第32話

 かがみは言葉を切り、静かな視線を向けてくる。

 俺の反応を待っているんだ。


 考えよう。


 確かにかがみの言うことは正しいのだろう。

 俺なんかが頑張るよりも、かがみが頑張った方が成功する可能性だってずっと高いと思う。

 たとえどうにも出来なくたって、現状は維持できる。

 そもそも他ならぬサイカが「これでいい」と言ったのだ。


 きっと大変な未来になる。

 どれだけ頑張っても達成できるかわからないことに挑戦するなんて、賽の河原で石を積むようなものだ。


 本当に出来るか? なんて言われても、自信なんてまるでない。

 ある方がおかしい。


 けれど、そんな中でかがみは、『絶対に、何をしてでも成し遂げてみせる』と言ったのだ。

 そう言うということは、きっと本当にやるつもりなのだろう。


 任せてしまえばいい。

 いや、そうしない理由がないと、俺の心が訴えかけてくる。


 けれど、本当にそうか?

 それでいいのか?


 そもそもサイカをどうにかしたいと思ったことさえ、俺のエゴなのだ。


 そのエゴを他人に背負わせることって、本当に正しいのか?

 いや、それ以上に、それを俺が望んでいるのか?


 サイカは俺にとって家族も同然だ。

 そんなサイカが記憶を蓄積できず、毎日知識だけ入れられて生まれ変わっているなんて聞いて、俺はショックを受けた。

 絶望した。

 どうにかなってしまいそうだった。


 なぜそう思ったか。


 俺はサイカとともに時を重ねたかった、重ねられていると何の根拠もなく信じ込んでいたからだ。

 つまり、サイカに記憶を維持してほしいというのは、ただの俺の願望だ。


 心ではどうかわからないが、口ではサイカ本人ですらそれを望んでいなかった。

 だったら――そんなただの俺の願望を、他人に委ねていいのか?


 自分は今までの日常を享受しながら、ただ漫然と降ってくる成果だけ受け取ることが正しいと、自信を持って言えるのか?


 いや、違う。

 そんなのは、正しいはずがない。


 かがみは優秀だ。

 それは変わることのない事実だ。


 爺ちゃんほどの天才かと言われたらわからないけれど、少なくとも俺なんかよりもよっぽど努力している。

 ちゃんと積み重ねてきた。

 結果だって出している。


 かがみを爺ちゃんに紹介すれば、かがみの夢にだってぐっと近づける。

 誰も損なんてしない。

 どの方向を見ても、得する人ばかりだ。そうしてしまうのが良いと、理性ではちゃんとわかっている。


 ――だけど!


 俺がやりたいんだ。

 他ならぬ、この俺が。


 サイカをあの寂しさから救ってやりたい。

 あんな表情を、もうさせたくない。


 全部解決して、何の憂いもなく、サイカと笑い合いたい、叱られたい、バカにされたい。


 それを掴み取るのは俺だ。

 俺がこの手でやるんだ。

 他のやつになんて、絶対に譲ってやるもんか。


「……嫌だ」


 気が付けば、俺はそう声に出していた。

 かがみの目が見開かれる。


「サイカを救うのは、俺の仕事だ。他の人なんかに任せてやれない」


 強く言い切ると、かがみは一瞬たじろぎ、気遣うような上目遣いを向けてきた。


「きっとつらい道だよ? 人生全部費やして、無駄に終わるかもしれない。他にやりたいことが見つかっても、諦めないといけないかもしれない。それでも……やるの? やりたいの?」


 俺は深く頷いた。

 強く宣言する。


「やる。今そう決めた。それにかがみが言ったんだろ? 『家族が寂しい思いをしているかもしれないのに、放っておいちゃダメだよ』って。サイカは俺の家族だ。かがみの家族じゃない」


 かがみの目が見開かれた。

 ややあって、ふーっと長く息を吐いた。


「これは一本とられたかな……」


 かがみは小さく呟いた。

 そして明るく笑う。


「なら、わたしの出る幕はないね。サイカちゃんのことは任せたっ!」

「あ……」


 その屈託のない笑顔を見て、ようやくわかった。

 かがみは俺に発破をかけてくれていたのだ。急に気恥ずかしくなってきて頬をかいた。


「なんか……悪かったな。手間取らせちゃって」


 その一言で、かがみにはちゃんと伝わったみたいだった。


「ううん。凡夫がただ臆病になっていただけで、本当は自分でやりたいってことはすぐにわかったから。わたしはちょっと背中を押しただけ」

「……ありがとう」


 俺が礼を言うと「ん」とかがみが返事した。

 そこで、ふと気になる。


「もしもだけどさ、俺が『じゃあかがみに任せようかな』なんて言い出したら、かがみはどうするつもりだった?」


 かがみは「ん?」と一瞬小首を傾げたが、直後、にやーっと笑った。


「そのときはもちろん、言った通りにやるつもりだったよ。当たり前じゃん。さっき言ったことに、嘘なんて一つも入っていないんだから」

「すげぇなぁ」


 本気で感心した。


「わたしは凡夫よりも、お姉さんだからね」


 かがみは茶化すように言う。

 本当、適わないな。

 そして、思いつく。


「なぁ、かがみ。もしよかったらなんだけど……俺が爺ちゃんの研究所へ行くとき、一緒に来ないか? 爺ちゃんには俺から話をつけておくから。紹介させてくれよ。こんな子がいるんだって」

「え……」


 かがみが驚いたように目を見開いた。


「いいの? 本当に?」

「もちろん。たださ――」


 俺は自嘲するように言う。


「その代わり、期末試験対策手伝ってくれない? いざやる気になったはいいけど、それでいきなり俺の能力があがるわけじゃないし、やっぱり頼りなくて。わかっている人に教えてもらえたほうがずっと早いし助かる」


 俺のあまりにあけすけな物言いに、かがみはぷっと吹きだした。

 しばらくの間お腹を抱えて笑っていたが、やがて納まり目端にたまった涙を指で拭った。


「もちろん! じゃあお爺さんに紹介してくれるのは、その交換条件だね。わたしがどうにか頑張って、凡夫にお爺さんを納得させられるだけの成績を用意するから」


 そう言って笑顔を見せるかがみに「助かる」と返しながら、俺は「あぁ、やっぱり好きだな」と唐突に思った。


 今はっきりと分かった。

 かがみがこういうやつだからこそ、俺は好きになったんだ。


 常に目標に対して努力し続けられるかがみは、ただ目の前のタスクをなんとなくこなすだけで何を頑張るわけでもなく生きてきた俺の理想像そのものだ。


 当初はサイカの言葉通り、かがみと多くの時間を過ごしたから好きになったと思い込んだ。

 でもそれなら、より多くの時間を過ごしたサイカを好きにならない理由がない。


 いや、サイカのことは好きだ。

 けれどサイカに感じているのは友愛であり家族愛だ。

 恋慕じゃない。

 かがみに抱いているものとは違う。


 なぁサイカ。

 これでいいなんて言うなよ。


 確かに今のままでも困らないのかもしれないけどさ、もしかしたらもっといい景色が見られるかもしれないんだぜ?

 俺、そのためにこれから頑張るからさ。

 だから見ていてくれよ。

 いつか絶対になんとかするから。


 とはいえ、サイカはきっと俺が何も言わなくても、いつ、どんなときでもそのつもりなんだろう。


 ……なんだそれ。


 改めて考えてみると、すげぇな。何も出来ないのは俺だけじゃん。

 そっか――サイカはすでに何者かになっていたのか。

 俺にとっての、大切なひとに。

 なら、俺も報いないと。


 大切な人のためにやることが、好きな人のためにもなるんだ。

 二人が頑張るための理由を用意してくれた。


 ここまでされて頑張れないなら、俺は多分一生頑張れないし、ましてや誰かの何者かになるなんて、絶対にできないだろう。

 きっとここが分岐点だ。

 なんとなく生きてきただけの俺を脱却するための。


 それなら――やるしかない。


 先ほどまであれだけ曇っていた心が嘘のように晴れていた。

 前を向くと、かがみと視線が交差した。


「これからお互い――頑張ろうな」


 サイカとかがみに報いたい。

 サイカを寂しさから救ってやりたい。

 かがみの夢を叶える手伝いがしたい。


 そんな思いが、胸に強く響いた。


 そんな俺の覚悟を感じ取ったのか、かがみは「うん! 頑張ろう!」と笑顔でうなずいてくれた。

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