一号の瞳は青かった。とても青く澄んでいて、ガラスのような透明な質感を備えていた。その目が、今はこちらに油断なく向けられ、僕は視線を泳がせている。


 視界の端に博士が見え、蒼白の手がマウスの近くでぐったりとしている。


「なにをしてるの、二号? 博士は? 寝ているの?」


「あ……、それは」


 僕が何かを言おうとする間にも彼女は僕の脇をすり抜けて、博士の座っているデスクへとズカズカと近付いていく。彼女も白衣を着ている。博士と同じ白衣を。


 間も無く、息を呑んだような気配が伝わってきた。彼女は博士の焼けただれた顔に触れ、それから手首に触れ、脈を測った。しばらくすると、彼女はこちらを向いて、僕に言った。


「博士……、死んでるわね。一体、いつから? それと、どうして他の子達は起きてこないの? 二号……二号、あなたが一番初めに起きたのよね。その時は博士は、生きていた?」


 僕はブンブンと首を横に振った。僕の首が小さく軋む音が聞こえる。


 僕の首振りを見て、一号はそう、とだけ言って、心持ち俯き加減になりながら、憂うような瞳を床に投げかけていた。それから顔を持ち上げると、博士の方を向いて、歩いて近づいていった。


 博士の焼きただれて、眼球の露出した顔に手袋を嵌めた手で触れながら、悲しそうな、残念そうな声で彼女は言った。


「……目を閉じてあげられないのがとても残念だわ。このままにしておくしかないなんて」


「焼却炉なら稼働してるよ」


 そう言うと、彼女は手を離して、僕の方を振り返り、強い目で睨んだ。僕はまたドギマギして、自分の思考回路が余計な事を言わせたことを恨んだ。


 そこで漸く、先程から鳴り響いている館内のアラートに彼女は注意を向け、言った。アラートは先程の言葉をまだ繰り返している。


「隕石が近づいてるのね。大丈夫、小惑星群が少し先にあることは、博士がかなり前から言っていたことだわ。その内自動制御に切り替わって、進路を変えることでしょう。それよりも……今は、起きてこない子たちの方が心配だわ。一体、どうしたのかしら……?」


 それは、確かにそうだ。僕は博士のことに気を取られて、僕を含めた二号達の起床がまだであることに今更ながらに気がついた。そもそも、何故僕が先に起きて、彼女が二番目だったのだろう? いつもは絶対に逆で、一号よりも早く起きたことなど一度としてなかった。彼女は常に一番乗りで、博士の側で博士と何か難しそうなことについて話し合いをしていた……まるで人間みたいに……。


「どうかしたの?」


 彼女の青い真っ直ぐな瞳が目の前にあり、僕は少し驚いた。驚いて、目を背け、視線を泳がせる。泳がせて見た灰色の床には塵一つなく、磨き抜かれた岩石を連想させた。


「変な二号ね」


 彼女はそう言うと、皆がまだ眠っている一階ロビーへと通じる階段へと歩いていった。やがて階段を降りていく音が聞こえてくる。僕は彼女の気配が遠くに行ったのを感じて、ホッと何故か安堵する。安堵して、息が漏れる。その息は、嗅いでみると、無機質な鉄のような匂いがした。僕が人間でない、機械でしかない証のような匂い。どこまで行っても有機体にはなることが出来ない、そういう匂いに思えた。


 顔を上げると、博士は瞼のない目で空を睨みながら、口を半分開け放しにしていた。その口を見ていると、僕は何故か落ち着かないような気分に襲われた。何故だろう。たかが人間の死体が、失敗を悟った時みたいな顔で口を半開きにしているだけじゃないか。何も怖がる必要なんてないのだ。それなのに……どうしてこんなに、自分の内側がざわめくんだろう。あの口を、どうにかして閉じてしまいたい。あの口は、今にも何かを言ってしまいそうだ。でも一体、何を?


 僕の足は自然と、博士を溶解液の中から引き摺り出した時と同じような足取りで、椅子に腰掛けている人間の死骸へと近づいていった。そして、一号がしていたようにその顔に素手で触れ、温もりのなさを検知し、脈のなさも検知した。そして、自然と手が、僕の自分の掌が——その口に触れるのを、僕は感じた。そしてそこに温もりのようなものがあるのを感じて、僕は驚き、慌てて手を引っ込めた。そして、そのかつて人間だった者の口を見た。その口は既に溶解液によって唇が失われかけていて、開かれている空間には、まるで外界に対する唯一の窓ででもあったかのように、暗闇だけを映し出していた。僕はそれらが持っているような、確かさのような気配を感じて、それを酷く気に食わないと感じた。


 僕は再び手を伸ばし、開き放しになっている人間の口を閉じにかかった。力を込め、綺麗にホワイトニングを施された溶けかかった歯の根本を掴み、上と下から挟み込むように押さえつけた。それはとてつもなく骨の折れる作業だった。本当に、さっきみたいに……


 ……さっき、みたいに?


 ブーッ、ブー……ッ、と、再び警報音が鳴る。それから例の人工知能のアナウンスが上から流れてくる。


「小惑星群を探知。軌道に変更がないため、これより自動制御モードへと移行します。揺れにご注意ください。間も無く、自動制御モードに……」


 僕の力は十分にある筈だった。ギリギリと人間の死骸の口を抑えつけながら、僕は自分の能力不足を疑い始めていた。どうして人間一人の口を閉じることも出来ないのだ。どうしてこの口は閉じてくれないのだ。この口が開いたままになっていたら、もしかすると何かの言葉が漏れ出てしまうかもしれないじゃないか。例えば、誰かの都合が悪くなってしまうような何かだ……それは一体、なんだ。なんだ、二号。……


(「お前は、本当に使えない」)


 思考回路に、何かの音が混ざり始めた。これは一体、何のイメージだ? いつ、僕の中に埋め込まれた? いつ、どこで、誰が、何の為に……。


(「お前は……本当に使えない。だから、皆と同じように動く必要はないのだ。遠くで、安全な所で、本でも読んでいればいい。いいな、お前は使えないのだ。動かなくて良いのだ。余計なことはするな……そのままでいろ……ずっと、ずうっと、そうしていろ……。分かったな……」)


 それが博士と話をした最後の記憶だ。思い出した。それが最後の記憶で、ずっと記憶の焼却炉に放り込まずにいた唯一の記憶だった。それがある限り、僕は言葉に変換できない何かのエネルギーを、常に内に秘めて過ごしてきたのだった。それを人間の言葉では何というのか僕は知らなかった。


 手は滑り始めた。汗をかいている? そんな馬鹿な。そんなことなど有り得るはずがない。僕は機械なのだから。汗をかく機能など備わっていない筈だ。


 それが力を込めすぎたが故に、博士の口の周囲から滲み出した血であることに気づくのは、もう少し後になってからの事だった。


 僕はとにかく、博士の開き放しになっている口を閉じようとし続けた。そして、漸く、口は元の場所に戻った。僕の手は、いつの間にか博士の血で血だらけになっていた。


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