羊と竜骨──Beyond the freezing spring──
猫セミ
第1話「氷解」
──しかし、今の彼に脅威は全くと言っていいほど感じられない。どれほど強い言葉で凄もうが、
「……それで、愚痴を言うためだけにわざわざ僕を呼び出したんですか」
一方的な無駄話が続いたことに、少しばかりの苛立ちを覚えていた三笠は本題に入るよう急かした。
昼下がりの警察署、その中に特別に作られた部屋で二人は対面していた。窓は一つもなく、光源は頭上の蛍光灯のみである。ドアも壁も、厳重な魔術封印がされていた。異様な空気に薄暗い部屋。そんな中にいるものだから、どうにも時間の感覚が狂ってしまう。
本来であれば今も三笠はスペクター駆除に出掛けているはずだった。それなのに、例の事件の最重要参考人がどうしても、と三笠を名指しで呼び出すではないか。
仕事を放ってしぶしぶここへやって来たはいいものの、聞かされるのは愚痴ばかり。
(やれ部屋が寒いだの、やっと暖房を取り付けてもらえただの、監視の魔術師に愛想がないとか……)
もう二、三か月もここにいるのだ。彼の話題がそれくらいしかないのは仕方のないことだろう。どうやら、この目の前の男──
「ふん、余裕のなさはいざって時に手を狂わせると思うけど」
三笠に噛みつかれた当人はというと、目の前に座る青年の余裕のなさが面白いらしい。人の悪い笑みを浮かべながら頬杖をついてそう言い返す。
「……鬱憤晴らしなら一人でやればいいじゃないですか。ご機嫌取りくらい自分でやってくださいよ。いい大人なんですし」
そう言って三笠は幸嗣の顔を睨み上げる。
浅縹色の澄んだ瞳がじっとこちらを見ていた。薄暗い中で、時折陰に消えるその色は相方にそっくりだ。当人たちがどう思うかはさておき、兄妹というのは疑いようのない事実なのだろう。
初瀬幸嗣。
昨年の竜脈異変を起こした張本人かつ、八年前の十月事件、その一端である連続強盗殺人事件の犯人でもある。他にも市内在住の女性を殺害し、私物を盗んだなどの余罪がある。後者二つは当人が自白したことにより判明した罪だ。この他にも罪があるのではないか、三笠はそう思っている。
さて、そんな彼が警察署にいるのは、他でもない魔術師だからだった。
現在、この日本において魔術を使用した犯罪を裁く法は存在しない。それどころか、魔術師を上手く無力化して拘束できる施設もない。彼を留置場に入れておくわけにはいかない、ということで特別にこの部屋が作られたのだった。しかしこれも彼の特性を利用したものであって、全ての魔術師がこの方法で拘束できるわけではない。専用の施設ができない理由は大体これに帰結する。現に三笠はこの部屋の中でも魔術を行使できてしまう。
この部屋が汗ばむほどに暖かいのも、外界と接する窓が無いのも、全てそのせいである。
(こう考えると、高温に弱いっていうのは本当に重たいデメリットだな)
とはいえ、いくら何でも熱すぎるのではないか。三笠はそんな気がしていたが下手なことは言うまいと口を噤んだ。魔術封印に関しては知識が全くと言っていいほどないからだ。
「……お前、まだアイツと一緒にいるのか」
「え?」
ふと幸嗣は三笠にそんなことを問いかけた。
思わぬ言葉に三笠は拍子抜けする。見やったその顔はあまりにも複雑な表情をしていた。質問の意図が読み取れず、三笠は答えに困る。
「アイツって……」
「
幸嗣はそんな三笠に苛立ったのだろう。声を荒げながらそう言い放つ。彼はいつもそうだ。妹の話になると途端に不機嫌になる。取り調べを行った警官が愚痴のようにそう言っていたのを聞いたことがある。そのくせ、自ら彼女の話題を持ち出すことが少なくない。彼の前で初瀬渚を持ち上げてはならない。しかし、下に見てもならない。それが何度か会話を重ねて三笠が得た会話のコツだった。
「それが何だって言うんですか」
「いいから質問に答えろよ」
「……まぁ、まだ仕事は一緒にしてますけど。でもそれだけですよ」
尋問されているかのようなやり取りが繰り広げられる。どちらが拘束されているのだったか、これでは分からない。
「そんなにイライラされながら訊かれても、こっちだって困りますよ」
三笠は眉間に皺を寄せつつ、首を横に振ってそっぽを向く。あくまで非難するのは幸嗣の態度だけだ。すると彼は少しだけ眉を下げて申し訳なさそうな顔をした。
「え、何ですか」
「いや、別に。────そうだな、悪いことは」
妙なタイミングで幸嗣が言葉を切る。不審に思った三笠は眉をひそめて顔を上げた。
その瞬間に耳へ飛び込んできたのは、激しく咳き込む音と液体が床に滴る音。口元を押さえる指の隙間からは、赤黒い液体が垂れている。細く細く、糸を引きながらそれは幸嗣の膝へと落ちていく。
「っな、どう、いう……!?」
想像もしなかった光景に、三笠は泡を食いながら席を立つ。パニックにならぬよう驚く自我を抑え込んで、彼の元へ駆け寄った。同席していた監視の魔術師も慄きながらこちらを見ている。混乱し口々に言葉を投げ返る二人に対し、幸嗣は一言「黙れ」とだけ言った。その声の強さに反して呼吸は乱れに乱れていく。そのうちに一つ、ごぼりと命を吐き出すような大きな咳が出る。
(血……じゃない、これ、ヒルコだ……)
その生臭さにその色に怯えながらも三笠は必死にその背をさすったり体勢の維持を手伝おうとしたりする。しかしそれもまるで効果が感じられない。徐々に弱っていく命を抱えながら、呆然とすることしかできない。生暖かい何かが、膝を足元を濡らしていくのが分かる。
「い、いいか、悪いことは言わない」
己の状態も顧みずに、彼は言いたいことを口にする。
「自分の身が、可愛いと思うんだったら──アイツからは、離れた方が、いい」
思わぬ言葉に三笠は何と返してよいか分からず息を飲む。監視の魔術師が廊下で何かを怒鳴っているのが聞こえた。
ごほごほと咳き込み続ける彼の足元には、黒く深い水たまりができていた。痛みがあるのだろう、その指先は震えている。それでも彼はまだ何か言いたいことがあるのだろう。喋ろうとして肺を膨らませ、刺激を受けた喉が咳を呼ぶ。
「も、もう喋らないでください、とりあえず医者が来るまでは……」
「いい、いい。もういい。とにかく、」
紡がれるはずだった言葉は血の塊となって吐き出される。
「え、これ……は……」
妙に温かい部屋の中。幸嗣を支える三笠は急激な気温の変化を察知する。木枯らしのような冷たい風がどこからか巻き上がった。
(魔術、じゃなくて、これは魔力……!?)
ぞわり、と背筋を冷たい魔力がなぞっていく。
「ま、ぁ……いい。これで退かない、ってんなら、お前が後悔するだけ──」
呆然とする三笠を放って幸嗣は言葉を紡ぎ続ける。そして最後、一つ小さな咳をして彼は静かになった。恐る恐る脈を確認してみれば、完全にそれは絶えていた。死の直後にしては冷たすぎるその身体を抱えながら、三笠は瞬きを繰り返す。
「こ──れは、どういうこと」
背後、驚愕の声に反応して三笠は勢いよく振り返った。
冷えた空気が鼻先を冷やす。振り返った先では、肩で息をしながらこちらを初瀬渚が見つめていた。
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