった。


 * * *


「おみごとでござんす!お嬢さん方、お見かけ以上でやすね。」

 老紳士がふたりに賛辞を贈った。

「ええ、まあね。それにしてもあなたすごいじゃない!どうやってあんな召喚ができたの?姿形を私たちに似せた上で同時に三体なんて、びっくりだわ!」

「これを使ったんですよ!」そう言ってネクロマンサーはふたりにひとふりのワンドを見せた。


「これってもしかして。」

「はい、手に入ったんです、人為のロードクロサイト!初めて使うから、うまくできるか分かりませんでしたが、噂通りの法石です。私たちを助けてくれました。」

「へぇ~、ずいぶんと値が張りそうだけど、どうやって手に入れたの?」

「内緒です。」そういってネクロマンサーは小さく舌を出した。

「ふーん、あなたって、お金持ちなのね。」

 この子、こんな表情もするんだ。ウォーロックにとってそれはとても新鮮だった。つい先日知り合ったばかりの、彼女のそんな新しい一面を垣間見られて、素直にうれしかった。ネクロマンサーがなぜそうまで顔を真っ赤にしているのかはわからなかったが…。

「それじゃあ…」老紳士が口をはさんだ。

「よござんすでしょうか?我々の取引を再開しようじゃあありやせんか?」

「そうね。丁度いい具合にあそこに姿を隠せるくらいの木戸があるわ。私たちはそこでこの子を着かえさせるから、先に指輪とコートを渡してちょうだい。」

「よござんす。」そう言うと老紳士はその指から『アッキーナの瞳』を外してウォーロックに渡した。

「私めの方もお忘れなく。楽しみにしてやすんで。」その顔が助平そうに笑った。

「わかってるわよ。さぁ、行きましょ。」ウォーロックが促すとネクロマンサーは首を振った。

「大丈夫です。一人でできますから。」

 そう言うと男からコートを受け取って、彼女は木戸の裏に身を隠した。するすると着衣をとく乾いた音が聞こえる。男はその音がたまらないというふうに聞き入っている。どうにも気持ちのいいものではない。

 そのとき、ふと手元に視線を移すと、ウォーロックは『アッキーナの瞳』の中に何かの像を見た気がした。なんだろう?そこには天使のような姿をしたウォーロック自身らしき姿と、プラチナブロンドの美しい長髪に透きとおる空色の瞳をたたえた者の姿が一瞬映し出されたが、それはたちまちに解像度を失って霧消した。しかしウォーロックは、さしてそれを気にもしなかった。

 ほどなくして、コートをしっかりと着込み、両手に看護学部の制服を抱えたネクロマンサーが木戸の裏から姿を現した。

「どうぞ。」そっとそれを男の前に差し出した。

 老紳士はこれぞ至福というような、ぞっとする表情を浮かべて、両手でうやうやしくそれを受け取った。心なしかその息遣いは荒い。

「ありがとうございやす。それじゃあ、私めはこれで。今夜は実にいい取引ができやした。その上、素晴らしいショーまでお目にかけて頂いて、大満足でさぁ。」そういうと踵を返し、その狭い橋を渡って夜の帳の中にそのいやらしい姿を消していった。心なしか、黒づくめが川に焼け落ちたあたりで、歩みをわずかに遅めたような気もしたが、そんなことはもはやどうでもよい。あの貴婦人からの依頼を見事にやりおおしたのだ!ウォーロックの心は、興奮と満足で満たされていた。ネクロマンサーもその小さな体に合わない大ぶりのコートの中で、笑顔を浮かべている。

「さぁ、私たちも帰りましょう。」

「そうですね。」

「こんな時間だし、いろいろ気を付けないとね。」

「はい。」

 そんな言葉を交わしながら、ふたりもまた漆黒の闇の中に溶けていった。

 夏の夜空を満点の星々が彩っている。月あかりがない分、星々の輝きは増しているように見えた。様々の星座が、漆黒のキャンバスを縦横無尽に彩っている。川面からは流水の香りが漂う。星座群の瞬きは、ふたりの初陣を祝福しているかのようでもあった。真夏の夜が更けていく。


 * * *


 後日アーカムを訪れたふたりから『アッキーナの瞳』は無事に返還された。そのとき偶然に居合わせていた例の貴婦人は、少女アッキーナとともに大いにふたりを歓待しては、たくさんの古い魔法のお菓子をお土産に持たせたりした。

 彼女たちが店を去った後、アーカムを急な静けさが襲う。

 少女は奥の戸棚でなにかごそごそとやっている。

「やっぱり、狙ってきたわね。」

「はい。ガブリエルと聞くと見境いないようです。」

「困ったことになりそうだわ…。」

 ふぅ、と一息つくと、貴婦人はそっとささやいた。

「とにかくも、ご苦労だったわね、アッキーナ。」

「いえ。」少女はその小さな頭をふるふると横に振る。

「でも、それを着るのは、女の子の時だけにしなさいね。」

「はい。」

 そういうと、アッキーナは何かをしまった戸棚の扉を、その小さな手で静かに閉めた。アーカムに神秘の静けさが戻っていく。


第2章へ続く。

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