20.大事な話
ミリセントは先日ラレイルに指摘されて完全に自覚してしまった。それから魔王のことを妙に意識してしまっていた。
魔王に感じる感情の何もかもが初めてで、経験がなくて、ここ数日は特に酷い有様だった。
顔を見て逃げ出したのに結局また見にいったり、ちょっと触れるだけでのけぞったり、そんな挙動不審な態度を繰り返していた。
都度謝ってはいたが、魔王からしたら訳がわからないだろうし、本当に申し訳ないことをした。
それでも最近はようやくまた、落ち着いて魔王と話したりできるようになってきていた。
おそらく、自分から生まれた新しい感情、それが呼び起こす感覚や反応にやっと慣れてきたのだ。
最初からドキドキするのがわかっていると、それをちょうどよく隠すこともできるし、先に心構えだってできる。
けれど、今度は会話をしながらずっとひとつの想いに囚われるようになってしまった。
──ご迷惑かどうかは聞いてみないとわかんないじゃん。
ラレイルの言葉が甦る。
もし、彼にミリセントの想いを伝えたらどうなるんだろう。
同じ想いを返してほしいなんて思わない。返事だってべつに必要としていない。
それでも、ただ彼に気持ちを知ってほしい欲望があった。
現実にはただ知ってもらうのは不可能だ。それはミリセントの望む、あともう少しだけこの幸せな暮らしを楽しみたいというささやかな希望まで打ち砕かれかねない。
魔王は同居人が自分のことを好きだと知ったら、まず普通に暮らせないだろう。極大のストレスを与えてしまうのが目に見えている。だからミリセントのためにも、魔王のためにも、黙っているのが最善なのだ。
その結論に辿り着いてからはかなり落ち着いた。
恋をしたミリセントにできることはない。とにかく今は、いつか失われてしまうであろう今を楽しむしかない。
ミリセントは魔王の居室の扉を小さく叩く。
「ま、魔王様、少しいいですか」
「ミリセント? 今行く」
ここ数日の様子に警戒してるのか、魔王はミリセントを驚かせないように、そろそろと出てきた。気を遣わせている。申し訳ないと思うのにその優しさにきゅんきゅんしてしまう。
ミリセントは魔王と向かい合った。
視線を上げると目が合う。ちゃんとしなければ。また困らせてしまう。
ドキドキしながら、なんとか逸らさずに見つめて笑ってみせる。そうすると、魔王は安心したように笑った。
「何か用だった?」
「はい、焼き菓子を焼いたんですが、ご一緒にどうですか?」
「うん。あ、今見てたページが終わってからでもいい? ちょっと気になる文章が続いてて、あまり使われてない言語だから翻訳に時間がかかってるんだけど、もしかしたら探してる情報がどこかにあるかもしれないんだ」
「はい。そうしたら、中庭にお茶の準備を用意してお待ちしてます!」
すんなり承諾してくれた。跳び上がるほど嬉しかった。
ミリセント以外だったらきっと断られているだろう。きっと彼にとって自分が特別だからだ。そんな優越感まで抱く。
ミリセントは想いを自覚してから時々、自分が抱くそれがただ美しいだけのものではないということを本能的に理解していた。それはぐちゃぐちゃした汚いものも内包したままどんどん膨らんでいくような感覚で、少しだけ恐怖を抱いてもいる。
毎日どんどん大きくなるこの感情は、最大限まで膨らんだとき、一体どうなるのだろう。
ミリセントは恋心が破裂した先に起こることが想像もつかない。
それでも、その少し怖いくらいの、いびつに膨れ上がった塊を愛おしく思ってしまうのだから始末に追えない。
***
「おまたせ」
中庭のガゼボにお茶の用意をして、お花などを飾っていると魔王がやってきた。背後からした声にドキッとして、大きく息を吸ってから振り返る。
「クッキーを焼きました。あのお店のものには敵いませんが……」
「そうなのか。楽しみだな」
そう言って魔王が椅子に腰掛ける。
こぼさないように、慎重にカップにお茶を注ぐ。
抜けるような青空の下、美しい庭で大好きな人と優しい風に吹かれている。ミリセントは幸福を感じていた。
ちらりと盗み見る。
その手も、肩も、髪も、瞳も、鼻も、口も爪も脚も腕も全部大好きだと感じる。どこを注視しても好きが溢れてくる。
また、心の中から小さな声が聞こえる。
言いたい。
言いたい。言いたい。
心の中の声は小さいのにすごくうるさく響く。
あなたのことが好きで、好きで、大好きなのだと、叫んでしまいたい。
そう考えた直後、魔王の呆気に取られた顔が浮かんで、欲望を打ち消す。すぐさま自己鎮火できるぐらいに生々しく想像できた。
言えるはずがない。言わないと決めたはずだ。
けれど、ミリセントが魔王に深く感謝していて、親愛の情を持っていることくらいは伝えたい。
「あの、色々ありがとうございます」
「え、何が?」
「わたし、魔王様に拾われなかったらのたれ死んでいました。偶然会っただけなのに、よくしていただいて、本当に感謝してるんです」
「え……えぇ……? 勝手に連れてきて無理やり婚姻契約結んで困った困ったって大騒ぎしてただけなのに……ミリセント、人が好いな……」
彼らしい物言いにミリセントは笑った。
「いえ、服も食べ物も用意してもらって。勝手にやってるお掃除にお給金までいただいてますし、食事を一緒に食べてくれたりも」
「そりゃ裸で放り出すわけにいかないし、こんな大きな城掃除するのは大変なんだから給金出すのは当然だし……食事だって……うまいし……」
魔王の言葉のひとつひとつが嬉しい。あと改めて声も話し方も、表情も好きだと思って、見惚れてしまう。
「あと! ラレイルさんが来た時に……まだここに居ていいと言ってもらって、本当に嬉しかったです」
「あ、いや、それは、よく考えたらあんな奴のとこ行かせるわけにいかないから! 契約の矯正力で悪さはされないとしても、ミリセントが不良になる!」
「あ、ラレイルさんはちょっと不良ですもんね」
「陽キャの魔族はちょっと不良なんて可愛いものではすまないんだよ……」
ミリセントは正直、ラレイルのことをそこまで酷い人だと思っていない。魔王は認めてないが彼の長い付き合いの友人なのだから、芯から悪人なはずがないと思っていた。
でも、ミリセントは世間知らずだし、たまたまお人好しの魔王に拾われただけで、そうでなければもっとたくさん酷い目に遭っていたのかもしれないとは思う。
「それに……ミリセントもラレイルを警戒したから断ったんじゃないの?」
「いえ、わたしはただ……」
あの時、そんなところに頭はいかなかった。
ミリセントは魔王と離されるのがただ嫌だったのだ。
別れはいつか来るとしても、それはミリセントが決めたタイミングで。急に離されてしまう危機感が募ったのだ。けれど、そんなことを言えばきっとまた困らせてしまうだろう。
くちごもってしまい、短い沈黙が流れた。
魔王は小さく息を吐いて、かるく頭を掻いた。
「まぁ、あいつも、最近は少し落ち着いてきたから、実際そこまで警戒することはないと思ってはいるんだけど」
「そうなんですか?」
「うん。あいつ前はもうちょっと選民意識が強かったというか……人族と魔族を意識の上でかなり明確に分けていた」
魔王はミリセントを見て、俯いてからボソボソと続ける。
「商人やってると……もちろん同族にも騙されたり不払いだったりはあると思うんだけど、ヒト族とのごたごたは大体先に訪れる世代交代が原因だから、自然と分けてしまうのかもしれない」
「…………」
「まぁ、でも落ち着いたといってもやっぱり魔族だから、ミリセントは……ミリセント?」
「…………あ、はい」
魔王の口調はラレイルに対する特別なものを薄く感じさせる。
魔王はラレイルのことを嫌いだ苦手だと拒絶しながらどこかで魔族としての同族意識を持っている。そこにはきっと、ミリセントにはわからない、彼らにしか通じ合わない何かがある。
ラレイルに比べたらミリセントなんて、つい最近偶然知り合った他種族の他人でしかないというのに。それでも、ミリセントは自分の胸に小さく嫉妬の感情が生まれるのを感じた。
やっぱり、この人ともっと一緒にいたい。この人の一番になりたい。誰にも渡したくない。
当然ながらミリセントはそんなことを思っていい立場ではない。けれど、感情はいつも自分勝手に生まれてくる。
膨らんでいく想いはやっぱり美しいばかりじゃない。見たくない自分も、正しくない感情も、我儘な想いも内包していて、それでも毎日育っていて、自分の深い部分に絡みついて、逃がれられない。
ミリセントは自分で自分に新しい呪いをかけてしまったのかもしれない。
「誘ってもらえてちょうどよかったよ。君に大事な話がある」
「なんですか?」
どことなくほのぼのした甘い空気の中、そんなことを言われたミリセントの胸はドキンと揺れた。
魔王の顔を覗き込む。黒い髪に赤い瞳。整った鼻筋。どことなく知性的でずっと見つめていたくなる顔だ。
ずっと見つめていると魔王が軽くのけぞった。
「あまり見られると、緊張するから……」
「あ、ごめんなさい」
魔王は笑った。それから、ミリセントの淹れたお茶を大事そうに一口飲んだ。
大事な話。一体なんだろう。
ミリセントは瞬間的にあさましい期待が胸に湧くのを感じてしまっていた。
以前なら話があると言われてそんなことカケラも思わなかったのに。自分が恋をしているから、なんでもすぐにそちらに結びつけてしまうのだろう。そんな自分に恥じらいを感じて心で諌める。
最近のミリセントはいくらなんでも浮き足立ちすぎている自覚がある。
だから、続けられた魔王の言葉には脳天を殴られたような衝撃を受けた。
「婚姻契約の解除の仕方がやっとわかったんだ」
ミリセントは自分が青ざめていくのを感じていた。
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