第21話 赤毛のアン

 杏修士2年、夏の終わりのできごとです。



 札幌国際大学で研究生活をしていると外国人研究者との接点が多い。去年の今頃は榊原先生のところにフランスからアラン教授がやってきていたし、今は網浜先生のところにポスドクでカーリーが来ている。ポスドクとはポストドクトラル、博士号をとったあと、2年くらいわりと自由に研究できる期間だ。この期間によい仕事をしないと、研究者としてどこかの大学などに所属できる可能性が極めて低くなってしまう。


 その大事な期間に日本で研究しているカーリーだが、網浜研だけでなく、榊原研あたりもうろうろしている。ニューヨーカーの彼は、学位を低温での磁性実験でとった。札幌で低温での実験といえば榊原先生なのだが、今は修二くんと一緒に東海村へ行ってしまっている。だからカーリーは網浜研で試料作りを手伝い、札幌に残った榊原研のメンバーと測定をしている。絶対零度まで0.01度くらいまで温度を下げるので、実験はけっこう大掛かりらしい。榊原研の吉岡さんは今度の春に博士号を取るのを目標にしているが、博士号を取ったばかりのカーリーと共同で実験していることも多いと聞く。


 吉岡さんは実験結果を持って私の指導教官池田先生のところに来ていた。ウラン系物質の超伝導の実験結果が、理論とうまく整合するか池田先生と議論していた。私も議論に加わりたかったが、ちょうどややこしい計算をしていたところで無理だった。それで議論を終えた吉岡さんは、私たち院生のところにやってきて言った。

「来週さ、カーリーのガールフレンドが日本に来るらしい。カーリーは、院生のみんなとどっか遊びに行こうって言ってる」

 私は行き先によっては、車を出そうと思った。それを吉岡さんに言う前に、隣席の関根さんが反応した。

「それってパツキンギャルが来るってことですか?」

 私より学年が1つ上の関根さんは、いつも冷静に研究をすすめるタイプだ。ゼミで議論が熱くなっても、落ち着いて論点を整理してくれるので、感情的になりがちな私は尊敬している。その関根さんが「パツキン」を連呼しているので驚いた。

 吉岡さんは、

「カーリーに聞いてみなきゃわかんないけど、金髪じゃないかもよ」

と言うのだが、関根さんは興奮して「パツキンギャル」と言い続けている。その「パツキンギャル」というパワーワードに引かれたのか、居室には他の研究室からも男子が集まってきて、カーリーのガールフレンドについていろいろと想像していた。


 パツキンギャルに期待する男子たちに呆れ返ったので、私はその日の夕食をのぞみと二人でとっていた。いつもの学食だから男子達が相変わらず興奮しているのが見える。

「のぞみさ〜、いくら私が人妻だからって、物理にはあんたもいれば真美ちゃんもいるじゃん、アメリカから若い女性が来るからって、あれ、ひどくな〜い?」

「ほんとひどいよね〜。あんなんだからモテないんだよ」

「ほんとそれ。あ、あれ? 明くんきたよ」

 学食のレジのあたりに料理を載せたトレーを持つ明くんが見えた。いつもならのぞみは明くんに声をかけるところだが、今日は私に隠れるように姿勢を低くした。

「どしたの?」

「うん、明くんがパツキンにひかれるかチェックする」

 明くんはキョロキョロしながら男子達の集まりの方に行った。笑顔で何事か話している。


 ほんのちょっと言葉を交わし、明くんは再びキョロキョロしだした。やがて私と目が合い、こっちにやってきた。

「あいつらひでーよ、金髪ギャルが来るってもさ、もともとこっちにはのぞみんもいれば、聖女様も真美ちゃんもいるわけじゃん」

 全くもってその通りだが、一応私は言っといた。

「まあ私は人妻だから」

 すると明くんは反論した。

「それを言うならのぞみんだって真美ちゃんだって似たようなもんでしょう? 今度来るのだってカーリーのガールフレンドなわけだし」

 のぞみは見たことがないくらい幸せそうな顔をしている。まあ明くんが他の男子達と同じ反応をしていたら、文字通り血の雨が降ったことだろう。

 危機が回避されたことに安堵しながら食事していたら、真美ちゃんがやってきた。

「ねぇ聞いた? 今度金髪のギャルが来るんだって?」


 真美ちゃんの中の人はおっさんなのだろうか。


 何に近すぎて、短い北国の夏の終わりのころだった。修二くんは例によって東海村で実験中である。席を外していた関根さんが居室に戻ってきた。露骨に両肩を落としてトボトボと歩いてきた。いわゆる落胆しているというやつだ。

「どうしたんですか?」

 私は投稿していた論文でもリジェクトされたのかと思って声をかけた。

「赤毛のアンだった」

 私は赤毛ではない。

「なんのことですか?」

「ああ、さっきカーリーのガールフレンドが網浜研に来たんだ」

 それだけ言って関根さんは自席に座り込んだ。


 なんだかよくわからないので勉強にもどったら、居室の入口で異様にハイテンションな女性の声がした。

"Hi! Where’s Ann?"

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