病室にて振り返る切なすぎる事情

「本当に久しぶりだよね。俺のこと覚えてるかい……って、覚えてるわけないわな」


 言いながら、獅道は自嘲の笑みを浮かべる。

 彼の目の前には、竹川唯子がいた。パジャマのような上下を着ているが、それでも肉感的なスタイルであるのが見て取れる。ベッドの上に座り込み、死んだ魚のような目で床を見つめている。獅道の言葉にも、何の反応も示さない。

 そう、ここは病室だ。消灯時間は過ぎており、補助灯の僅かな明かりが室内を照らしている状態だ。本来ならば、外部の人間は出入りできない。しかし、この病院は特別である。伊達恭介の名前を出せば、大抵のことは可能なのだ。

 病室には、獅道と唯子のふたりしかいない。そんな中、獅道は頭を下げる。


「本当にすまなかった。俺がもっと早く気づいていれば、こうなる前にあんたら親子を救うことが出来たかもしれない」


 ・・・


 あれは、十二年前のことだった。




 当時、獅道は中学生になっていた。もっとも、学校生活など退屈なものでしかない。ただひとりの親友と呼べる少年が、数ヶ月前に人を刺し殺して教護院へと送られてしまったのだ。彼は、孤独な日々を過ごしていた。

 顔面に残る醜い傷痕と、十三歳にして周囲を威圧する迫力のせいで、周囲からは敬遠されている。さらに、いじりと称して顔の傷を笑い者にする連中もいた。そういう時、獅道は相手の顔を物理的にいじり、大きな痣を作ってやることにしていた。

 幼い頃に麻薬工場で監禁され、銃で武装したギャングと生活し、挙げ句にジャングルで生きるか死ぬかの修羅場を潜り抜けた獅道。そんな彼にとって、日本の「ヤンキー」などと呼ばれる不良中学生など、ただの甘ったれでしかない。

 結果、獅道は一年生にして全校生徒から恐れられる存在となる。もう、彼を笑う者などいない。だが、彼に接触しようとする者もいない。

 やがて、獅道は授業をサボるようになる。授業中に教室を抜けだし、あちこちを徘徊して時間を潰していた。教師たちも、この少年には完全にさじを投げている。腫れ物に触るような態度であり、何をやろうが完全無視だ。獅道とまともに触れ合おうとするなど、ひとりもいなかった。




 その日も、獅道は授業をサボっていた。河原の草むらに座り込み、じっと水面を見ている。

 午後三時の河原は静かなものだった。釣り人も、散歩者もいない。獅道の動きも、完全に停止している……かに見えたが、瞬時に切り替わる。ベルトに付けたケースから、金属の棒を抜く。長さ二十センチほどで、先を鋭く尖らせたものだ。

 柔軟なフォームで瞬時に見げつける。ドスッという音を立て、数メートル先の大木に突き刺さった。これなら、人間にもそれなりの傷を負わせられる。

 そんなことを考えていた時、予想外の乱入者が現れる──


「ほらほら希望、走っちゃダメでしょ」


 女の声だ。振り返ると、幼い子供がよちよちと歩いて来るのが見えた。顔立ちから見るに、女の子だろうか。オーバーオール姿でピンク色のゴムボールを両手で抱え、楽しくて仕方ないという様子でこちらに向かってくる。

 母親らしき女も、そのまま付いてきた。だが、獅道の顔を見るなり足を止める。両者は、見つめ合う。

 獅道の方は、どきりとなっていた。百五十センチ強の獅道と同じくらいの身長で、綺麗な顔の持ち主だ。目鼻立ちの美しさもさることながら、顔立ちや瞳から母性あふれる優しい性格がにじみ出ている。そしてはちきれんばかりのバストは、思春期の少年にはたまらないものだろう。無様にも、口を開けて見とれてしまっていた。

 だが、母親の方は、獅道に真逆の印象を持ったらしい。表情を強張らせて立ち止まった。


「の、希望! そっち行っちゃダメ! 早くママのところ来なさい!」


 その声は上擦っていた。緊張ゆえだろう。さらに、スマホまで取り出していた。獅道のことを、完全に危険人物だと思っている。何かあれば警察呼ぶぞ、という威嚇のつもりだ。

 獅道は歪んだ笑みを浮かべた。どうやら、場所を移らなくてはならないようだ。自分は、いるだけで迷惑な存在らしい。

 まあ、いい。こんな視線には慣れている。ただ、今回は思わず見とれてしまうような美人だった。それだけに、心のダメージが大きかっただけ……無言で立ち去ろうとした。

 その時、獅道の耳はがさがさという音を捉える。何かが近づいて来ているのだ。しかも早い。これは異常事態だ。

 直後、犬が草むらから飛び出てきた。茶色の雑種で、痩せてはいるが体格は大きい。首輪はなく、あちこち汚れているところから見て飼い犬ではない。では、野犬か。

 犬は、周囲をキョロキョロ見回す。と、その目が何かを捉えた。

 そこにいたのは子供だ。何が起きているのかわからず、きょとんとしている。逃げる気配がない。

 すると、犬は歯を剥き出し唸った。野に放たれた犬の狩猟本能が、小さな幼子を獲物と判断したのか。

 次の瞬間、猛然と襲いかかる──

 考えるより先に、体が動いていた。獅道は犬の動きを先読みし、瞬時に作戦を立てる。

 走り出すと同時に、地面の石を拾い投げつけた。石は犬には当たらなかったが、目の前で地面に当たりバウンドした。

 犬は目の前で跳ねる石に気を取られ、一瞬ではあるが動きを止める。

 その隙に、獅道は子供のいる場所に到着していた。素早く幼子を抱き上げ、犬を睨みつける。

 すると、犬はウウウと威嚇の唸りを上げる。殺意は失われていない。逃げるのも無理だ。子供を抱えている上、奴の方が足は早い。戦うしかないのだ。

 獅道は、ベルトに付けた金属製の棒を抜き構える。刃物のように切れたりはしないが、突き刺すことは出来る。その棒を前に突き出しながら、殺気に満ちた表情で睨みつける。中途半端な脅しなど、野生の獣には通じない。お前をぶっ殺す、そう念じつつ怒鳴った。


「早く警察呼んで!」


 その声は、犬にではなく母親に向けたものである。だが、返事がない。一体、何をやっているのか。母親の方にも目を向けたいが、視線を逸らした瞬間に犬が襲いかかってくる。

 こうなった以上、刺し違える覚悟が必要だ。俺は死んでも抵抗し続ける、その意志が犬に伝われば、争いを避けられるかもしれない。決して高くはない可能性だが、それしかないのだ。獅道は金属棒の切っ先を向けた体勢で、子供を抱えつつじりじり下がっていく。

 犬の方も、じっと獅道を睨みつけている。野性の本能で、目の前の相手が手ごわいことに気づいたらしい。それでも退く気はないようだ。一定の距離を保ちつつ、威嚇の唸り声をあげていた。

 逃げようとすれば、背中から襲われる。退かないなら、戦うしかない──

 異様な空気が、周囲を支配していた。もし誰かが両者の間に割って入ったら、その瞬間に双方から攻撃される……そんな錯覚すら覚えるような光景だった。どのくらいの時間、そうしていたのかはわからない。

 先に折れたのは、犬の方だった。興味を失ったかのように、突然ぷいと横を向く。次の瞬間、草むらの中に入って行った。

 その途端、全身から汗が吹き出た。かつての記憶が蘇った。本気になった野犬の強さ恐さは、体で知っている。今回ばかりは、運に助けられた。奴が向かって来ていたら……。

 次の瞬間、獅道は凄まじい形相で辺りを見回す。あの母親は何をしているのだ。まさか、子供を見捨てて逃げたのか。

 探すまでもなかった。母親は、すぐ後ろにいたのだ。真っ青な顔でブルブル震えている。よほど怖かったのだろう。獅道は怒鳴りつけ、思いつく限りの罵詈雑言を浴びせるつもりだった。が、その怯えきった顔を見たら言えなかった。


「大丈夫ですか?」


 そっと声をかける。顔は前に向けたままだった。怯えきった姿は見られたくないだろう、との判断によるものだ。


「あ、ありがとう……あたしね、犬怖いの」


 まだ落ち着きを取り戻していないらしく、声が震えている。俺より犬の方が怖いのかよ、などと思った時だった。全く予想外のことが起きる。

 母親が、獅道の背中に全身を預けてきたのだ。当然ながら、体は密着している。突然のことに、少年は全身が硬直しカチカチになっていた。


「ごめんね。あたし、小さい時に犬に追いかけられて……足とかお尻とか噛まれた。それから、犬が怖いの。町で見かけただけで、胸がドキドキして息が苦しくなって……ひどい時は、今みたく怖くて体が動かなくなる」


 母親は一方的に語っている。恐怖が残っているのか、舌がもつれながら早口で喋っていた。まだ十三歳の少年である獅道は、突然の展開に目を白黒させつつ話を聞いている。


「あたし何やってんだろうね。希望が犬に襲われそうだったのに、ひとりでブルブル震えて何も出来なかった……こんなんじゃ、母親失格だよ。どうやって希望を守るの……」


 ついに、彼女は鼻を啜り出した。グラマラスな人妻に、背中にしがみつかれて泣かれる。この状況は、十三歳の童貞少年を狂わせるには充分なものだった。

 直後、獅道はとんでもないことを叫ぶ。


「だ、大丈夫です! この河原でお母さんと希望ちゃんが遊ぶ時は、俺が体を張って守りますから! 誰にも手出しさせません!」


 直後、自分がとてつもなく恥ずかしいセリフを口走った事実に気づく。顔が真っ赤になり、柄にもなくあたふたした。早くこの場を離れたいが、まだ彼女が体を押し付けていて動けない。

 気まずい沈黙の時間が流れる。だが、それを破ったのは母親の方だった。ぷぷぷ、と笑いをこらえているらしい声が聞こえる。同時に体が離れた。

 若干の残念な気持ちを抱えつつも、獅道は恐る恐る振り返ってみた。

 彼女は、涙を拭きながら笑っていた。


「ありがとう。君は、顔は怖いけど優しいんだね。ところでさ、うちの希望をどうする気?」


 言われて、ようやく気づいた。さっきから、希望を抱き抱えたまま話していたのである。幼子は嫌がりもせず、獅道の顔を興味深そうに見ている。


「あ!? す、すみません!? それにしても、可愛い女の子ですね! 将来は美人さんになりそうだ!」


 柄にもないお世辞を言いながら、しゃがみ込んで希望を下ろす。だが、上から冷たい声が聞こえてきた。


「希望は男の子なんだけど」


「えっ?」


 しゃがんだまま顔を上げると、母親は機嫌を損ねたような表情で獅道を見下ろしていた。まずい、と思い慌てて目を逸らす。すると、ぷぷぷという笑い声。どうやら、からかわれたらしい。それでも、不快にはならなかった。

 次いで優しい声が聞こえてくる。


「ほら希望、お兄ちゃんありがとう、って言いなさい。ついでに、僕は男の子だよって」


 母の声に、希望は口を開く。


「おにいたん、あんがと」


 言った後、幼子は想定外の行動に出た。獅道に手を伸ばし、顔の傷痕にそっと触れたのだ。


「いたい?」


 その瞬間、母が慌てて叫んだ。


「ちょ、ちょっと希望! 何してるの!」


 ところが、獅道は顔を上げニッコリ笑う。


「いや、いいんですよ」


 偽らざる本音だった。誰もが、この傷痕に対し見て見ぬふりをする。だが、視線は感じるのだ。むしろ、この子のように堂々と聞いてくれる方がよっぽどマシだ。

 獅道は、希望の方を向く。


「顔は、もう痛くない。けど、心がたまに痛む」


 そう、心は今も痛む。電車に乗った時、人通りの多い場所を歩く時、買い物をしている時などなど。容赦ない視線や「キモい」という微かに聞こえる陰口により、心を傷つけられてきた。

 

「こころ?」


 首を傾げる希望。この子は、本当に可愛い。獅道は笑みがこぼれた。


「そう、心が痛む」


 言いながら、胸を指し示す。その時、希望はまたしても予想外の行動に出る。今度は、獅道の胸に触れた。


「いたいの、いたいの……」


 言いながら、ゆっくりと手のひらを動かす。マッサージでもするようだった。

 やがて幼子は、その手を空に向ける──


「とんでけー!」


 一緒に、顔も空に向ける。獅道の目には、その姿が天使に見えた。


「とんでった?」


 やがて、希望がおずおずと聞いてくる。


「うん。少し楽になったよ。ありがとう」


 それも本音だった。


「いえいえ、どういたまちて」


 舌足らずな口調で言うと、希望はニッコリ微笑んだ。久しぶりに見る、心からの親愛の情だ。獅道の胸は、暖かいものに満たされていた。




 それを機に、三人は一緒に遊ぶようになった。

 遊ぶといっても、もっぱら獅道と希望のふたりが中心だ。母親の唯子は、離れた場所で見ていた。希望は獅道に懐いており「おにいたん、おにいたん」と言いながら、よちよち歩いてくる。そんな幼子が、可愛くて仕方ない。

 獅道は己の身体能力を活かしたアクロバティックな動きを見せたり、背中に希望を乗せて四つん這いで動いたり、肩車で河原をダッシュしたりした。

 そんなことをしつつ、ちらっと唯子を盗み見る。彼女は近くで敷布を敷いて腰掛け、こちらを優しい目で見ている。その姿は、とても美しかった。聞いた話では、彼女はシングルマザーであり、ママ友との交流がうっとうしくて河原に来るようになったのだという。

 希望が天使なら、唯子は女神……獅道には、そう見えていた。


 そんな幸せな日々にも、終わりの時が訪れる。唯子と希望は、白土市に引っ越すこととなったのだ。

 獅道は最後まで、己の秘めた思いを打ち明けることが出来なかった。





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