第8話 残せるもの

 希望を見出し初めた矢先、海はこの国特有の流行病に侵された。この時点で産後二年が経とうとしていた。最初は軽い発熱だった。寒気を感じ、熱を測ると39度。どんどん辛くなっていき、頭痛、吐き気。海は精神科の病棟から内科病棟へ移された。


 そこでは、海と同じ流行病に罹り運ばれてくる人が大勢いた。精神科と同じく内科でも個室の病室に入ったため同じ病気であると確証は持てないが、以前の病院に比べ廊下が慌ただしく、救急車の量も多かった。ニュースでは海が罹っている病気で亡くなった人の人数が毎日発表され、億劫になるのでテレビはあまりつけないようにしていた。


 感染症であるため本来であれば安藤は病室に入ることができないはずなのだが、精神科医の働きかけか、安藤が強く言ってくれたのか、病棟を移された翌日に安藤はやってきた。やってきたと言っても直接会えるわけではなく、まるで刑務所の面会所のようなところへ連れて行かれて、アクリル板越しに話をした。


 発熱のせいか頭痛のせいか、あまり大きな声を出せず、且つまとまりのない海の話は恐らく正確に安藤に届くことはなかったが、安藤は「海が話せる状態で嬉しい、また生きて息子に会おうな」と励ましてくれた。


 海は死の歩みを感じていた。鬱の時も辛くはあったが、本当に少しずつ体が弱っていって、自分で選択権のない死の前に立たされていることを実感していた。

 海は死ぬまでにやりたいことリストを作ることにした。


 一つ目は息子に会うこと。第一子とは違う子どもで、自分が望まずに産んだ子ではあったけれど、あんなに傷付けたのに生まれてきてくれた。前までは殺してやろうと思っていた相手に今は途方もなく会いたかった。


 二つ目は朔と修斗に会うこと。まだ許しきれてはいないけれど、自分が第一子を失い辛かった時一番側で支えてくれたのはこの二人だ。

彼らも辛かったはずなのに、自分だけ寄りかかりすぎていたのかもしれない。自分も二人のことを少しでも支えられていたら…。最近はこうも考えるようになっていた。


 三つ目は今までの人生の中でお世話になったみんなに直接感謝を伝えることだ。


 しかし海は、それらが叶わないことを悟っていた。

 死は体を蝕み、声を出すのも億劫になっていた。


 海はリストを作ったその日から、寝る前の十分間、ボイスメッセージを録り、朔と修斗に送ることにした。今日はこんなことがあったんだよ、という日記のようなものだ。海の居る小さな病室では、ほんの小さな出来事しか起きなかったが、例えば窓枠に埃が溜まってきたので掃除して欲しいと思っているとか、今日は救急車が特に多いだとか、そういうことを自分の声で話すようにした。


 朔と修斗に声を聞かせてあげたいと思ったのもそうだが、一番は成長した息子に母の声を聞かせてあげたいと思ったのがきっかけだ。いつか成長した名も知らぬ息子が、自分だけ母がいないことに気がつくだろう。そんな時に少しでも母の片鱗を残しておけば、存在くらいは感じられるのではないかと思ったのだ。


 ボイスメッセージを送った後、2人から来るメッセージは基本的に無視するようにしている。少しでも反省するが良い。


 まだ腕が動くうちにと手紙も書いた。お世話になった医師、看護師さん、カウンセラーさん、安藤、成長した息子。それぞれに宛てた手紙を書いて、最後に朔と修斗に対しても書くことにした。


 みんなの分を書いているうちに腕を動かすのも辛くなってきていて、手紙を書けるのは人生で最後かもしれないと思った。二人各々に宛てた手紙を書いても良かったのだけれど、きっと文字数の多さだとか、名前の出てきた回数だとかで揉め始めるから、二人共に宛てて書くことにしたのだ。


 以下、その手紙である。

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