箱を開ける

 わたしの家には昔から、開けてはならないと言い伝えられてきた箱があった。

 それは、わたしが子どもの頃から既に存在していて、和室の桐箪笥きりだんすの引き出しの奥にある黒の漆塗うるしぬりに蒔絵まきえが描かれた、いかにも高級そうな箱である。

 その箱の中に何がおさめられているのか、わたしは知らない。

 けれども、親からは開けてはならない、と強く言われていた。


 なぜ、箱を開けてはならないのか?

 まるで、絵本の浦島太郎のように、箱を開けたら一気に老け込んでしまう、そんな状況におちいると言うのだろうか。

 いや、さすがに現代になって、そんなおとぎ話みたいなことが起きるわけはないだろう。

 不用意に高級な箱を開けると、知らない内に箱に傷がついて価値を下げてしまう。だから、開けてはならないといましめる。

 そんなところが理由だろうか。


 わたしは箱のことを考えると急に胸騒ぎがして、いつからか、箱を開けたいと思うようになった。

 いつもは高校から帰ると、母が家にいて、箱を秘密裏に開けることはできない。

 だが、あと二日後の金曜日には母は用事があるからと言って午後は家を留守にすると言う。

 チャンスだと、わたしは思った。


 それから二日後。

 待ち遠しい気持ちで木曜日の夜は眠りにつき、金曜日の朝を迎えた。

 朝食の際にさりげなく母に聞いたところ、やはり母は午後、家を留守にすると言う。

 わたしは勝利を確信した気持ちになっていたが、顔では平静を装っていた。

 朝食を食べ終え、いつものように高校へ行き、授業を受けた。


「ただいま」

 学校が終わり、家の鍵を開ける。

 誰も家にいないのを知っていたが、一応、言葉をかけてみた。

 やはり、家の中には誰もおらず、ひっそりと静まり返っている。

 玄関を閉め、わたしは和室へと歩いて行った。


 誰もいない和室は暗く、桐箪笥きりだんすがその存在感を示すように部屋の一角に置かれている。

 わたしは桐箪笥に近寄り、一つの引き出しを手前に引いた。

 引き出しの右奥。

 そこには、黒の漆塗うるしぬりに蒔絵まきえが散った高級そうな箱が置いてある。

 わたしは、その箱をゆっくりと引き出しの中から持ち上げ、たたみに置いた。

 胸が高鳴る。

 この箱の中身を、わたしは生まれたときから見たことがない。

 一体、箱の中には何が入っているのか。

 わたしは緊張しながら、箱の両横に手をかけ、そろそろとふたを持ち上げた。


 ふたを畳の上に置く。

 箱の中を見て、わたしはきょをつかれた思いがした。

 そこには、箱の細工とは全く釣り合わない、あまりに簡素な品物がおさめられていた。


 わたしは箱の中に手を伸ばす。

 指を伸ばして、わたしはその品物を目線の位置まで持ち上げた。

 石だ。

 黒い、こぶし大くらいの、表面が所々けずり取られたような何の変哲へんてつもない一つの石だった。

 そこら辺の川原に行けば、誰でも目にすることができるような石。

 こんなものを箱の中に入れて、開けてはいけないというのは、一体、どういうことだろう。


 わたしは石をながめた後、石が置かれていた座蒲団ざぶとんの下に、白い折りたたんだ紙があることに気づいた。

 石を座蒲団の上に置いて、白い紙を取り出す。

 そこには、流麗な文字で『さとり石』と書かれてあった。


 さとり石?

 そんな石があるとは、今まで聞いたことはない。

 これでも、図書館や動画サイトで怖い話や奇妙な話に興味をひかれて読んだり聞いたりしてきたが、『さとり石』なんて聞いたこともない。

 一体、どんな効果がある石なのだろうか。


 わたしはもう一度、石を目線まで持ち上げた。

 普通の石にしか見えない。

 もしかして、有名な寺院か名所で使われた石の欠片で、鑑定すれば高価な値が付いたりしないだろうか。

 わたしは石を何度も回転させながら、どこかしらに歴史の爪痕がないかどうか探した。

 ひたすら石をながめていると、わたしの視界に次第にぼんやりとした白い霧が忍び寄ってくる。

 まぶたを数回しばたたかせると、それでも白い霧は視界を侵食するようにやってきて、わたしにある一つのイメージを強制的に視認させた。


 数学の試験。

 いつもはわからないはずの試験問題が、そのときのわたしはなぜかスラスラと解けている。

 授業を聞いてもノートを取っても、いつも赤点で覚えが悪いのに、試験問題を読んだ瞬間に、数学の公式を答案に書きながら問題を解いているのだ。

 これは一体……?


 はじけるように、イメージがぱっと視界の中で拡散した。

 周囲を見渡しても、和室の様子は何も変わっていない。

 通学鞄にある携帯画面を確認しても、時間も然程さほど経っていない。

 わたしは石を箱の中に丁寧にしまい込むと、うやうやしく箱を持ち上げ、桐箪笥きりだんすの引き出しの中に戻した。


 それから、少し時間が経って、定期試験の期間が到来した。

 試験内容は暗記したり、ノートに再度まとめたりして何度も理解につとめた。

 ただ、今回の数学だけは違った。

 数学を学習する際は、いつもぼんやりとした思いで机に向かっていたはずなのに、今回だけはかんが特別えて、使うべき公式がちゃんと記憶できて計算することができていた。

 今回の数学テストはできる。

 わたしは意気込んで数学の答案用紙に式と答えを書き込んでいった。


 その日の午後。

 わたしは定期試験後と言えども、少しも寄り道をすることなく家に帰った。

 息を切らしつつ、玄関を開け、鍵を閉めた。

 リビングルームに行くと、母からのメモが置いてある。

 駅近くのデパートに、近所に住む主婦と一緒に遊びに行き、夕食まで帰らないことが書いてあった。

 わたしは喜びいさんで和室に飛び込んだ。


 部屋の一角にある桐箪笥きりだんすの引き出しを引き、奥にある高級そうな箱をうやうやしく取り出す。

 たたみの上に箱を置くと、箱の両横に指をかけて、ふたを横に置いた。

 さとり石。

 わたしは喜びに満ちた目で石を手にした。


 白い霧が視界に忍び寄ってくる。

 これは、魔法の石だと、わたしは思う。

 霧は徐々に焦点を結び、今度は英語の試験を受けるわたしの姿が、そこにはあった。

 いつもならば、リスニングはかろうじてできるのだが、英文の読解になると話にならない。

 読んでいるうちに、どうしても他のことを脳が考えてしまって集中して読み通すことができないのだ。

 だが、今回の英語テストは違う。

 わたしは主語、動詞にマークをつけ、集中して文脈を理解できている。

 関係代名詞の前に区切りを書き込み、関係詞節が先行詞をどのように修飾しているか、なぜか把握できている。

 さとり石。

 わたしは石を手に持ったまま、霧が晴れていくのを恍惚こうこつの眼差しで見ていた。


 翌日の英語テストが終わり、わたしは足取りも軽く、家へ向かう電車に乗っていた。

 英語テストの出来は、これ以上ないくらい完璧だった。

 それもこれも、さとり石のおかげだ。

 あの石があれば、わたしはどんな科目のテストだってできる。

 わたしは浮かれきった気持ちで電車の座席に座り、気がつけば、降りる駅をどうも乗り過ごしてしまったようだった。

 車窓から見える景色に、わたしは慌てて通学鞄を肩にかけながら停車した駅に降りた。


 この駅は一体、何駅で、わたしはどうやって帰れば良いのか。

 わたしは駅名を把握しようと、見慣れない駅のプラットフォームを歩く。

 駅名が記載された看板を見上げ、愕然がくぜんとする。


 そこには、今まで見たことのない文字列が太いしっかりとしたフォントで記載されている。

「莉、譛」

 その下には、一駅先の名前が両横に記載されているが、これも読めない。

「←逹ヲ譛  蜊ッ譛→」

 一体、何が起きているの。

 わたしは階段側にある電光掲示板に視線を移した。


「16:20蜷?ァ?●霆 逹ヲ譛亥ァ狗匱 蟶ォ襍ー 邨らせ縺セ縺ァ蜷?ァ?↓蛛懊∪繧翫∪縺吶?」

「16:20蠢ォ騾 逹ヲ譛亥ァ狗匱 讌オ譛 譚ア莠ャ蜊∽コ梧怦邱壼?縺ョ蛛懆サ企ァ??縲∫擱譛医?∽サ、譛医?∝艮譛医〒縺吶?ょ艮譛医°繧牙?縺ッ逾樒┌譛医∪縺ァ諤・陦後→縺ェ繧翫∪縺吶?」


 電光掲示板にある情報が少しも読めなくなっている。

 わたしは通学鞄から携帯を取り出した。

 ロック画面を見て、わたしは驚きに目を見張る。


「16:11 驥第屆譌・縲?荵セ辯・豕ィ諢丞?ア縺ィ縺昴?莉厄シ剃サカ」


 携帯画面ですら、見たことのない文字列に置き換わっている。

 わたしは急いで、改札を通り過ぎて駅内か、もしくは駅の近くに設置してある緑の公衆電話へと向かった。

 知らない駅の中に自分がいること、文字のフォントが急に何らかの原因によって、おかしくなってしまったことを母に伝えなければならない。

 もしかしたら、これは日本中で突発的に起こったシステム異常かもしれないのだから。


 幸いなことに、駅構内に設置された公衆電話を使用している人は一人もいなかった。

 わたしは震える指で十円玉硬貨を二枚、投入口に押し込む。

 数字のボタンを押し、家の電話番号にかける。


 プルルルル。プルルルル。


 二回呼び出し音が鳴った後。

 電話がつながり、母が「もしもし」と、言うのが聞こえた。

「あっ、お母さん! あのね、今、大変なの。電車を乗り過ごしちゃったんだけど、どこを見ても文字がおかしくなって読めないのよ。多分、機械が異常を起こしてシステムエラーになったと思うんだけど、携帯も画面の文字がおかしくなっていて」

 まくしたてるように言うわたしに、母は一瞬の間を空けて言った。

「何言ってるの? 機械の異常なんて起こってないわよ。今、ニュース番組をテレビで見ているからわかることだけど……。どうしたの。定期試験を受けて疲れて、頭がまいっているんじゃないの。そもそも、前から勉強に取り組む姿勢なんてあまりなかったくせに、今回だけ浮かれたように勉強しちゃって。お母さんね、そういう気まぐれに勉強に取り組む態度、感心しない繧上h縲ゅ◎繧薙↑諷句コヲ縺ァ縺雁ー城▲縺?r荳翫£繧阪▲縺ヲ險?繧上l縺ヲ繧ゅ?∽ク翫£縺セ縺帙s縺九i縺ュ縲ゅo縺九▲縺ヲ繧具シ溘??繧ゅ▲縺ィ蟆?擂縺ョ騾イ霍ッ繧偵h縺剰??∴縺ヲ」


 わたしは母の声で語られる、聞いたこともない異言語を耳にし、電話口を耳元から少し離した。

 さとり石。

 あの石のせいで、わたしは一生、このおかしな世界にとらわれる。死ぬまで、一生……。

 体を妙な浮遊感が襲い、わたしは駅構内の床にどさりと倒れ込み、放心したまま意識を失った。



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