三章『境界のない海で』 その五
「…………………………………」
意味を悟って、こっちの耳まで腫れるように熱くなった。
いたたまれない空気とは、まさにこのことなのだろう。私も立ち上がり、次の授業の用意に逃げる。つまりそういうことでつまりそういうことでつまりそういうことでと、頭の中でお寺の鐘みたいに反響し続けている。履いている下着を間近で見てしまったのもあって頭おかしくなりそうだった。いや絶対もうなってる。顔のどこも熱すぎて取り替えたい。
「戸川さんもー、昼休み終わるまでに……」
意識していない不意打ちの感触に、身体が強ばって麻痺する。
戸川さんがお尻を撫でてきた、と遅れて気づく。振り向いて注意するより早く、戸川さんがそのまま抱きついてくる。体格の差もあって、戸川さんの腕の中に簡単に収まってしまう。
「せんせ……」
切ない吐息を擦りつけるような呼び声に、首筋が震える。まずい、と本能が訴える。
駆け足のような情欲がやってくる。
服を脱がそうともがき始めた指に、慌てて手を添えて制する。
「だめ、もう終わり……ね?」
時間はないし学校だしこんなところで、と流されそうなのを必死に抵抗した。戸川さんがじっと固まった後、やわやわ、ゆるゆると、身を離す。お互いに赤面を更に増しながら向き合うと、戸川さんは取り繕うように笑おうとして、途中で諦めて顔を伏せる。
「ごめん」
「謝らなくていいの」
戸川さんが我慢できないくらい私を……なのは、純粋に、かぁーって体温が上がる。
「でもいきなりだとびっくりするから……触るときは……言ってね」
言えば許してしまうのが、今の私と戸川さんの距離だった。
きっと、どこを触るとしても受け入れてしまう。
それを言われた戸川さんの瞳が、色んな感情を渦巻かせて泳ぐ。
「そういうこと言われるとまた……だめだよね、今は」
「うん……」
残念と唇が動きそうで、下唇を噛む。
抵抗の意思の中に、生徒だからとか夫がいるからとかそういうものは一切ないのが、今の私の心境を表していた。戸川さんが後ずさりみたいにゆっくり、こっちを向きながら扉に行く。
「なんかー、あれだね……わたし、せんせぇよりえっちなのかも」
「戸川さん、顔真っ赤……」
そのままここを出て行ったら誤解されそうなくらい。誤解じゃないけど。
「あか、赤いか。赤いんだ、じゃあ顔洗ってくるよ、うん。行ってきます」
普段からすると珍しいくらい動揺したまま、戸川さんが出ていく。洗ったら化粧全部落ちそうだけど、いいのだろうか。止める前にいなくなり、一人になる。
扇風機の回る音だけが、時の歩みを示すようだった。
「あぶなかった……」
深く溜息を吐く。
時間があって、他に誰も来ない場所で、あんなことされていたら。
胸元を正して、昂ったものが鎮まるまで座り込む。目を閉じて、額を押さえ続ける。
こうやって遅かれ早かれ、次が見えてきてしまうから。
本当は、やってはいけないのだ。根本からそんなことばかりの関係だけど。
最近、戸川さんとはこんなことばかりしている。それを、心待ちにしている。
浮気。私のやっていることは、言い訳する余地なく浮気だ。不倫である。そして昼休みにこんなことをしながら、準備をして次の授業に行くのだ。切り替えが上手いというより、別人が頭に同居しているみたいだった。
浮気ってこうやって罪悪感と日常が混ざり合って自然と受け入れてしまうのだなと理解した。駅前の鳩みたいに、鈍感になる。人間は良くも悪くも、慣れていく生き物だった。
戸川さんに触れたい。戸川さんに触れてほしい。戸川さんの吐息に心が震える。
教え子の戸川さんが、戸川さんは教え子で、になる。
なによりも先に、戸川凛という存在が優先される。
順位がいつの間にか変わっていて、それを覆すことができない。
感情を追い越して決定されたそれに戸惑いながらも、従うしかなかった。
淫行教師、と黒板に書きそうになってしまった。
普段通り授業を進める中で唐突に、するりと意識に挟まり込んでくる。衝動というほど忙しなくない、静かな発作だった。テキストを読み終えた後のわずかな隙間に、ゆっくり呼吸してそれが過ぎ去るのを待つ。飲み込んでから、また平気な顔で授業を続けた。
戸川さんとのあれやこれが唐突に露呈して人生が終わることもなく、その日も放課後を迎えることができた。長くなった日はまだ昼間のように教室とグラウンドに注がれている。
その光に目を細めながら、生きている、と息を吸った。
これからこんな毎日が続いて、気が休まるときなんて破滅するその瞬間まで訪れない。もう罰は始まっているのかもしれなかった。もしも両親が知ったなら、さぞ嘆いたことだろう。
私の両親は既に亡くなっている。教師になってから少し経ったあたりでどちらも早逝してしまって、あのときは寂しく思ったものだ。今となっては、私の醜態を知らないで亡くなっただけ、幸せなのかもしれない。子供が犯罪者として報道される様を見ないで済んだのだから。
戸川さんの姿を意識しないよう努めながらホームルームを終えて、教室を出た。白の目立つ夏服の生徒たちが群れを成すように廊下を泳いでいる。幾人かの生徒が声をかけてきて、挨拶を返す。生徒たちの声や廊下の蒸し暑さが顔の表面だけで処理されて、外へ跳ね返っていく。
頭の中がそれどころじゃない状態をずっと維持しているからか、温度に対して鈍感だった。暑さが不快にならないし、涼しさが救いにもならない。こんな風に、緩慢に摩耗していった先に死はあるのかもしれない。
期末試験も近い。戸川さんはちゃんと勉強できているだろうか。生活をかき乱している要因としては、集中できていないようなら責任を感じてしまう。感じているなら死ね、と私の中に過激な正論が渦巻くけれど、実際、そうなのだ。夫に対して本当に申し訳ないと思っているなら、私は戸川さんとの一切を自白したうえで平身低頭謝罪して、死ぬしかない。
そうしない時点で私の罪悪感というものは、やはりその程度でしかなかった。
職員室に戻り、荷物を置いてからすぐにまた出た。職員室で自分の電話を触る勇気はない。人目のない廊下の最奥で壁を背にして、誰の目にも触れない場所に陣取ってから戸川さんに連絡する。
『試験が近いけれど、ちゃんと勉強してる?』
珍しく、教師みたいなことを聞いてみる。その上に並ぶ朝のメッセージを見て、目を覆いそうになった。未成年の女子、そして、浮気相手。何度意識しても眩暈が伴いそうだった。
返事がすぐに来る。
『そこそこ』
『夜も町を出歩かないでね』
前は教師の職務としての注意だった。今は、単純に戸川さんの身を案じている。戸川さんが傷つくのを嫌がっている、怖がっている。他の誰にも、触れられたくないと思っている。
『先生、仕事終わったら家に見にきて。わたし、ちゃんといるから』
「…………はぁ」
『時間があったら』
『待ってる』
知ってか知らずか、戸川さんは私が弱くなる言葉ばかりを使う。
あの子が待っている。
応えたくなって、職員室に早歩きで戻る。
仕事を早く終わらせようと張り切る理由が家庭の外にある時点で、私はもう、どうしようもないやつだった。
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