第16話 夜の獣 Ⅳ
生まれた時、父親は既にいなかった。母親も、幼い頃に亡くなった。
ミダスには十歳年上の姉が一人いた。子ども二人だけの、貧しい生活。
働けるような年齢になって姉と別居。色々な職に就くが、ことごとく運が悪く続かなかった。
金もない、仲間もいない、信頼できる家族もいない。ミダスは神を呪った。どうして自分だけがこんな目に
そんなミダスを
ミダスは酒場で飲んだくれた帰り道に、狼と出会う。街中に狼がいるとは思わず、最初は幻か何かだと思ったが、黒く美しい毛並みを持った幻想的な狼は、なんと口を開き、ミダスに話しかけてきたのだ。
霊と、死後に肉体をくれるならば、何でも願いを叶えてやるし、必要ならば力も貸してやる、と言う。
元々、信仰心のなかったミダスは、迷わず
ミダスの願いは『富を得ること』だった。貧しい家庭で育ったミダスは、金があれば全てを解決できると思っていた。
姉が原因不明の発作で急死し、姉の財産が全てミダスの物になった。一時は高級娼婦となっていた姉の金銭は、ミダスが驚くほどあった。それだけでなく、娼婦が暮らす賃貸物件をいくつも所有していた。
一夜にしてミダスは資産を得て、何もしなくても金が手に入るようになった。ミダスは豪遊した。金があると女にもモテるようになった。同時に恨みも買うようになったが、
自分は選ばれた人間なんだ。だから、自分を見下すものはもういない。
彼女の家に行って、ミダスは
美しい容姿、か弱い存在、姉と同じ、蒼い瞳。
少女を目にしたミダスは一目で恋に落ちた。
今度はこの娘が欲しい。大丈夫だ。今の自分ならば、何だって手に入れることができる。
自分は幸せ者なんだ。誰よりも上の存在なんだ。
そうでなければ、姉が死んだ意味がない——
それなのに、今。何で、こんなわけのわからない天使なんてものに、
(絶対に許さない。そうだ! 腕だけでなく、全身を
そうすれば、教会の床なんて砕くことができる。もっと速く動くこともできる。この憎たらしい天使の内臓を、切り刻むことができる。
(もっと力を貸せ——)
ミダスは
力が沸き上がってくる。今まで感じたことのない、強い力だ。
ミダスは歓喜した。これで天使に太刀打ちできる。そう確信した瞬間、ミダスの中で何かが割れる音がする。
それが、ミダスが人間だった最後の瞬間だった。
◇ ◆ ◇
「ぐわあああああ!」
ミダスが、突如として苦しみ出す。ミダスの周りに黒い
「なっ、何⁉」
アリスは思わず声に出す。
「あーあ……。言わんこっちゃない」
エクスは一応、肩を落としてみせる。
「魂が壊れて
「どっどうするの?」
アリスは立ち上がり、身構える。
「こうなったらもう止められないさ」
エクスはアリスに近づき、手を伸ばす。
「俺の手を取れアリス。やるぞ」
差し出されたエクスの手を、アリスはしかと握る。
瞬間——エクスは剣へと姿を変える。
先程までミダスだったものは、黒い触手が絡まり合い、腕だけが異様に大きな、人間のなりそこないのような姿となっていた。
全身から黒い血のようなものが噴き出し、中心部には肋骨と心臓のようなものが見える。
エクスの声が、剣を伝ってアリスの脳内に響く。
「アリス。
呼吸を整え、アリスは祈る。
「猊下、どうか、私に力を……!」
アリスは、握っている剣を見る。
剣を握り直し、アリスは一回、二回、頭の上で振るう。演目に入る前の、踊り子がするように。
グォオオオオオオン!
狼の遠吠えを
地面が揺れ、
(大丈夫。怖くない。やれる——)
アリスは強く剣を握り、構える。
少しずつだが、アリスは理解してきている。エクスが前に言った、攻撃しようと思わなくていい、と言った意味が。
踊っている自分を脳内で思い描いて、ただ身体を動かす。
アリスは思い出す。
自分に踊りを教えてくれた人の、誰よりも美しく舞う姿を——
エディリアで踊り子と言ったら、自ら家族を養うために働く、貧しい者たちの職業である。騎士の娘であるアリスが目指すようなものではない。それでも、強く憧れた。ずっと、あんな風に踊ってみたいと思っていた。
アリスの強い思いは祈りとなり、剣はそれに答えて鋭く光る。
天使は
(私が負けると思わなければ、私の勝ちだ!)
キィン——と、
(硬い……!)
アリスに力がないのか、相手の爪が強いのかは解らないが、このままでは力負けする。そう思うと、身体が勝手に後ろに跳び退く。だが、
猛攻に耐えることしかできない。今まで見てきたどの
左側から伸びてきた腕に反応できず、アリスは吹き飛ばされ、祭壇に叩きつけられる。
「ぐっ……!」
幸い、痛みはさほど感じない。エクスが何かしてくれたのだろうか。
「エクス、
「ちょっとはあるかな。
前に、ミダスが『おじさんは格闘術を習ってたんだよ』と自慢げに言っていたのを思い出して苛立つ。アリスより優位に立ちたいがための虚勢かと思っていたが、本当だったのかもしれない。
間一髪でそれを避けると、祭壇は
「げほっ……げほっ」
木屑や埃が舞って咳き込む。少し触れただけでも致命傷になりそうだ。
(腕が長くて懐に飛び込めない……剣で切りかかっても防御されてしまう……)
どうすればいいのか考えている間も、
当たっていないのに、爪は空気を裂き、アリスのスカートの裾と太ももが切れる。
ピリッと熱を感じたところを恐る恐る確認すると、血が滴っている。
これが訓練を重ねた騎士ならば、大したことはないと笑える程度の傷かもしれない。しかし、己の血に慣れていないアリスが恐怖するには十分だった。
(ちゃんと呼吸をしろ。恐怖を抑えろ。どうにかして、あの化け物の動きを止めて、心臓に直接損傷を与えないと——)
深呼吸をして、壁画を見る。
そこにあるのは、無垢なる原罪、イヴの姿。
あの絵は、傷付けたくない——そう思った。
「ねえ、エクス。さっきやった、あいつの足を地面に埋めるやつ。私もできる?」
「ん? そうだな。奴の足元に剣を刺せ。そうすれば俺がやってやる」
「……その言葉、信じるからね!」
アリスは
それを捕らえようと、巨大な腕が伸びてくる。素早く
「はあああっ……!」
アリスは剣を突き刺す。
すると、剣を中心に地面が沈んでいき、
だが——すぐに地面がぐらぐらと揺れ出す。
「これだけじゃ長く動きを止められそうにはないぞ? どうするんだ?」
「こうするの!」
アリスは真上へと飛ぶ。
爪はアリスの頬をわずかに掠めて外れ、天井のシャンデリアの鎖を切る。
巨大なシャンデリアは逃げ場のない
シャンデリアの落ちる轟音と、叫び声が混ざる。
グゥオオオオオオオ!
「汚い悲鳴だなあ」
エクスが嫌そうな顔をして言う。
アリスはエクスに抱きかかえられ、その場を退避していた。
「いやお前、結構無茶するじゃん。先に言えよ。俺の反応が遅れてたら一緒に潰れてたぞ?」
「だって、前に俺を信じて踊れって言った」
「ええ~? ここでそれを言うか?」
エクスは再び剣に変化し、アリスは潰れた
心臓に向かい、剣を構えるアリス。
それを見た
「やめ……やめてくれ……」
まだ人間の言葉が喋れたのかと思ったが、聞いてやる義理はない。
「俺を殺したら、伯母さんはアリスちゃんのこと……許さないよ……?」
アリスの動きが、ぴたりと止まる。
「気にすんな、アリス。生前の
アリスは笑みを浮かべ、最後の一撃を加える。
「喋らないでよ。気持ち悪い」
アリスは嘆息し、静かに呟く。
「
誰に言うわけでもなく、続ける。
「おかしいと思わない? こんなヤツらのせいで、私のリリスが死ぬなんて……」
間違っている。絶対に。それが運命というのなら、否定してやる——
「エクス、私やる。
人間の姿に戻ったエクスはアリスを見て、口にする。
「簡単じゃあないぞ?」
「今更? 巻き込んだのはそっちじゃん」
「ははっ」
エクスはアリスの方へ向き、片膝をついて手を取る。まるで結婚を申し込むかのような仕草だ。
「お前が望むなら、俺は剣にも盾にも、翼にもなってみせるぞ」
初めて会った日に見せたような、邪悪な微笑みを
「上手に使えよ、俺の
——毎度、天使のくせに悪そうな顔で笑う奴だ。
でも、それでいい。アリスも世に言う、清く正しく美しい
アリスはエクスの手を引き、立ち上があらせる。
エクスの笑顔が伝染したみたいに、笑みを浮かべる。
「よろしく頼むよ、私の天使」
一呼吸置き、自分が今、立っている場所を確認する。
「……教会、めちゃめちゃになっちゃったんだけど」
壁にも床にも大穴が開いているし、調度品はほとんど壊れている。どう見ても大惨事だ。
「ちょこっと霊素を使えば元に戻せるけど、どうする?」
「じゃあ、直してもらおうかな」
「分かった」
教会を修復するエクスの邪魔にならないように、アリスは教会を後にする。
床に転がる白骨化したミダスの死体を、最後に見る。
「さようなら、可哀想な人」
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