第8話 綻び

ラグド内戦資料館での業務から一週間が経過し、相変わらず日課のランニングは続けているが、ファングから「ビシバシ鍛えてやる」と言われてから何か特別な指示が与えられているわけではない。

いつのまにかあの話はなかったことになったのか安心のような少し不思議な感覚だった。


日課の継続の結果、ファングの背中が見えなくなることはなくなってきた。これは体力の向上の結果だろうか。成長していく自身に達成感を覚えていた。

資料館での仕事も上々の評価をもらい、パーティとしての活動を優先したいという意向したいという意向を汲んでもらった上で、続けられることとなり、充実した日々を過ごしていた。


その朝は突然訪れた。

寝室のドアを大きくノックする音が聞こえる。ランニングをするにはまだ早い時間だ。

ワタルは目を擦りながら扉を開けた。


「走りにいくぞワタル。」

ファングの声に目を覚まされたワタルは、少し戸惑いながらも素早く身支度を整えた。心なしかこれまでとは違った緊張感が漂っている。


刺さるような冷えた風がワタルの肌に触れ、ファングとともに早朝を駆け抜けた。


次第に息が切れ、体が燃えるように熱くなる。いつもであればクールダウンに入る頃合いだが、今日のファングは黙々と先頭を切り開く。

ワタルは脇腹に手を置きながら足を止めないことだけに集中するしかなかった。


ようやく走り終えた後の朝食はなかなか喉を通らなかった。今日はファングがそういう気分であったのか。

休暇であり眠り足りないのでシャワーを浴びようとしたその刹那、ファングに肩を掴まれる。寝不足で疲れていたワタルの身体にはその力が響いた。


「今日から鍛錬を始める。外に出ろ」

目をパチクリとさせているうちに、ファングは先に外へ出てしまう。ワタルも慌てて後を追った。


「このスコップで穴を掘るんだ」

ワタルはファングの指示に驚きつつも、素直にスコップを手に取り、割り振られた場所で穴を掘り始めた。土を掘り返す音とファングの黙々とした姿勢が朝の静けさに混ざり合っていく。


「辞めて良いっていうまで続けるんだ」

ファングの厳しい指導が何を意味しているのか、ワタルには理解できなかったが、彼はただ指示通りに作業を進めるしかなかった。


土を持ち上げる腕が痛くなる、しかし彼は黙ってそれを見つめていた。

ファングの厳しいトレーニングは一向に続き、ワタルは疲労困憊の中で穴を掘り続けていた。彼の疑問や苦悩は深まり、一抹の不満を覚えた。


1時間ほどした後、「じゃあ埋めるんだ」ワタルは耳を疑った。

穴を埋める作業もまた一苦労だった。土を掘るのと同様、おそらく筋力を鍛えるためのものなのだろうとファングの指示通りに進めるしかない。


穴掘りの瞬間には筋肉の痛み、埋める作業では土に押し潰されそうな圧迫感が襲ってきた。


掘った穴が埋まっていくことに虚しさを覚えつつ、埋めた土を整地してファングへ完了した旨を伝えた。


「思ったより早く終わったな。今度は朝のコースを良いと言うまで何周も走ってこい」


自分が皆んなの足手纏いにならないためにはこれほどキツイことをしなければならないのか。もう足が動かない。

陽はもう傾きかけていた。


「止め。初日にしてはよくやったな。今日は休むといい。仕事のある日以外は毎日続ける。覚悟しておけよ」


疲れ果てたワタルはファングの言葉を受けてぐったりと座り込む。今まで経験したことのないような過酷なトレーニングに、心も体も振り払われた感覚が漂っていた。


資料館への出勤日2日間を含めてそれから一週間が経過した。過酷な鍛練は未だ続いている。

スノーは宿屋の業務が立て込んでいるため、最近はあまり顔を見せてこないし、ハウンは日中は依頼をこなしている。

ファングと二人きりの空間がいつしか苦痛でしかなかった。


「よし穴を埋め終わったな。今日も同じだ声かけるまで走ってこい」


筋骨隆々で日常生活からも垣間見える瞬発力。到底歯向かっても勝てる相手ではないのは火を見るより明らかであった。


それにしても、今日のランニングの量はおかしい。いつもは終了を呼びかけてくるファングの姿がない。


「おー!ワタル!ただいま!私がいなくて寂しかった?」とびきり明るい声が聞こえたが、振り返る余力すらなかった。


回り込んできたのはスノーだった

「やっと仕事が落ち着いてね!戻って来れたよ。この時間にもランニングとは関心だねぇ」


なんとか力を振り絞り、苦しい表情を浮かべながらもワタルは微笑む。ファングと鍛錬をしている途中なのだと説明した。


「ちょっと走りすぎじゃない?ファングに聞いてみるね」スノーが言葉をかけてくれたことで、ワタルの疲れた心にほんのりしたぬくもりが戻ってきた。


「ファングただいま!…あらら返事がない」

それでも数回呼びかけるとようやく返事が聞こえた。


「んー、おかえり。寝ちまったみたいだ」ファングが目を擦りながら言う。


「ワタルまだ走ってるよ もうそろそろ暗くなるのにスパルタだねぇ」とスノーの言葉にファングの顔が青ざめる。


『声をかけるまで走ってこい』俺は確かにそう言ったばかりに。寝ていたと伝えたらアイツはどう思うだろうか?そんな思いがファングの中を渦巻く中、この場は誤魔化して取り繕おうと考えた。


「よく走ったな!ワタル。今日は長い時間で試したが、ここまで走れるって俺は信じてたぞ」そうファングが声をかけるとワタルはその場にへたり込んだ。


「死ぬかと思った…でも嬉しい」

ワタルの一言に罪悪感はあるが、やり過ごせたという思いも交差している。


そんな時だったり。


「ワタルー!ファングったらすやすや寝てたんだよ!」その場が凍ったようだった。ファングの思惑が音を立てて崩れた瞬間だった。

ワタルの顔を見ると歯を食いしばり怒りを抱えた表情を浮かび上げている。


ワタルは大きく溜息をついて、「今のは本当か?」


スノーは言ってはいけないことを言ったと察し、目をキョロキョロと落ち着かなく動かしていた。


「すまない…」そうファングが言いかけたところでワタルは睨みながら詰め寄った。

そこからは堰を切ったように不満をぶつけた。


「俺に走るように言っておいて、誤魔化して…馬鹿にしてるのか?」


ファングは、動揺し言葉を失ってしまった。


「穴を掘らせて埋めるのも俺に無駄なことをやらせて楽しんでいたんだろ?」と畳み掛けるようにワタルは言った。


「それは…俺はそうやって強くなった…お前だってやれば…」弁明しようとしたが、焼石に水だった。


「大体俺とお前は違う。体がついていかないだとか強い獣人には気持ちがわからないんだろうな」とワタルは吐き捨てる。


その言葉にファングは拳をグッと握りしめる。彼は望んで獣人になったわけではない。ワタルもそれを知っているはずだった。


「ワタル!それ言い過ぎだよ!ファングだって一生懸命にやってくれてるんだよ!ファングもちゃんと理由を説明してごめんなさいしなきゃダメ!」とスノーは必死に割って入ろうとするが両者は耳を貸そうとしない。


「もう辞めて……お願い」とスノーは泣きながら訴えた。

しかし、ファングは力を緩めなかった。その眼光の鋭さは変わらない。彼の腕力は凄まじく、ワタルの肋骨が悲鳴をあげていた。


その時、冷たい氷の礫がファングに襲いかかった。不意の痛みに怯み、ワタルは解放される。


スノーの氷の魔法だ。


「そうだな確かにお前は弱い」


ファングは立ち上がりながら吐き捨てるように言う。

ワタルはよろよろと立ち上がり、服についた土を払い除けた。口の中の血と泥が混ざって気持ち悪い。


「力で解決しようとするのか…俺はもうついていけそうにない。」とワタルが言うと「出ていってもらって構わない。何もパーティメンバーに普通の人間がいなきゃいけないってだけでお前である必要はないんだ」とファングは本当は心にもないことを言った。

「わかった。出ていくよ。」

ワタルは努めて冷静な声で言ったつもりだったが、語尾は震えていた。

「代わりがいるといいけどな。街にでも探しに行ったらいいさ。」とワタルも心にもないことを言った。


「お世話になりました。ありがとう。ハウンにもよろしく言っておいて」ワタルはスノーの方に向き直り、何かを言われる前に街へと走り去った。


彼女は後を追おうとするが、彼は一切振り返ることなく繁華街の中へと消えていきスノーはついに見失ってしまった。

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