第十話 漆黒の竜


 その後もしばらく進んだけど、驚くほど何もなかった。風は穏やかで、辺りには雲がゆっくり流れているばかり。地上の方を見ても、真下には茶色っぽい霧がかかっていてよく見えなかった。どこまで行っても同じ景色で、進んでいるのかも戻っているのかもわからない。

『そろそろ島の外だよ』

「もうとっくに島の外だろ」

『クジラの周りには、外敵の侵入を防ぐために空気の膜が張ってあるんだ。いま、空気が急に薄くなった』

 確かに、急に気温が低くなったみたいな気がする。風も強くなって、まるで冬の空。いつもの快適さは、島が作り出した環境ってことか。まるで、人間のために作られた環境みたいだ。なんて、考えすぎだろうか。

『それより、後ろを見てみてよ』

「後ろ? 何かあるのか?」

 ジェシーに言われて後ろを向いた瞬間、目を疑うような光景が目の前を覆いつくした。

「なんだこれ……でかすぎんだろ!」

 俺たちが飛んできた方に、巨大と言うには大きすぎるほどの生き物が積乱雲から背中を出していた。いや、違う。積乱雲を纏って、足元に広がる雲の海を引っ張って悠々と泳いでいる。太陽を覆いつくすなんてそんなレベルじゃない。空全体を覆いつくして泳ぐのは島のような生き物なのか、生き物のような島なのか。そんなバカでかい体の三分の一くらいはありそうな大きな口の真上に見える空洞は眼だろうか。片目だけで、街一つ分くらいの大きさだ。見慣れたようで初めて見る故郷は何キロも離れているのに視界いっぱいに広がっていた。

「すげえ……俺たち、本当に生き物の上に住んでたんだ」

 俺が今ジェシーの上に乗って飛んでるように、みんな生き物の上で暮らしていたんだ。なんだか、不思議な気分だ。

『そうだよ。ボクはもう見慣れてるけどね』

「そういえば、ジェシーは島の外から来たんだったな。どこから来たんだ?」

 今まで気にしたこともなかったけど、故郷の島には、ジェシー以外に飛竜はいない。レースに使われる小型の翼竜や、警備隊が飼育してる火山竜。それ以外のドラゴンは見たことがない。

 俺の疑問に、ジェシーは少し考えるそぶりを見せてから口を開いた。

『竜の国。ここから南西に何日も行ったところにある』

「ドラゴンがいっぱいいるのか?」

『ドラゴンしかいないよ』

 やっぱり、島の外には広い世界が広がってたんだ。

 考えてみれば当たり前だった。上空を横切る渡り鳥は島の外で孵って俺の島に来る。ジェシーだってそうだった。この大きな翼でどんな世界を渡って来たんだろう。

「いつか行ってみたいな」

『……そうだね』

 珍しく何か含みのある言い方だな。もしかして、藪蛇だっただろうか。

「……どうした?」

 ふと、ジェシーが空中で静止する。

 ゆっくりと羽ばたきながら、慌ただしく左右を見回し始めたと思えば急にクジラに向かって上昇する。何か忘れものでもしたか、なんてジェシーに限ってあり得ない。こっちの指示も無しに行動するってことは、不測の事態。

『何か来る』

「何かって……何も見えないぞ?」

 あたりに広がるのは、ひたすらに青い空。風も穏やかで、嵐の予兆なんかも感じない。まさか、嵐の前の静けさってやつか。

 ふと、急に島の方向へと引っ張られる。

『戻るよ。掴まってて』

「おい、急にどうし……」

 そこまで言いかけたところで、さっきまでいた場所を巨大な火の球が通過した。服の一部と髪が焦げる臭いに振り返ると、火の球が飛んできた方向から大きな影がこっちを見ているのが目に入る。

 ジェシーよりも大きくごつごつとした体に、骨張った翼。黒光りする、鎧に包まれているような体。見た目はまんまドラゴンだけど、その雰囲気は異様だった。まるで、物語に出てくる悪魔みたいな体つきだ。

「おいおい、なんだよあれ」

『魔物だよ』

「魔物って……冗談だろ?」

 

 おとぎ話の厄災ってイメージだ。

『クジラの上に住んでるっておとぎ話が本当なんだ。魔物だって本当だよ』

 つまり、物語ってのは魔物の怖さや危なさを伝えるためにあるってことか。

 街で見るドラゴンよりもずっと大きく、力強く、そして早い。

「だからって、なんで今日に限って」

『クジラの背中は安全だけど、外の世界には危険な生き物がたくさんいるんだ。ボクも、十年前に魔物から逃げてクジラの上に行き着いた』

 ジェシーは自分の事をあまり話さないから知らなかった。敢えて話さないんだって思ってたけど、まさか俺と出会う前にそんなことがあったなんて。

 だからジェシーは止めようとしてたんだ。外の世界を知ってるから。それなのに俺は……。

 なんて、後悔している暇はない。何をしたかより、何をするかだ。

 魔物の方を見ると、こっちに向けて口を開けているのが目に入る。さっきみたいに、火の玉を出そうとしてるんだ。このままじゃ、死ぬ。

 だったら、一か八かでやるしかない。心の中でそう唱えながら懐から弓を取り出すと、静止する声が頭に響く。

『まさか、撃つつもり? 大型の魔物に矢は通らないよ』

「それでも、目くらましにはなるだろ」

 一か八か、弓に矢をつがえて引き絞る。矢じりに黒色火種ブラックシードを仕込んだ爆弾矢。小さい頃に遊びで作ったものだけど、試し打ちした大木が倒れるほどの威力が出る。あれからもう使わないと決めていたけど、使うなら、今だ。大口を開けて一直線に向かってくるバケモノに当たらないわけがない。目を合わせただけでちびりそうなほど凶悪な顔に狙いを定めて放った。

 飛んでいった矢は風を引き裂いてまっすぐバケモノの眉間に突き刺さり、少し遅れて轟音と共に大爆発を引き起こす。昔、試し打ちした大木を吹っ飛ばしたことがある。今、そんな気分だ。やってしまったって気分と、どこか痛快な気分。高いところから飛び降りるときのような、恐怖と高揚感の混じった感情が体中を駆け巡る。

 黒い煙の向こうで、魔物は耳を劈くような苦痛の雄たけびを上げた。

「やった! 魔物がなんだ! 島一番のドラゴンライダーの前じゃ羽の生えた蜥蜴だ!」

『レイン! 気を抜いちゃだめだよ!』

 ふと、ジェシーが叫んだ。それと同時、黒い煙の下から真っ白い光が漏れ出し始める。

 さっきの光だ。しかも、大きい。このままじゃ、やられる。

 そう予感するのと同時、焼けるような痛みが体中を駆け巡ったかと思えば、次の瞬間には急降下している時特有の内臓が浮き上がるような浮遊感に包まれる。

 薄く目を開けると、バケモノの姿は無くなっていた。そして、雲の中にいた。ジェシーが雲の中に逃げ込んだんだ。体中が凍り付くように冷たくなっている。それは雲の冷気による物か、恐怖による物か。判断できる冷静さすら失っていく。

「ジェシー!」

 振り落とされそうなほどの速さで急降下するジェシーに呼びかけても応えが返らない。気を失っているんだ。

 ジェシーに掴まっているうちに、真下に向かって際限なく加速していく。流線形の身体は、急降下するときに一番スピードが出る。魔物だって追い付けない。ジェシーが、体を張って守ってくれたんだ。風を纏い、雲の海を突き抜ける。

「これが……地上!」

 雲を抜けた先に広がっていたのは、小麦畑のような、黄金の大地。太陽の光を反射して金色に光る世界に眼がくらみそうになる。多くの人間が夢に見た、金色に輝く理想郷。金色に光る大地に手を伸ばしたところで、背筋を突き抜ける衝撃に視界が暗転した。

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