希望が直面した悲しすぎる現実

 ナタリーと希望は、暗闇の中でじっと待っていた。

 時刻は零時近い。周囲には木々が生い茂り、地面は土と草で構成されている。アスファルトの道路はどこにも見えない。明かりといえば月と星、それにナタリーの持つ懐中電灯だけだ。

 しかも、目の前には奇怪な建物がそびえている──

 本来なら、こんな場所にはいたくない。ところが、先ほど高村獅道より連絡が来たのだ。ここへのルートが詳しく書かれた地図に、唯子さんを見つけた、というメッセージが付いていた。




 不意に、奇妙な機械音が響いた。ほぼ同時に、外壁の一部が開く。そこから、獅道が顔を出した。


「やっと入れる。ここはな、外から入るのは面倒だが中から出るのは簡単なんだよ。ひねくれた構造だよな」


 言いながら、獅道は手招きする。


「ふたりとも、俺に付いて来てくれ」


 彼に導かれ、ふたりは異様な建物の内部へと入っていく。すると、扉がゆっくりと閉まっていった。獅道とナタリーは懐中電灯で足元を照らしながら、慎重に進んでいく。希望は、恐る恐る後に続いた。

 鉄の扉を開けた瞬間、ナタリーと希望はびくりとして立ち止まる。あまりにも異様な光景だ。闘技場と、彼らを見つめる奇怪な作品群……思わず、突っ立ったまま凝視していた。

 その時、獅道の声が聞こえてきた。


「気持ちはわかるがな、俺たちの目的は違うぞ。今はまず、この先にいる唯子さんと会おう」


 その言葉に、希望ははっとなる。


「わ、わかりました」


 そうだった。今はまず、母に会うことがさきだ。ナタリーと希望は、獅道の後を付いていく。



 だが、希望の前に突きつけられたものは非情なものだった──

 三人は、奇妙な部屋に入った。中世ヨーロッパの牢獄のごとき部屋だ。鉄格子により室内は分断されており、中にはベッドが置かれている。

 ベッドの上には、ひとりの女が座っていた。タンクトップとホットパンツ姿で、じっと下を向いている。目は虚ろで、半開きの口からは奇妙な独り言が漏れ出ていた。

 獅道は、その女を指差した。


「これが、唯子さんだ」


 その瞬間、希望の体が震え出した。必死で首を横に振る。違うと言おうとした。この人はママじゃない、と。

 だが、彼の目に映る者は母だった。印象はずいぶんと変わっている。化粧も濃い。だが、近くで見れば否応なしに現実を突きつけられる。

 そこにいるのは、唯子で間違いなかった。


「どういうことです? ママに、ママに何があったんですか!?」


 すがるような目で、獅道を見つめる。すると、彼は冷静な表情で語り出した。


「唯子さんは、樫本にクラッシュというドラッグを打たれた。数日間、いや数週間かもしれない……とにかく長時間、薬漬けにされちまったのさ。結果、記憶力も思考力もほとんど失った。そんな唯子さんを、樫本は奴隷として調教した」


 ドラッグ、薬漬け、性奴隷……恐ろしい言葉だった。ついこの前まで、自分の人生には無縁だったはずのもの。それが、希望の前に次々と突きつけられていた。あまりの衝撃に、何も言えず立ち尽くしていた。

 その間にも、獅道は語り続ける。


「樫本ってのは、とんでもない男さ。完全な廃人にしちまったら奴隷には出来ない。ドラッグで意識朦朧となっている時に、新しい記憶を植え付けたんだよ。それを繰り返して、ルミという名の性奴隷にしちまった」


 そこで、希望はようやく口を開いた。


「ママは、ママは治るんですか!?」


 すると、獅道の表情が僅かに歪む。傍らにいるナタリーは、つらそうな顔で俯き目を逸らした。

 ややあって、獅道は口を開く。それは、死刑宣告に近いものだった──


「下手な嘘や慰めは言いたくないから、正直に言うよ。唯子さんが、元に戻る可能性はゼロに近い。このクラッシュというドラッグは、最終的に脳を壊しちまうんだよ」


「そ、そんな……なんで、なんでママが……」


 ショックのあまり崩れ落ちる。脳を壊す……恐ろしい言葉だ。

 母は、ずっとこのままだというのか。


「何の慰めにもならんが、樫本の動機も教えてやる。あいつは、高校生の時に同級生だった唯子さんに告白した。ところが、唯子さんに付き合う気はない。だから、やんわり断った。ところが、諦めきれない樫本はストーカーと化す。困った唯子さんは友人に相談した。友人は、ヤンキーのような男友達を数人引き連れて、樫本をボコボコにした挙げ句にきっちり脅した」


 淡々と語る獅道。その友人こそが、唯子とともに監禁されていた春山礼奈ハルヤマ レイナだ。顔の半分を整形され、唯子の身の周りの世話をさせられていた。


「それがきっかけで、樫本はおかしくなっちまった。奴は裏の世界に入り、手段を選ばず金をかき集めた。そして、二十年近く経った今になって、唯子さんとその友人に復讐したってわけさ。本当にしつこい男だよ」


「そんなの……ひどいよ。ひど過ぎる。そんなことのために、ママは……」


 少年の目から、涙がこぼれる。涙で曇った瞳で、希望は母を見つめた。だが、何の反応もしてくれない。

 もう、母の顔に笑顔が浮かぶことはないのか。

 そんな両者の姿は、あまりにも憐れだった。獅道は、思わず目を逸らした。出来ることなら、ここまでにしたい。

 だが、彼の知らねばならないことはもうひとつある。こちらの方が、ある意味より残酷な知らせかもしれない。

 ふたたび希望の方を向いた。


「もうひとつ、お前が知らなくてはならないことがある。唯子さんには、既に死亡届が出されているんだよ」


「えっ……」


 希望は、そう返すのが精一杯だった。何を言われているのか、まだわかっていないのだ。


「これも樫本がやったんだろう。あいつが、死亡届を書いて提出したんだ。唯子さんは、既に事故死したことになっているんだよ」


 語る獅道。彼は、事前に調べていたのだ。唯子と希望に捜索願は出されていないのか、と。

 やがて、驚愕の事実が判明する。唯子は、既に死んだことにされていたのだ。もっとも葬式は出されず、事務的に処理されている。これはおかしいと思い、獅道は独自に調査してみた。

 結果、浮かんできたのが樫本直也だった──


「ここからが面倒なんだがな、死亡届を無効にするには、生きていることを証明する必要がある。その過程で、何をされたかを話さなくてはならないんだ」


 そこで、獅道は言葉を止めた。十五歳の少年にとって、知らなくていい知識だ。しかし、希望は理解しなくてはならない。自分の置かれた状況を……。

 少しの間を置き、ふたたび語り出した。


「仮に、お前がこれから唯子さんを連れて警察に駆け込んだとしよう。警察は、何があったか洗いざらい聞いてくる。お前は自分が何をされたか、刑事に正確に話さなくてはならない。しかも、唯子さんには証言能力がない。だから、奴らの悪事を白日の下に晒すには凄まじい時間がかかる」


 そう、今の唯子は証言できない。警察に駆け込んだ場合、全ては希望の証言のみが頼りだ。

 しかも警察に訴えた場合、裏のみならず表の人間からの報復もあるのだ──


「一番の問題は、唯子さんの死の偽装には様々な人間がかかわっているということだ。医師もいるし刑事もいる。みんな、樫本に金で買われた連中さ。奴らは、唯子さんが生きているとなると都合が悪い。全力で、お前ら親子の口を封じにくる」


 希望は、ようやく事の重大さに気づいたらしい。体を震わせながら口を開く。


「どういうことですか?」


「お前ら親子は、事件のことには口をつぐんで泣き寝入りするしかねえんだ。しかも……」


 そこで、獅道は言葉を切った。しゃがみ込むと。決定的な一言を口にする。


「唯子さんはもう、お前を守ってくれるママじゃない」


 その瞬間、希望の目からふたたび涙が溢れ出る。彼はもう、耐えきれなかった。


「なんで……なんでこんなこと……どうして、僕がこんな目に……」


 泣きじゃくり、床に額をつける。今の彼には、もう何もない。親子の楽しかった日々は、二度と帰って来ない。

 あの平穏な日常は、永遠に戻らないのだ……その絶望が、希望から立ち上がる気力すら奪ってしまった。

 獅道は、そんな少年をじっと見下ろしていた。ややあって、拳銃を取り出す。

 その瞬間、傍らにいるナタリーの表情が一変した。だが獅道は彼女を無視し、強引に希望の襟首を掴み顔を上げさせる。


「お前が望むなら、俺が唯子さんを殺してやる。死体も、跡形もないように消し去る」


 冷たい言葉だった。感情の消え失せた顔で、真っすぐ希望を見つめている。冗談を言っているのでないことは、確かめるまでもなかった。


「そんな……どうして……」


 愕然 となっている希望に、獅道は拳銃を持ったまま淡々と語った。


「いいか、今の唯子さんは、お前にとって重荷でしかない。普通なら、ヘルパーを頼んだり施設に預けたりも出来る。場合によっては手当ても支給される。だが、お前らには不可能だ。唯子さんは、この世に存在しないはずの人間だからな。お前が面倒を見るしかないんだ」

 

 言った後、唯子に銃口を向ける──


「今のうちに殺した方が、お前にとって楽かもしれないぞ」


 その時、誰かが獅道の肩を掴む。


「シド、いい加減にしろ。希望に、そんなことを決めさせるな」


 ナタリーだった。彼女の声は震えている。だが、獅道のじろりと睨みつけた。


「あんたは引っ込んでてくれ。これは、希望が決めなきゃならないことなんだよ」


 言った直後、ナタリーの手を乱暴に払いのけ、希望の顔を見つめた。


「希望、よく聞け。これはな、綺麗事じゃないんだ。お前が今の唯子さんと生活するのは、想像を絶する辛さだよ。普通なら頼めるはずの福祉の手を借りられないんだ。結果、共倒れになる可能性が高い。そうなる前に、俺がこの場で殺してやると言ってるんだ。決めるのはお前だ。さあ、この場で選べ」


 獅道の声には、何の感情もない。この男なら、本当に殺すだろう……希望は、母へと目を向ける。

 唯子の目は、ベッドの上へと向けられていた。何もない一点を、じっと見つめている。唇は半開きで、端から唾液が垂れている。己に銃口が向いているというのに、気にする素振りすらない。

 彼女はもう、昔の母ではないのだ。十五歳の自分が、赤子に還ってしまった母と共に生きていけるだろうか。しかも、自分とて普通の体ではない。

 

 僕には無理だ──


 闇が心を覆っていく。同時に、囁く声も聞こえる……仕方ないんだ、という心の声。希望は、獅道の方に顔を向けた。

 その時だった。唯子の口から声が漏れ出た。何を言っているのかはわからない。だが聞いた瞬間、またしても涙が溢れていた。

 なぜかはわからない。なんと言っていたのかもわからない。なのに、涙が止まらない──


「無理です……ママをごろずなんで、やめでぐだざい……」


 喉を詰まらせそうになりながらも、希望は訴えた。首を横に振りながら、拳銃へと手を伸ばす。

 銃口を、己の手のひらで覆った──


「そうか。じゃあ、お前は唯子さんと共に生きることを選ぶんだな」


 ふう、と息を吐く音がした。直後、獅道は拳銃をしまう。


「なあ、希望よう……ちょっと、お兄さんの自分語りを聞いてくれ。俺はガキの頃、ジャングルで遭難した。子供七人だけで、人のいる街を目指して歩いた」


 語る獅道の表情は、とても穏やかなものだ。しかし、話の内容は真逆だった。


「生き残れたのは、三人だ。四人は道中、飢えと疲労と病気で命を落とした。俺たちはな、死んだ奴らの肉を食って生き延びたんだよ」


 あまりに衝撃的な言葉である。希望は、己の置かれた立場も忘れて話に聴き入っていた。

 だが、驚くのはまだ早かった。不意に、獅道は立ち上がった。希望の見ている前で、服を脱ぎ始める──

 異様な肉体があらわになった。獅道の上半身は鍛えぬかれた見事なものだ。しかし、その体は傷だらけであった。刃物による傷、銃創、やけどといった大量の傷が全身を覆っている……彼の潜ってきた修羅場が、一目でわかるものだった。

 そして胸筋には、タトゥーが彫られている。横書きの異国の言葉だ。右と左にそれぞれふたつずつ、計四つの言葉が彫られている。

 唖然となっている希望の眼前で、獅道は己の胸に彫られたタトゥーを指差した。


「ここに彫られている名前は、途中で命を落として俺たちの食糧になった連中のものだ。みんな、俺の友だちだった」


 語る獅道の顔つきは、いつしか変わっていた。昔を懐かしむかのような表情が浮かんでいる。


「この胸に刻まれた奴らのためにも、俺は生き延びなきゃならないんだ。これが、俺の生きる理由だよ。こいつらのためにも、俺は簡単には死ねないんだ」


 そこで、獅道はしゃがみ込んだ。そっと、希望の肩に触れる。


「お前にも、死ねない理由が出来ちまった。たまに、人は何のために生きるか? なんて言う奴がいる。でもな、この国では生きる理由なんかなくたって生きていけるんだ。これはな、ものすごく幸せなことなんだよ。俺やお前みたいに、生きるための理由がある人間の方が不幸なんだよ」


 不意に、獅道はクスリと笑った。無論、おかしくて笑ったのではない。


「つれえよな。重たい十字架を背負って、それでも生きていかざるを得ない人生ってのは。でもよ、お前なら耐えられる……俺は、そう信じてる」


 そこで、希望はようやく口を開いた。


「ど、どうしてですか?」


「聞いたぜ。お前、立花に向かっていったんだろ。あの男はな、不死身の立花って呼ばれてる化け物だったんだよ。白土市中のヤクザや半グレが、顔を見ただけでブルって道を空けるような男だ。そんな奴に立ち向かっていけたんだ。お前は、大した奴だよ」


 不意に、獅道の手が伸びた。希望の頭を、そっと撫でる。


「ありがとな。おかげで助かったよ」


 その言葉の意味は、希望にはわからなかっただろう。

 わからないはずなのに、直後に涙が溢れる。次の瞬間、希望は自分でも制御できぬ衝動に襲われた。

 気がつくと、目の前にあるタトゥーの入った胸に顔を埋める。そのまま、ひたすら泣きじゃくっていた──





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