君を愛することはないと言う夫とお別れするためのいくつかのこと

あかね

第1話 君を愛することはないと言う夫とお別れするためのいくつかのこと


「私が君を愛することはない」


「はい。私も愛することはないですね。好みではありません」


 本日、夫となった男にフレアは淡々と答えた。


「……は?」


「政略結婚に愛情は入っていません。

 もしや、私が、貴方に惚れてるとでも自惚れていたのですか? おめでたい方ですね」


 呆けた男にフレアは笑いが零れた。失笑というものだと彼も気がついたのかさっと顔を赤らめている。その程度の恥は感じ取れるようだ。


「こうして部屋で準備して待っていてもか?」


「女性の夜着を知らないのかもしれませんが、夜のお務め用のものでないことくらいすぐに気がついてほしいものです」


 そこまで言われて男はフレアの服に気がついたようだった。秋も終わりかけの時期にあわせた露出のないネグリジェと薄手のガウンは可愛いが、男を誘うものではない。


「愛はありませんが義務と責任はありますので、どうぞお好きになさってください」


 投げやりでも恥ずかしいでもなく、面倒だと全面に出してフレアは言う。その気がないのは服装で察したはずだ。だが、責務が存在する以上、避けるつもりもない。

 避けたほうが非難されるのであれば、はっきりと責任の所在を明確にしておくに越したことはない。


「それからたちが悪い侍女がいるので解雇しておきました。

 それがさえずるには旦那様は他に愛する方がいらっしゃるとか? それは契約面で再度話し合いが必要と思い、実家に早馬を出しておきました。明日には我が家から通達がやってくると思うので」


 一瞬絶句した夫(仮)の反応にフレアは少しがっかりした。切れ者と噂であるのに、手落ちが過ぎる。しかし、家の中を放っておくような者が切れ者なわけがないかと思い直した。

 出来る男というのは仕事も家もきちんと回す。やり過ぎて嫁が来ないと嘆いていた知人のように。彼の場合には見てくれの問題があったので、そこだけじゃないんじゃないですかと気のない返事をしておいた。

 ただ、もっさりしたもっさり男でもフレアは気が合うと思っていたし、嫁いでもいいんだけどとさりげなく言っておいたのだが。

 まあ、それも、結婚の話が出るずっと前のことだ。いまさらである。


「……仲が悪く、外に出されたと聞いたが」


 フレアが物思いにふけっている間に夫は気を取り直したようだった。


「ええ、私はいらない子でしたが、我が家というのはですね、付け込めるなら付け込むんです。おお、あの役立たずも少しは得になることを伝えてきたではないかと言ってると思いますよ。賠償金を寄越せ、結婚は無効だ、裁判をして訴えてもよいぞと言いだしますね」


 フレアはあのやりように馴染めないが、嫌がらせには役に立つ。


「もう少しましな貧乏令嬢を捕まえればよかったのですよ」


 ここに必要なのは大人しく泣き寝入りして黙ってしまうようなか弱いご令嬢。間違ってもフレアのような実家が頼れないなら自立しようと言いだすような令嬢ではない。

 ついでに面倒な実家がついていないことも重要だ。


「それで、夜をお過ごしになりますの?」


「くっ。愛情のない相手とするわけないだろう。恥を知れ」


「あら、その話題に戻りますの?

 承知いたしました」


 去っていく夫にフレアは微笑んだ。


「疲れた、寝よ」


 扉を閉めて無表情でフレアはベッドに潜り込んだ。これでお役目はしなくて済む。面倒が一つ減った。

 翌朝には一つ増えているだろうが、今はできることはない。そう安心して。



 翌日に面倒は二つに増えていた。

 フレアは一つの面倒は知っていた。フレアの両親からの違約金の支払いと結婚の無効の申し立ては想定がついていた。

 我が家の娘に傷をつけたとさらに上乗せするのもまあ、予定内だ。

 それも翌朝には連絡をよこす手回しの速さには驚く。予見でもしていたのではないかというほどだ。まあ、最初からきな臭いとは思っていて、騙されたふりでもしていたのだろう。案の定、といったころか。


 もう一つが、予定外だった。

 昼も過ぎてやってきた来客は、知り合いだった。普通は約束がないと門前払いをくらいそうなものだが、フレアの前日の行いが功を奏したのかお知り合いですかとお伺いが来たのだ。

 その名を聞いた瞬間に応接室へ通す。フレアは執事にお茶の道具の準備だけを頼み、人払いをした。


 そして、フレアが応接室に着いて席に着く前に来客がまくし立てる。

 半分以上聞き取れなかったが要約するとこうだ。


「……ええと、先輩、なんですか、婚約していたのに他の男に嫁いだとかいう不名誉なこといいだされる意味が分からないんですけど」


 フレアは困惑しきりで先輩に問いかけた。

 先輩というのは愛称のようなもので、フレアが入った学院の古参であるからいわれているようなものだ。

 何年も卒業せず年も定かではなく、風貌も冴えない眼鏡である。ブロッコリーか、わかめか、鳥の巣かどれか選べ、というほどの髪は今は人前を意識してかいつもよりもマシである。しかし、やはりもっさりとした眼鏡である。

 彼は生徒かと言えば、厳密にはそうでもないらしい。時々、教師の真似事もするし、落第しそうな学生を捕まえては特別講義もしたりする。人が好いというのではなく、それが学院に滞在するための交換条件なのだそうだ。

 そう甘いココアをごちそうになりながら聞いたあの日は近いようで遠い。

 祖父に言われて通った学院は、フレアには寂しいところだったのだ。あの頃は誰とも仲良くなることもできないで、庭の片隅でよく泣いていた。

 それを見つけたのは、彼の愛猫で、猫が連れてきたお姫さまとか呼ばれもしたのだ。


 それからの憧れと刷り込みなのだと気持ちに蓋をして嫁いできてこれである。フレアとしては困惑しかない。


「婚約とまでは言ってない。

 でも、君は、僕にそ、その、好きとかいったじゃないか」


「ええ、この結婚話が出る前です」


「返事してない」


「半年もほっとかれたら普通は断られたと思いますよ」


 さらに言えばこの婚姻まで一年くらいあった。フレアは呆れたように返すほかない。

 その間、ほとんどこの先輩はいなかった。ちょっと忙しいと言われ、知り合いには訳アリ顔でちょっとほっときなよと言われた。


「僕にだって、色々、あるんだ」


「申し訳ないですけど、私、今、人妻なんでそれはちょっと。

 婚姻条件の齟齬で離婚というか婚姻無効になりそうなのですぐに未婚に戻りそうですけどね」


「うん?」


「夫になった人に愛する人がいて、責務を果たしたくないといいだされたので」


「…………。

 え、君みたいな魅力的な女性相手になにもしなかったってこと?」


「愛情がないとしないそうです」


「もったいない」


 心底残念そうに言われたが、フレアもちょっと先輩の印象を下方修正した。魅力があると言いたいのかもしれないが、それにしたって言い方があるだろう。


「僕は我慢しなきゃとずっと思ってたのに」


 どう解釈していいのか困る。フレアはため息をついて、応接室の椅子に座った。

 そう、座ってすらいなかったのだ。

 なんだかぐったりと疲れた気がする。


「先輩もどうぞお座りください。

 お茶飲んだらとっととお帰りくださいね」


「連れて帰るつもりでいたんだけど」


「駆け落ちのお誘いですか。

 夫に有利に進める気はないので、お引き取りください。それから、わけありでもよろしければ、離婚後、実家に金を積んで求婚してみてください。二度目の結婚ならば条件をかなり下げても首を縦に振るでしょう。

 ああ、できるだけ、下品な金持ちなふりをしたほうがよいですね」


「なぜ」


「うちには姉が良い目にあうのを嫌がる妹というものが生息しておりまして、優良物件の顔をしていると横取りされます」


「……いたっけ、妹」


「いたんですよ。妹」


 フレアが妹について言うことはなかった。逆に妹を知っている人ならば、ああ、あの姉と言われることだろう。

 なんでもフレアは性悪で妹をいじめる姉であるらしかった。


 逆では? と言いたいところだが、振り返ってみれば返り討ちにしてきたので正しくはないかと思いもする。

 あの妹は、と考えると頭が痛い。


「なんか、ものすっごいドジっ子、みたいな」


「ドジっ子」


「例えば、私に足を引っかけて転ばせようとするじゃないですか」


「なぜ、転ばせようとする?」


「いじわるですよ。いじわる。普通は引っかかったり引っかからなかったりという話なんですが、うちの妹は違います。

 足を出し過ぎて、なぜか自分がこけるんです」


「は?」


「例えば、熱いお茶を間違えてかけちゃったなんてやろうとするんですが、お茶って正しく入れるとそれほど熱くなくなるんです」


「ああ、お湯を入れて五分程度でそれなりに温度は下がるね。飲むなら65度くらいがおいしい」


「そういえば、測ってましたね。温度」


「珈琲は80度くらいの抽出、再加熱がうまい。

 ……じゃなくて、60度くらいでも熱いだろ」


「軽く火傷はしますね。

 でもやっぱり妹は一味違います。そこを、アツアツじゃなきゃって正式な手順飛ばして淹れようとして、お茶の淹れ方を習ってないの? と笑われちゃうんです」


「…………なんか、あれだな」


「ええ、なんか、かわいそうなんです」


 フレアは先輩が濁したところをはっきりと断言した。そんな妹、顔だけはべらぼうにいい。顔だけでこの先、生きていけるんだから黙っていればいいのにとフレアは思っていたりするくらいに顔がいい。そこそこ美人だけどあの妹と比べたら普通などといわれ慣れた姉の僻みもはいっている。

 ニコニコ笑って黙っているだけのお仕事が天職だ。なにかさせてはいけない。そういう生き物である。何かさせたときの被害ときたら……。


 両親はそのうちに高値で売りつけるつもりではあるだろう。出来るだけ皆が幸せにと言いくるめたら即同意しそうだ。

 まあ、フレアには関係のない話ではあるが。

 あの妹は妹で強かで、闇もある。


「わかった。

 じゃあ、なんかうちの旦那様に嫁ぐなんてかわいそう系で演出してみる」


「ええ、よろしく。離婚か無効の成立が早いと良いのですけど」


「そうだといいんだが。

 いまさら、君の魅力に気がつかれても困るから、ちゃんと手回ししてくよ」


 次の貰い手の予定も立ったところで、フレアは先輩にお帰り願った。


 三つ目の問題が起きたのは夕刻だった。


「お腹に赤ちゃんがいるんです。別れてください!」


 ……さすがにどうなのかとフレアは思った。

 推定愛人様の御来訪である。しかも、玄関ホール入ってすぐにやられた。周囲には使用人がいると言うのに。

 その使用人というのは、わぁっという反応である。興味津々から青ざめる者まで幅広い。口止めしたってうわさは広がると思ったほうがいいだろう。この家の使用人は思った以上に口が軽い。


 フレアは気を取り直して、その女性に貴婦人としての礼をとった。相手が礼儀知らずでもこちらはちゃんと扱わなければ、後で何を言われるかわからない。

 愛人はフレアの行動に腰が引けている。やはり、貴族の隠し子などでもなく普通の子であるらしい。貴族らしい貴族と会ったこともなさそうだ。ある意味、今の夫はそれの典型でもあるが、この愛人の前では大人しくしているのだろう。


「わ、わたし、この子が大事で」


 そう言っておなかをさする。フレアとしては本気で大事なら、誰の手も届かないところで育てたほうがいいと考えるところだ。

 私が悪い妻なら、ちゃんと考えているわと微笑んで、家と生活を保障して、安心したころに、私がしたとばれないように殺す。それも、夫の過失のような手で。そして、傷つく夫を慰めてその心を手にする。


 死ぬ間際まで幸せに過ごさせて、最後に、ちゃんと全部教えてあげる。


 という夢想は投げ捨てておこう。フレアは微笑んだ。次の夫が決まっているので早く今の夫を投げ捨てたい。受け取ってくれるならこれ幸い、ということだ。


「承知しております。

 今、婚姻無効の手続きを行っておりますので、一週間ほどで完遂されるでしょう。

 申し訳ないですが、手続き自体は当主権限となっております。書面上の旦那様に催促してください」


 そうフレアが述べれば、相手はぽかんとした顔をしていた。


「未来の奥様と後継者様です。

 きちんとおもてなしして差し上げたら?」


 留守居を任せているという執事に後の対応を任せた。女性の名前を呼んでいたところを見るとちゃんと知り合いであるらしい。

 世の中には結婚したと知って、昔の付き合いを引き合いに脅す人間がいる。そういう手合いではなかったようだ。


 眩暈がとかなんとか騒がしいところを離れて、フレアは荷物をまとめに部屋に戻った。荷解きもろくにしていない部屋だった。

 鞄一つに日常のものを詰めた。


「奥様、どちらに?」


「旦那様の大事なお子様ですから、なにかあっては困ります。

 子供には罪もございません。

 私は外に宿でも取ります。手配はしてもらえないでしょうから、後で宿泊先は届けます」


「お待ちください。

 私が同行いたします」


 さすがに留守居を守る執事は違う。フレアは舌打ちをしそうになった。あえて安宿に泊まるという選択を潰された。

 玄関ホールの外で馬車を待つことになった。徒歩でみじめにというルートも存在しなくなった。

 まあ、追い出される妻、というだけでもいいかとフレアは思い直す。


 貴族というのは、馬鹿にされることを嫌う。

 下の階層に嘗められた真似をされるのは本当に嫌がるのだ。フレアは弱小ではあるものの貴族の娘。先ほどの愛人は良くて中流階級の娘だろう。

 中流階級の愛人に貴族の正妻が追い出された、という醜聞はあっという間に駆け巡る。


 フレアだから、というわけでなく、貴族の娘、それも正妻が、というところがとても重要である。そんな越権行為許されないのだ。

 この先、どうあがいても、彼女は貴族社会に認められなくなるだろう。その子も認めることもない。


 おそらく、これまでフレアのことを貧乏貴族とバカにした者さえ手のひらを返したようにおかわいそうにと言いだすだろう。

 同じ貴族同士での愛人ならばこうはならない。


 同じ貴族ではないだろうとフレアが思ったのには理由がある。初夜を愛情がないからと断るような男ならば下級貴族であっても気にはしないで妻とするであろうと考えたからだ。

 彼には張りぼての妻が、それも同じ貴族の妻が必要だった。

 愛人は妻に出来ないのだから。


 それも、誠実ではないなとフレアは思う。だからこそ、押しかけてきてしまったのだろう。誰かが不安でも吹き込んだとか。


 まさか、先輩、手が早い? とフレアは思ったが、実家の手の者と考えたほうが自然な気はした。探りを入れて妊娠を確認。

 よぉし、がっぽり、儲けるぜ。という気概でなにかつついたんだろう。

 本当に結婚相手の家はちゃんと調べたほうがいい。フレアはそう思う。


「お待たせしました。

 懇意にしている宿がありますので、そちらにご案内いたします」


 執事にほどほどの高級宿に馬車で連れていかれ、宿の中で最上の部屋に案内された。なんでも注文してかまわないし、買い物をしても全部、婚家のツケにしてよいとまで言われてフレアは呆れた。

 迂闊に何かすれば、浪費癖がと流されかねない。悪い女だから浮気をしたのだと都合の良い話を作られる。


 フレアは大人しく部屋にいることにした。最低限の食事と飲み物。それから、新聞。

 それだけあれば、ひとまずは事足りるだろう。


 部屋は最上の部屋と言われるだけあって派手さはないが調度品の質が良い。監禁場所としてはほどほどだろう。

 フレアはベッドに横になり、今後の予定を考える。


 まず、離婚か婚姻無効である。これについては、フレアに出来ることはない。家同士の婚姻なので親と夫が決めるものだ。おそらく、金額について揉めるであろうからそこそこ長丁場が予想されていた。

 そこに既に妊娠した愛人が投入されている。時間制限があるので即刻決めねばならない。用意されている選択肢は、その子を保護するために今の妻と即刻離婚し、愛人と結婚するか、庶子として愛人から子を取り上げてフレアに育てさせるか、どちらもせず見捨てるか、くらいしかない。愛人と妻が仲良く、などという都合の良いものはもうないのだ。

 どの選択でも、泥道だ。ぬかるんで半端に歩けそうなのが、判断を見誤らせる。もし、茨やら凍った道ならば、覚悟も決めて行くか、もう撤退するか選べるのに。


 フレアは愛人の子などを育てる気はない。それ以外を選ぶほうが望ましい。

 フレアの実家は金があれば愛人の子くらい育てろと言いだすかもしれない。しかし、次の縁談が決まっているとなれば渋ったふりをして早めに決着をつけるだろう。


 これも先輩の腕にかかっているなとフレアは思う。

 つまりはやることがない。


 いや、なくもないか。

 フレアはベッドから起き上がった。知人友人に窮状を嘆く手紙を書く。その手紙を見てフレアに有利な噂話の一つや二つ流してくれるかもしれない。

 それにしても、数日前に結婚を祝った相手から、夫には愛人がいて、その愛人が乗り込んできて、子供もお腹にいるんですって! なんて聞くとは思わないだろう。

 ついでに愛していないから、子をもうけたくないとも言われたと追加すれば、不幸な結婚の三点セットができる。

 どうせなら、ネックレス、指輪、耳飾りの三点セットのほうがよかった。


 引きこもりはじめて二日、フレアの元に夫が訪ねてきた。

 憔悴しきった顔で部屋に入り込もうとするのをフレアは断った。


「愛しい方が不安になられるようなことはいけませんので」


「不安になるようなことはなにもない」


「人というのは、面白おかしい噂のほうを信じてしまいがちです」


 嘘だと知っていても伝播させる人はいるのだ。フレアは微笑みながら宿のロビーに併設されている店への移動を促した。そこは宿の受付を待っている間に軽食や飲み物を楽しむ場所で、人目が多い。


「どうなさいました? 離婚ですか? それとも婚姻無効になりました?」


「離婚も婚姻無効もしない」


「愛されている方が、子を宿しているのですよ? すぐに結婚して、安心させて差し上げるべきですわ。もしかしたら、嫡男になるかもしれません。大切でしょう?」


「大切だが、貴族ではない」


「……矛盾がございません?」


「反省した。おまえの子を跡継ぎにするから、さっさと帰ってこい」


「さいてー」


 思わずフレアは素の声が出た。

 愛している人がいるので、妻になったばかりのフレアとは夜を過ごすことをしないと言ったのだ。甘いし、気に入らないが、相手への誠意であるならば、それなりに道理はあると思った。

 ところが、都合が悪くなるとそれさえ捨てる。


「彼女たちは別宅に置く。週に1、2回は泊まるが、それ以外は帰る。

 もちろん子が生まれても庶子の認定もしない」


「……さいてー」


 庶子の認定というのは、最低限の義務である。それがないと養育費の滞納の請求ができない。相続の権利もない。利点を全部奪っておきながら、欠点である捨てられた子という事だけ押し付けるのだ。


 そして、反省したと言いながら不満一杯の顔である。フレアはため息をついた。どこかでなにか吹き込まれて、そうしておけばいいとでも言われたんだろう。

 嘘でも君が大事なんだとか何とか言っておけばいいのに。

 まあ、フレアはそのくらいでは絆されないが。


「わかりました」


「わかってくれたのか。さあ、荷物を運ばせよう」


「脳みその代わりにわらでも詰めてるんですかね? 女相手になるとほんと愚かになるにもほどがあるのでは?」


 この男は女がなにか考えているなんて思ったこともないに違いない。女の頭に詰まっているのは噂と最近の流行りだけ。その程度に扱われることは今までにもあったが、それ以上にこの男には心がない。


 フレアは微笑んだ。

 さて、なにから、告げようか。一息つかないと思うままに罵詈雑言を言いだしそうだった。


「わらを詰めた案山子のほうが識者であるから、わらも過ぎたものではないかな」


 軽い声にフレアは視線を向けた。

 見たことのあるような、ないような青年がいた。にこっと笑うとフレアの許しを得ずに隣に座った。


「申し訳ないが、取り込み中だ」


「話は終わっただろう? グラン伯。

 彼女は婚姻無効か離婚を求めているし、彼女の実家も同じことを求めている。娘にも聞かねばというのは、彼女が断る前提でやはり無理ですな、というため。

 君が誤解しているところがあるならば、彼女が君のことを好きだと思っていること」


「好き、だろう?」


 当たり前のように言われて、フレアは眩暈がした。今、テーブルに突っ伏したい。あるいは、その首根っこをつかんで、最初に! 好みじゃないって! 言ったよねぇ!? と叩き込みたい。

 深呼吸を数度繰り返し、フレアは微笑みを作った。ほかのどの表情もこの怒りを覆うことはできない。


「元々好意があっても、初夜から他に好きな女がいるからお前のことなんか愛さないからとかいう男のどこに好きになれる要素が?」


 沈黙があった。

 店全部が深海に沈んだみたいに静かだった。


「好きだから、断られてショックで家出したのでは?」


「どこをどう好意的に解釈すればそうなるんでしょうね?

 好きじゃないって言いましたよね? 私の好みじゃない」


「本当に、俺のことを好きじゃない?」


 夫はショックを受けている。


「この俺は好きじゃないけど、おまえは俺のこと好きなんだろという自己認識はなぜなんですかね?」


 フレアは返答は聞けそうにないなと隣の謎の男性に視線を向ける。同じ男性としてなにかわかるところはないかと思ったのだが。

 彼は肩をすくめた。


「これね、貴族の嫡男の病気みたいなもんだよ。

 ちやほやされるの当たり前、俺が好かれるの当たり前すぎるってやつ。避けられたら、俺の気を引きたいからと超解釈したりする」


「無理なんですが……」


「大体は大人になる前に、気の強いお嬢さんとか家族からガツンとやられて正気に戻るもんだけど。稀に顔が良すぎて、家柄が良すぎると指摘する人もおらず、そのままになることが……」


 かわいそうに。

 と口に出さずに伝えているようだった。

 フレアは吹き出しそうになるのをこらえる。


「それに貴族の結婚には好き嫌いは関係ない。

 好きだろうと家の利害に反すれば、別れる。嫌いでも結婚するようにね」


「本当に愛する人と結ばれない苦しさがわかるか」


「存じませんよ。

 私だって愛人がいるなんて結婚式が終わるまで、知りませんでしたわ。結婚相手に愛人がいたということを結婚式当日に使用人から知らされる辛さ、ご存じ?」


「黙っていれば、傷つけないと思っていた」


「そういって、誰も彼もを傷つけたのですよ。

 彼女の境遇には同情いたしますわ。愛さえあれば大丈夫だと信じていたのに」


 愛人であった彼女は愛しい相手と結婚する。そのつもりだったのだろう。子供もいるのだから、一緒になれると夢想したのではないだろうか。

 しかし、彼は貴族の娘と結婚した。

 愛人としての立場をわきまえるようにとは伝えなかったのだろうなとフレアは思う。だからこそ、貴族の妻に別れてくれなどといえる。

 ちゃんと自分の身を守るために必要なことさえ、教えない。身勝手な男だ。


 それなのに弄んでいるということすら、気がつきもしない。

 ならば、責任を取ってもらおうじゃないか。


 フレアは優しく微笑んだ。


「はやく安心させてあげてください。

 私のようなものとの婚姻などなかったことにして、新しい人生を始めて欲しいのです。

 大丈夫、愛さえあれば乗り越えられないものはありません。

 父にもきちんと私の意向を伝えておきましたから、ご安心ください。恨みになんて思いません」


 フレアの受けた仕打ちに対する処罰は貴族社会がしてくれる。裏切者は味方ではないしなんなら敵どころか、ゴミである。ゴミというのは踏み潰していいのだ。

 そういう怖いところなのだが、きっとこの人はわかっていないのだろう。

 彼は強者であった。貴族の生まれで、嫡男であり、それなりに優秀。そして、今は当主である。これだけで他人から表立って雑に扱われることはまずない。


 力のない者が、能力の足りない者が、二番目以降がどうなっているか、なんて考えたこともないだろう。


「大丈夫。あなたたちの愛の強さに皆感動しますわ」



 フレアは腑に落ちない顔ながらも婚姻無効に同意した元夫を見送った。

 手際よく、婚姻無効の書類を持っていた男に視線を向ける。どこからか眼鏡を取り出して掛けていた。


「……詐欺師、できるんじゃないか?」


「詐欺師のような弟がいますので」


「ああ、あの、顔がいい」


「そうです。顔がいい」


 妹のみならず、弟も顔がいいのだ。フレアは普通の美人である。あの家にいたら、普通では? と言われるくらいに普通だ。

 なお、詐欺師のような弟は今まで3回ほど女性に刺され、5回ほど決闘を挑まれたことがある。悪運で生き残ってるような男だった。


「ところで先輩、どこにもっさり感、置いてきたんですか?」


 フレアの知っている先輩より毛量が減っている。分厚い前髪も目が見えるほどには切りそろえられ、眼鏡もいつもよりは洗練されているように思えた。

 服装もちゃんとした服の場合、着られてますという感じだったのが、今日は着慣れていますがなにか? といった風だ。

 白衣以外に似合う服があったとはフレアには新鮮な驚きだ。


「颯爽と助けに入れば、惚れ直してくれるかなと思ったんだ。それならもっさりじゃダメだろ?」


「あのままでも十分だと思いますが……。それにしてもあの人、先輩のこと何も聞きませんでしたね」


「好かれていないショックがひどかったんじゃないか? それから、怒涛の大丈夫、攻撃」


「あら。希望的観測を述べたまでですわ」


 二人の純愛に皆が感動し、手を差し伸べてくれる。きっといつかわかってくれる。身分差なんて必要ない。

 そう考えたかったのは元夫である。理性的に考えれば、無理なのはわかっているはずだ。だからこそフレアを妻とした。

 それなのに、その貴族の妻から大丈夫と言われ、頑張れば大丈夫なのではないかと楽観的希望を実現可能なものと見誤った。


 それこそがフレアの狙いだとも知らずに。


「頭が悪い」


「どちらかと言えば、恋は盲目、でしょうね。

 信じたい方だけ信じればよいのでしょう。辛くても真実の愛があればきっと大丈夫」


 彼らの考えは通用はしない。

 貴族社会に受け入れてもらいたければ、まずは、愛人をどこかの家の養子にする。それから正式に婚姻、教養がつくまでは社交界に出ないし、後見をしてくれる女性が見つかるまでは大人しくしている。あるいは、一切表舞台に出てこない。

 これらの態度が必要であった。


 私たちは、あなたたちの平穏を乱しませんという立場をとらないと叩き潰される。


「ほんと怖いな。子供には罪がないんだろ」


「ええ、本当にいらっしゃれば、ですけどね」


 いてもいなくてもフレアにはもう関係がないことだ。


「そこらへんはわからないよね。

 まあ、取りあえずは未婚おめでとう?」


「ありがとうございます。

 ところで、実家にいきましたの?」


「ああ、弟君からもらったよ。ご両親は不在だったのでね。噂の妹さんに会えなくて残念だった」


「会わなくていいですよ。一目惚れを作る危険物体なので」


「遠目にはみたことがあるんだよな。なんか、ジャンプしてた」


「……なにしてたんでしょうね」


「さあ? 妖精に化かされたかなと思ってたけど、アレ、人間だったんだ」


「人間ですのよ。残念なことに」


 容姿に能力全振りしたと嘆く妹ではあるが、フレアはその特性を知っていた。一生黙っているつもりだが。あのおもしろおかしい妹のままでいただきたい。


「ところで、一年、なにしてたんですか?」


「就職活動」


「しゅうしょく?」


「定職についてないとお嫁さんもらえない。あと、爵位とってきた」


「……それ、とれるものでしたっけ?」


「お金で買える。前々から欲しいって言われてた権利売って、どうにかしたってのに、結婚されてた」


「それは、先に同意を得ればよかったのでは? 婚約くらいならなんとか」


 そういいながらもフレアは難しいことを思い出した。先輩は貴族の生まれではなかった。それだから、こんなとこにこんな風にいるんだけどと曖昧に笑っていた。

 研究施設に就職するには後ろ盾がなく、コネも金もなくと。

 それでいて、あちこちから相談事が舞い込むような人だった。生まれが良ければとほかの誰かが言っていたことを覚えている。

 仕事も家のこともできて、良い人のなのに。悔しく思ったことは何度もある。


 少しばかり苦く彼は笑った。


「平民の男がなに言ってもダメだと思ったんだよ。でも、口約束くらいしてもよかったね。それはごめん。

 上手くいくかもわからなかったし、ちょっと迷ってたのもあって言いだしにくくて」


「なんですか」


「僕ら、15年にも及ぶ付き合いがある」


「はい」


「初対面は君が5歳で、僕は15歳」


「かなり大人に思えましたが、そのくらいでしたか」


「年の差10歳、初対面5歳の僕らが結婚するってどうなんだろ、と」


「はい?」


「ロリコンじゃないつもりだけど、ロリコンなの僕? とちょっと悩んだ」


「幼女のまま愛でたいとかじゃなければいいんじゃないですか」


 そうフレアは言ってみたものの、確かに、5歳からの付き合いの子と結婚します。年の差は10歳です。と言われたら少しばかり、え? と思うだろう。

 当事者ならば違和感はないのだが。


「今後、いつからの付き合いとかは言わないことにしましょうか」


「そうだよね……。本当は、君に似合いの年の人と結婚してほしくはあるんだけど、なんかこう、この数年独占欲が」


「別に構いませんよ。独占欲。そう、独占欲ですか」


 何を考えているかよくわからない男ではあったが、そうだったのか。フレアは小さく笑った。


「で、どこに就職したんですか?」


「王立学院の教員。普通に、同じとこで働くことになった。

 爵位はそこまでの要らないって言ったんだけど、伯爵だって」


「……そこ、売れますの?」


「平民出身の僕に聞かないでよ。風光明媚な田舎を売り払って、都会で暮らしたい老夫婦から買ったよ。後継者いなかったんだって」


「そうですか。善行ではあるのかしら」


 見知らぬ誰かを陥れたわけでもない。


「ひとまずは婚約かな」


「その前に問題があります」


「なに?」


「家がありません。先輩の家に泊めてください」


「……は?」


 ぽかんとした顔の先輩。何も考えていなかったのだろう。


「ですから、今、別れたので、家がないんです。実家にも戻りたくありません」


「じゃ、家を借りれば?」


「文無しです。それに保証人もなく、家を借りることはできませんよ」


「……え」


「大丈夫、妻になるので先輩の家に泊めてください」


「え。なんかおかしくない? 貴族、婚約期間大事とか聞いたよ?」


「それなら婚約して、同居しましょう」


「婚約の意義とはいったい……。

 ……あのさ、もしかして、君も後先考えないで、今、婚姻無効にした?」


「もちろん。

 恋は盲目と言いますので。等しく、私も愚かです」


 自覚の有無は大事であるとフレアは思うが、自覚しようがしなかろうが、結論は変わらないだろう。

 まあ、文無し、というのは正しくないが。一週間程度なら宿に逗留はできる手持ちはある。ただし、こういう宿は家の保証のない宿泊者を嫌う。

 別れたばかりの若い娘というだけで、どこも泊めてはくれない。泊めるようなところは逆に食い物にする気があるところだ。


「……狭い我が家ですが、よろしければおいでください」


 先輩が諦めたようにそう言ってフレアは微笑んだ。


「懐かしいですね。それ」


「小さいお姫さまだったんだけどね。

 荷物を持って、早く行こうか。彼らが我に返る前に」


「ええ。新居が楽しみです」


「あれから変わらないよ。

 それから、家に行くのは書類を出した後にね」


 フレアはこうして、婚姻を無効にし、結婚のやり直しをすることにした。

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