第2話 初めまして世界!

 

 「みこと、一人で大丈夫?」しおらしく僕に問いかけるのは、赤髪を低めに結い上げ、風景柄をあしらった濃紺の本場結城紬ほんばゆうきつむぎの着物を着こなした幽美な女性。武家屋敷を彷彿とさせる屋敷門の前で不安げに僕を見つめている。


 「ああ、問題ないさ独りは慣れているし、孤高の戦士は男の子のあこがれだろ?」強がりでも、虚勢を張っているわけでもなく本気で僕は言っているのだが、どうやら信じていない様子で溜息を漏らす。


 「いつになってもその調子ね。でも私に出来ることはこれが精一杯……本当は一緒に住めたらよかったけど……」


 「やめてくれ姉さん、この歳になってまで姉と暮らしてるなんて恥ずかしくて言えないよ」


 「あら、言える友達でもいるの?」意地の悪い笑顔で僕を揶揄う。


 「……うぐ」姉さんは笑顔を崩し僕を見る、口角は上がっているけど、瞳は少し揺れているようだった。


 「ごめんね」しまいには謝る始末。謝らないでくれ姉さん、貴女に謝れるほど僕は高尚な生き物じゃないし僕が出ていくのは僕の意志であって貴女のせいじゃないんだ。だからまで来て謝らないでくれ。


 これは夢だ、現実で起きたフラッシュバックの夢、僕が家を出て、独り暮らしをする日の姉さんと交わした会話だ。そろそろ目を覚まそう、これ以上、姉さんの悲しい顔は見ていたくない。


 目を覚ましてクソみたいに下らない現実を噛み締めよう。


 そして夢の描写は写真のように切り取られ、端から燃え上がり、姉さんと情景は消失した。


 おはよう世界————。



 

 「知らない天井じゃん……」視界に入ったのは自宅では無い天井、清潔感も行き過ぎた白色に奇妙なぶつぶつとしたトラバーチン模様の石膏ボード。これを使う所は大体決まっている、そして鼻腔を刺す薬品や消毒の香り、ここは病院だろう。


 どうやら僕はしぶとくも生にしがみつけたみたいだ。これを幸福ととるか不幸ととるかはまだ先の話。


 天井を見つめたまま、布団の中の四肢を動かす。右手左手両足の指を動かす。これは驚いた、全て正常に動いているじゃないか、少なくとも欠如していてもおかしくない事故だったと思うのだが……奇跡なのか?

 

 身体をゆっくりと起こす。背中と腰辺りに痛みが走る。だがこの痛みは馴染みがある、十時間以上寝た日の痛みだ……おいおい無傷にも程があるだろうよ、と思ったが頭にも鈍い痛みが走り、両手で頭の辺りを触ると包帯が巻かれているのがわかった。体は無傷のようだけど頭を打ったようだ。

 

 こうなると色々と試したくなってくるのは男の子のサガだろう。布団から抜け出しキャスター付きの点滴スタンドをたずさえ病院内の散策といこう。窓を見やる、多分夕方頃だろうか日が傾いてきている。


 病室内は個室で簡素なもので、花瓶には茎がまっすくで太陽のような黄色の花が数本入っていた、名前は何だったか……忘れてしまった。


 一瞥して病室を出る。


 寒々とした殺風景な空間が広がっていた。真っ白な廊下真っ白な壁に天井、信頼感と清潔感を表す白だが僕には緊張感を植え付ける冷たい色である。


 一人の罹患者と思われる女性とすれちがう、清涼感を感じさせる薄青とした患者衣を着ていた。鬱々とした表情でどこか遠い目をしている気がする、病気や怪我を治す気概を全く感じない人だなと思った。


 数メートル歩いたあと、ふと壁に目を向けると、病棟の間取り図を見つけた。確認すると来た道の反対側には、スタッフステーションがある。思案する、僕は一体どれくらい眠っていたのだろうか? 最後の記憶が正しければ、油女ころもはどうなった?? もし助かっていて僕に感謝の意を表明したいのなら、ベット脇で甲斐甲斐しく僕の目覚めを待っていてもおかしくないはず……それはないか。


 とりあえず僕が目覚めたこと、油女ころもの安否を確認しにスタッフステーションに向かおう、と思い来た道を引き返そうと踵を返す。


 「ん?」


 振り返ると、先ほど通り過ぎた鬱々とした表情の女性罹患者が一人、廊下の中央の少し離れた場所で僕を見つめている? いや少し俯き睨んでいる? 事故に会う前の油女ころもの視線に似ているな。


 「……み……えみみ……る?」


 女性は僕にぶつぶつと問いかけているようだ。でも何を言っているのかわからない。

 

 「あの……どうかしましたか?」僕は恐る恐る確認する。少し様相のおかしな人だな、髪はぼさぼさで、髪染めをしていたのだろうか、地毛の黒い部分が随分と伸びている。しかもよく見ればこの人、裸足じゃないか。


 「っか……みえ、み、見えてる」今度は語末がはっきりと聞こえた。見えてると。


 「はい? 見えてる? そりゃはっきりと明瞭に見えてますよ」失礼な人だな、頭に包帯を巻いているからって視界も知能も失ったわけじゃねーよ。


 「気分が悪いなら、スタッフステーションまでご一緒しますよ?」レディーには優しくね、孤高ライフには女子を敵に回すべからずっていう掟があるからね。女性の方に近づこうと歩み寄る。しかし――


 がばっと俯いていた顔が勢いよく上がる。僕はその顔に戦慄する――「ぇ?」か細い声が漏れる。だって、だってさ……おかしいんだ、さっきまで僕を睨んでいた眼が…………ないんだ、ない、眼球がまるっとくりぬかれたように、眼があった場所に風穴が空いている、底の見えない奈落のような穴が、僕を飲み込まんとしているようなんだ。


 「は、ぇ? 何、その眼? はは、何かの仮装? それにしてもリアルだなぁ」VRの世界であれば信じただろうが、紛れもない真実だと、僕の爆音でなる心臓が教えてくれている。僕は無意識にゆっくりと後ずさりしていた。


 心臓がうるさい、頭の脈がどくどくと音を立てているのがわかる。冷静になれというのは無理がある、それほどまでに女性の顔は不気味の宝庫だ。ガシャンと僕は点滴スタンドを蹴ってしまう、反射的に視線を足元に落としてしまった。すぐに女性に視線を戻す——目の前に、奈落のような穴が二つ、僕をのぞいている。深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いているのだ。哲学者フリードリヒ・ニーチェの格言がちらつく。


 女性は視線を落とした一瞬の間に、僕の目の前に現れたのだ。金縛りのように体が動かない、動くのは眼だけ、なのにその眼も奈落の穴から目が離せない。女性は血の気の無い顔を綻ばせ、僕を抱きしめるように両手を広げ身体を預けてきた。怖気が走る、全身の鳥肌が捲れ上がるのでは無いかと思うほどだ。


 女性は数秒抱きしめてきた後、我が目を疑う。どろりと、自分が底なし沼になったかのように女性が沈んでいく。まるで溶け合う液体のように……。


 気持ち悪い……気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いっ!!!!


 「僕の中に入ってくるなっ!!」声が出た、金縛りで動かなかった体も動く。


 「うああああっ!!!!」僕は半分ほど溶け込んでいた女性から逃げるように後ろにのけぞる。急に動き出した体に足元が疎かになり、尻から転げる。点滴スタンドもガシャンと音を立て倒れた。女性は転げた僕を見下ろす。


 「……まだ、入れない」言うと女性の体が消えた。テレビ画面が消えるように、ぷつりと一瞬にして消えたのだ。

 

 緊張の糸が切れたのか、額から汗が噴き上がる。息遣いも荒く呼吸が整わない。


 落ち着け落ち着け僕、とりあえずもう何もいないじゃ無いか、すると。


 「だ、大丈夫ですか? おけお怪我は?」


 背後から声が聞こえる。良かった看護師さんがきっと来てくれたようだ、落ち着け、大丈夫独りでも大丈夫。


 「は、はい大丈夫です。躓いて転んじゃって……」そう言えばスタッフステーションって反対側だったよな……まぁいいか。


 振り向く。


 「へ?」


 鼻先数センチという距離に、真っ黒な奈落の底のような二つの穴が僕をのぞいている。ナース服に身を包みうるしのような黒髪を垂らした裸足の女性がニタリと笑い言う「見えてる」と。


 「あっ、あああああああ!!!!」


 僕は、知らぬ間に人ならざる深淵に覗かれていたようだ——。








 

 

 


 

 





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