短編・単話集

うよすけ

題名「イヤーワーム」

 もう、気が狂ってしまいそうだ。

 私が必死になってピアノを弾き続け、目の前の不完全な楽譜に目を通す最中も、私を苦しめ続けるあの旋律は止まる事なく鳴り続け、脳にこびりつき続けている。

 目の前のピアノと、脳内の旋律を相手に格闘しながら、私は物思いに耽り始める。我ながら随分と器用なことができるものだ。

 私の苦悶の日々が始まったのは、おおよそ一週間は前だろうか。何ヶ月も前のことのようにすら感じる。それ程までに、私にとってこの一週間は苦痛だったのだ。始まりは、とある旋律を思いついた事からだった。まるで、神の啓示の如く、リズムとメロディと全容が浮かんだのだ。今思えば、その啓示をもたらしたのは邪神だろうが。私自身、思いつきと感覚で動くタイプで、あまりロジカルなほうでもないのだが、そんな私でも、音楽としての破綻を感じる程度には不自然であった。ハッキリ言って、その旋律は不協和音だ。変則的かつ激しい音の変化が多数あり、まるで注意散漫な子供のように、曲はあちこち飛んでは戻りを繰り返していた。それでいて、全体的には「単調」と呼べるもので、とても言葉で言い表すことはできない。

 旋律自体も気持ちの良い物ではないのだが、何より最悪なのは、それが脳内をいつまでも流れ続けることだ。いわゆる、イヤーワームという奴だろう。朝昼晩、本を読む時も他の曲を聴く時も、挙句夢の中でさえ、文字通り24時間流れ続けているのだ。おかげで、ここ最近はまともに眠れていない。

 だが、私もイヤーワームに囚われるのは初めてではない──流石にここまで酷いのは初めてだが──。往々にして、この手の事は、吐き出す先がないから起こっているものだ。歌であれば最後まで歌い上げるように、楽譜に書き出してしまうか演奏してしまえば良い。そして私はピアノの徒であったため、ピアノの席に座ることにした。

 しかしまあ、旋律の破綻性を感じ取った段階でわかっていた事なのだが、楽譜におこすのも、演奏するのにも、いささか無理があった。一小節毎の拍子の変化、音程の極端な変化と同時性、並存する複数のメロディ…それらはまだ、既存の楽譜体系に収めることができる。演奏だって、非常に困難だが──特にメロディの並存は、左手と右手で別の事を演奏するなんて事が求められる──不可能ではない。だが、2つ以上の並存するメロディは?旋律の空間性は?その他多くの、言葉にすることすらままならない数々は?それらは既存の楽譜体系に収まらない。まして、演奏するなど不可能だ。音程でさえ、関節の角度も腕の本数も足りていないのに。

 だがしかし、そんなことで止まってしまっては、このクソったれな旋律が鳴り止むことはないのだ。だから私は、一週間以上も試行錯誤を重ねてきた。新たな記号を作り、楽譜に立体性を、折りたたみ性を追加し、ひたすらに手足を調教し続けた。全ては完璧な再現のために。完璧な再現をすることで、このイヤーワームに打ち勝てるのだ。そうだ。そうに決まっている。なんだ。ただ、できる所をするだけではダメなのだ。その程度で治るのであれば、一週間も苦しめられていない。一週間も、四六時中ピアノに齧り付いたりなんかしていない。どこか、どうにかすれば、再現できるハズなのだ。

 いつのまにか、物思いは止んでいて、曲は演奏不能領域へと突入しようとしていた。私は必死で再現を試みる。腕が手首から先に引きづられているように、可能な限りいやそれを越えるように手を滑らせ、張り裂けてしまいそうな程手を開き、もはやバネと化した指をなかば弾くように鍵盤へと叩きつける。鍵盤はピアノ自身の音色により掻き消され私の耳に届くことすらない悲鳴を上げ、ペダルも同じように、でたらめで非常に忙しいステップにより乱打されている。私自身も、指はありえない角度に捻られたように、腕は関節が擦り切れてしまうように、それどころでなく全身が悲鳴を上げている。しかしここで終わるわけにはいかない。私は今、演奏不能領域を突破しようとしているのだ。今までこんな事は一度もなかった、私はかつてない事を成し遂げようとしているのだ!悲鳴など知ったこっちゃない、私は絶対に、この領域を演奏し終えるのだ!

 私の演奏は、演奏不能領域の突破と共に一区切りがつけられる。それと同時に凄まじい身体の疲労感と、痛みにも襲われる。手足が裂けて、関節がありえない方向に曲がってしまいそうだ。やはり身体の悲鳴にも耳を傾けておくべきだったか。もし本当に怪我をしていたら、ピアニストとして大打撃だし、何より旋律の再現ができなくなってしまう。ピアノの方もだ。あれだけ悲鳴をあげていたのだから…いや待て。なぜ私はピアノの悲鳴をいる?確かにあれだけ激しく演奏したのだから、悲鳴を上げていてもおかしくはない。しかし、だ。演奏中の私にそんな事を考える余裕もなかったし、何より、「ピアノの悲鳴が私に届く事はない」という所まで、どうして知っているんだ?私自身がピアノと化した、あるいはピアノが私と化したとでも言うのか?……わからない。

 とりあえず、ピアノの検査をしてみる。専門家では全くないが、ピアノの調子を確かめる程度の事はできる。そうして確かめてみると…ピアノは壊れている。…いや、もう一度確認してみよう。どこに見間違いがあったのかもしれない。それに、何度も確認するのは悪い事じゃない。…先との見間違いは全くない。鍵盤は持ち上がらず、ペダルは折れ動かない。ハンマーがずれ、ピアノ線は張る事なく垂れ下がっている。それは、それは極めてあからさまなことで……体が、思考が止まる。嫌な汗が、熱の籠った体による張り付くような不快な暑さを感じとる。そんな、そんなわけが、これは同じ見間違いをしているだけで、確かにあの時は乱暴な演奏をしたが別にあれで壊れるわけではないのだ。そうやって何度も何度も確認を繰り返したが、現実は、変えようも逃避しようもない、目の前のピアノが壊れている事を突きつけている。「嘘だ…」そう、つい言葉が出てしまった。もうこれでは、旋律を再現できない。脳内を駆け巡る忌まわしき音流が止む事はない。それを理解した途端、あのイヤーワームが再発し出す。いや、正確には、演奏中でも鳴っていたが、不快には感じていなかった。しかし今や、演奏はしたくても行えない。

 気がつけば、私は家を飛び出していた。もはや日が落ち、静まり帰った町の中で、ただ何かを、どこかを追い求めている。なぜ、どうして私はこんな事を?……ああ、そういうことか。今更気がついた。旋律が、変化している。違う。今まで感じ取れなかった箇所を感じ取れるようになっているのだ。旋律は、私を導いているのだ。私は今、知らない道を走っている。しかし、辿る道に迷いはない。そして今や、目的地が近づきつつある。これも、旋律に心を傾ければわかることだ。夜闇の最中から、大きな建物が…廃墟が見えてくる。入ってみれば、そこは何かの劇場であったようだ。だが、そんな事今はどうでも良い。そこには、私の求めたものがあるのだ。そう、グランドピアノが、そこに。

 ああ、やはり、こうして鍵盤を叩いている瞬間というのは、心地良いものだ。以前は旋律についていくことも、理解する事もできなかったから、苦痛があった。しかし、今は違うというもの。私は旋律の全てを理解し、演奏できる。2本で足りなくなれば、腕が裂け増える。関節の角度が足りなければ、より柔軟な物に変わっていく。鍵盤が足りなくなればピアノも大きくなる。ペダルと足が足りないから新しく増え、結合していく。これでもう折れることもない。今やピアノは私自身であり、私自身もピアノで楽器だ。私自身を使い、旋律は再現されていく。この旋律はまさしく神からの啓示だったのだろう。さらには、この変化の運命さえも。たとえ己の体が、どれほど人ならざる怪物と化そうと、私はただ、この旋律を演奏するだけだ。

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