第15話 ガキ大将①

 帝都に本格的な夏が訪れた。

 この日、レイキシリス・ブラウエルはクレファー伯爵邸のテラスで、リン・クレファーと談笑していた。


「夏だねえ」

「今年はまた一段と暑くなる見通しらしいですよ」


 テラスの前に広がる庭園に燦燦と陽の光が降り注ぐ光景を眺めながら、二人は他愛もない会話を交わす。クレファー伯爵邸の庭園は先日訪れたジラー伯爵邸の庭園ほど広くないが、よく手入れがされていて洗練された見栄えの良さがあった。


 レイクは皿の上の焼き菓子を一つつまむと、口に入れた。口の中にほのかな甘さとバターの香りが広がった。


「これは手作りだね」

「うちの料理人が今日のために焼いてくれました。菓子作りが得意で、昔は料理店を経営していた人です」


 リンの言葉には料理人への称賛と敬意が多分に含まれていた。

 レイクは辺りを見渡した。門の方に執事のギルトレット・ハートがメイドと話している姿が見える。リンの傍らには二人のメイドが静かに控えていた。


「クレファー伯爵家の使用人は皆優秀だね。この邸を見ればよく判る。細かい所まで手入れが行き届いていて、仕事ぶりが見て取れる」

「お褒め頂き光栄です。うちは父が事業で成功してから一気に大きくなったので、新しく使用人を雇う時に苦労したそうですよ。父との繋がり目当てに息をかかった者を送り込んでくる貴族が何人もいたらしく、当時一切を差配していたギルトレットが一人ずつ選んだとか」

「その目利きは正しかったみたいだね。本当によくできた執事だよ」


 レイクの目から見てギルトレットは優秀かつ忠義に溢れた執事であった。もう六十は超えているのに矍鑠かくしゃくとしており、ガーランド・クレファーの側近として邸の管理を任されている。


「ブラウエル侯爵家の使用人も十分優秀なのでは?」

「まあね。うちは仕事柄犯罪に関わる情報を扱うから、使用人の信用問題にはひどく気を遣っている」

「情報漏洩は場合によっては致命傷になりかねませんからね」


 リンはしみじみと同意した。使用人の不始末はいつの時代も雇い主にとって頭の痛い問題だった。それはジラー伯爵邸の事件でも如実だった。


 そこでリンの頭にふと疑問を浮かんだ。それはレイクの使用人エレニカ・ブレイズのことだった。


「……使用人といえば、レイクさんは探偵として活動するため実家を出られたんですよね? その際にエレニカさんしか連れてこなかったのですか?」


 レイクは頷いた。


「俺の生活を助けるのに何人も連れてくる必要はなかったからね。うちはエレニカ一人で十分回る。俺が一番信頼を置いている使用人が彼女だったから、というのもあるけど」

「へえ、そうなんですか?」


 レイクは懐かしそうな顔で空を見上げた。


「エレニカは俺自身で見つけて自分専属として雇った使用人なんだ。もう七、八年になるか」

「レイクさん御自身で見つけられた? 興味がありますね。一体どんな経緯で?」

「ふふ、それはまだ秘密にしておくよ。機会があれば話すことがあるかもね」


 レイクは悪戯っぽく笑った。




 同時刻、エレニカ・ブレイズはマルタ区の商店街を歩いていた。彼女は職人通りに店を構える馴染みの研ぎ師から、研ぎに出していた愛用の包丁を受け取った帰りだった。

 エレニカは商店街を寄り道することなく進み、やがて住宅街に面した通りへ出た。真夏の太陽が照りつける下を、エレニカは汗一つ垂らすことなく歩く。彼女の着ている服は、ブラウエル侯爵家と懇意の服飾店が魔力を封じ込めた糸を使って仕上げた一品だ。服に魔力を注ぐと水属性の魔術が発動し、服に微かな冷気が宿る仕組みとなっていた。


 エレニカの視界には、道沿いの広場が映っていた。広場に沿った細い通りに九、十歳くらいの二人の子供が見える。少年と少女の組み合わせだ。少年が少女を追い回していて、歓声がエレニカの元まで届いた。


(おやおや、元気の良いことで)


 エレニカは目を細めて、子供たちを見た。

 子供たちは追いかけっこを止めて広場の前に留まりはしゃいでいたが、唐突にエレニカの方へと走り出した。先を走っていた少女がエレニカに真っ直ぐ向かってくる。彼女はそれを避けなかった。


「あいた!」


 少女がぶつかり、小さな身体が僅かに跳ね返る。そして、そのままエレニカの脇へと進路を転換した。


「ごめんなさい!」


 少女は謝罪の言葉を口にして、離れようとした。

 だが、少女が離れるよりも、エレニカがその腕を掴む方が速かった。


「きゃっ!」


 急に腕を掴まれたことで、走っていた少女の体勢が崩れそうになった。


「こらこら、いけませんよ」

「ごめんなさい! わざとぶつかったんじゃないんです!」


 少女はぶつかったことをもう一度謝罪した。幼気な顔が困惑に歪んでいて、今にも泣きそうだった。心優しい大人であればつい赦してしまいそうになる顔だったが。エレニカの心は動かされなかった。


「わざとじゃない? いいえ、わざとでしょう。たった今掏り取った財布を返して・・・・・・いただけませんか・・・・・・・・?」


 少女の顔が今度は驚愕の色に染まった。エレニカは半ば放心した少女の袖に手を突っ込むと、ポケットから消えていた自分の財布を取りだした。


「なかなか良い手際です。これが初めてではありませんね? そちらの少年もグルですか」


 少女を追っていた少年は真っ青になって、どうしていいか分からないという表情をしていた。

 エレニカは硬直する二人の子供を交互に見ると、どうしたものかと思案した。


 その時、遠くから何かが飛来してくる黒く丸い物体が、彼女の目に留まった。

 球状の何かはエレニカの近くの地面に転がると、突如白い煙を噴き出した。煙はあっという間に周囲へ広がり、エレニカの周りは白一色となった。


(煙幕?)


 エレニカが警戒を強めた直後、彼女の背中に強烈な風が吹きかかった。倒れこそしなかったが、少女を掴んでいた手を離してしまった。そこへどこからか男の声が聞こえた。


「来い! こっちだ!」

「ニック!」


 拘束から逃れた少女が誰かの名を叫んだ。


「早くしろ! 騒ぎになるぞ!」


 白煙の向こう側にいる何者かの元へ駆け寄るように、少女が走り去る音が遠ざかっていった。もう一人の少年の気配も消え、その場にはエレニカだけが残された。


 やがて、白煙は散っていき、視界は良好に戻った。


 近くの商店から店主と思わしき男が、慌てた様子で出てきた。


「何ですかこれは! 火事ですか?」


 店主は血相を変えてエレニカに訊ねた。彼の手には消火用の魔導器具が握られていて、いつでも使える状態になっている。


 エレニカは首を振った。


「いいえ、ただの煙幕です。掏摸の子供が投げたんですよ」


 そう言うと店主は憤慨した様子を見せた。


「ああ、スラムの子供ですな! いやまったく、この辺りでよくゴミを漁ったり、盗みを働くグループがいるんですよ。この辺で掏摸の被害に遭ったという人が何人もいますから、きっとそれも奴等の仕業ですよ。現行犯を押さえたことはありませんけどね。あの子供たちはライボルト区の端にあるスラムからやって来ているんです。どうも魔術をかじった奴が混じっているみたいで、恥ずかしいことにこの辺りの住民の手に負えないんです」

「成程、スラムの……」


 スラムという単語にエレニカが一瞬反応したが、店主に気づいた様子はなかった。


「本当に面倒をかけてくれる! 警察にはちゃんと取り締まってもらわなきゃならん!」


 不平を口にする店主の言葉を聞き流しながら、エレニカは子供たちの声と足音が消えていった方角へ目を向けた。


(ふむ、スラムの掏摸グループ……)


 エレニカは一人考えこみながら、ずっと立っていた。




 入り組んだ路地の奥で、三人の子供がぜいぜいと荒く呼吸して、地面にへたり込んでいた。その内二人はエレニカが遭遇した少年と少女だった。三人目は中等学校に通うような年頃の、金髪の少年だ。


「ああ、危なかった。もうだめかと思った」


 少女を追い回していた少年が、やっと安心したように言った。


「ケイ、大丈夫か?」

「平気だよニック。手を掴まれただけ」


 エレニカの財布を掏った少女ケイは、掴まれた右腕を摩っている。その様子をニックと呼ばれた金髪の少年ニコラスは心配そうに見つめた。


「それにしてもショウ小父さんが作ってくれた煙幕凄いね。あんなに煙が出るなんて!」

「持ってて良かっただろ? 小父さんの作った物も結構役に立つんだな」


 ニックは勢いよく白煙を噴き出す手投げ煙幕弾の光景を思い返した。手作りの魔導器具にしては良い性能だったなと感心した。


「でも、安心はできないな。二人とも顔を見られたんだ。今頃あのメイドが警察に話してるんじゃないか?」

「もうあの辺には行かない方がいいかもね」

「やっぱり金持ってそうだからって狙うのは止めた方が良かったか?」


 ケイの相方だった少年が反省して項垂れた。エレニカを標的に選んだのは彼だった。


「でも、最近あんまり稼げてないし、誰かお金持ち狙いたいよね」


 ケイが未練を露わにして、天を仰いだ。雲一つない空が広がっていた。しかし、日差しは建物に遮られ、路地は薄暗くじめじめした空気に包まれていた。


 ニックは気持ちを切り替えるため、ぱんと手を叩いた。


「仕方ない、少し遠出するか。俺がバルドア区の方まで行ってみる。身体強化が使えるからひとっ飛びだ」


 彼の強がりを察したケイが頭を下げた。


「ごめんねニック、私のせいで……」


 ニックは努めて笑顔を作った。


「気にすんな。全部俺に任せとけ。俺がお前たちを引っ張ってやるからよ」




 夕方、レイクが帰宅した時、エレニカは台所で夕食の準備をしている最中だった。


「ただいまー」

「おかえりなさいませ」


 台所に顔を出したレイクに、エレニカは笑顔を向けて答えた。まな板の上には上質の肉が鎮座し、彼女の手には研ぎ師から受け取ったばかりの包丁が握られていた。レイクはこの後供されるであろう肉料理に期待を込めた。


 レイクの期待に応え、料理は美味であった。腹に溜まる充実感に満足したレイクは、居間のソファへ移動すると、全身の力を抜いた。

 九時を回った頃、レイクは部屋から読みかけの本を持ってきて、エレニカが淹れたコーヒーを片手に読み耽っていた。エレニカは再び台所へ行き、明日の朝の食事の仕込みをしていた。


 レイクはカップの中を空にすると、時計を見やった。時計の針は九時半を指していた。いい頃合だと思った彼は、カップを回収に来たエレニカに話しかけた。


「さて、エレニカ。今日何かあったのかな?」


 確信に満ちた言葉だった。エレニカは仕事する手を止めることなく、主人にどう答えたものか考えたが、素直に返すことにした。


「お分かりになりますか?」

「そりゃあ長年一緒にいればね。何か心配事がありそうな顔してるよ」


 エレニカは苦笑した。本当にこの主は人の内面を読み取ることに長けていると思った。同時に、彼女を気遣う感情が言葉に表れていることに深い喜びを覚えた。


「実は……」


 エレニカは昼間起きた事件について説明した。話し終えるまでレイクは黙って耳を傾けていた。


「子供の掏摸グループか。エレニカを標的にしたのは運が悪かったね」


 レイクはくつくつと笑った。彼はもし自分が同じ立場なら、彼女相手に掏摸を行うなど絶対にあり得ない選択肢だと思った。エレニカ・ブレイズという人間を知らなかったが故の愚行に、レイクは心の底から憐れんだ。


「ライボルト区のスラムか。あそこも前と比べると大分治安は良くなったんだけどね。アーロイが仕切ってた頃は酷かったからね。喧嘩や殺人が日常茶飯事だった」


 レイクは治安が著しく悪かった頃のスラムの様相を、脳裏に思い返した。実際に踏み入ったのは数回だけだが、当時は死体がゴミのように転がっているのが当たり前の場所だった。金品を奪おうとレイクに襲いかかってきた者は何人もいて、その都度返り討ちにした。その原因の一端であったのが、スラムの支配者を名乗っていたならず者アーロイの存在だった。

 アーロイは北部出身の元鉱山労働者で、年は三十半ばだった。彼はスラムのならず者を集めて組織を立ち上げると、スラムの全域に支配を広げた。

 殺人、強盗、脅迫。アーロイは組織を維持し、支配を絶対のものとするために、あらゆる犯罪に手を染めた。組織の噂を聞きつけた邪な商人や貴族が、暴力を借り受けるため陰で組織に支援することもあった。そうしてアーロイの魔の手は、徐々にスラムの外へも広がっていった。当時の組織は、帝都の闇の一角を担うほどに拡大していたのだ。

 しかし、アーロイの王国はある日終焉を迎えることになった。被害者の一人がアーロイから逃れるために外部に助けを求めた。そして、レイクが関わることになったのが、ならず者たちにとって運の尽きだった。


「レイク様がアーロイの組織を壊滅させたことで、それなりに平和に暮らせる程度に改善しましたからね」

「肝心のアーロイは逃亡しちゃったけどね。あいつを取り逃がしたのは失態だったな」


 レイクは口を尖らせた。

 アーロイの組織はレイクと帝都警察によって壊滅させられ、スラムは秩序を取り戻した。弱者たちは貧しくも穏やかな暮らしを送れるようになり、怒号が響くことは少なくなった。

 無論そこに至るまでの道程も楽ではなかった。アーロイがいなくなった後、空いた椅子を巡って新たな争いが勃発し、死者も少なからず生じた。それでもレイクたちは時間をかけて対処し、最終的に沈静化させるに至った。

 だが、組織の首魁であったアーロイは、レイクたちがスラムに突入した際に起きた騒ぎに紛れて逃げ延び、未だに捕まっていない。彼はその失態を未だに気にしている。


 エレニカはそんな主の様子を見て、力強く言った。


「レイク様が気に病む必要などありません。帝都警察も手をこまねいていたアーロイを退けた功績、称賛されこそすれ非難される筋合いはないでしょう。誰が何と言おうとあの時のレイク様の行いに間違いなどありませんでした」


 異論は許さないと言うように断言するエレニカに、レイクは目を丸くした。彼女の瞳が微かに揺れたことに気づいたレイクは、素直にその言葉を受け入れることにした。そして、気を遣わせてしまったことを反省し、それ以上過去の失敗について考えないようにした。


「話を戻すけど、エレニカは掏摸の子供たちが気になるの?」

「……そうですね、気にならないと言えば嘘になります」


 エレニカは床に目を落とした。

 レイクは優しく微笑んだ。


「それなら好きにするといいよ。責任は俺が持つ。“やるからには妥協しない”――君のやりたいようにやるといい」

「ありがとうございます」


 エレニカは短くも、心から感謝の言葉を述べた。




 夜の闇に覆われたライボルト区東端のスラムに建つ古い建物の一階に、灯りが点いていた。そこはスラムの住民から《ライリー医院》という通り名で呼ばれている場所だった。正式な名称は存在しない。それというのも営業届を出していない闇病院だからだ。

 建物の中には大人と子供、二人の男がいた。一人は昼間エレニカから仲間を救い出したニック少年。もう一人はこの医院の経営者ショウ・ライリーだ。


「まったく無茶しやがって」

「いいじゃん、無事に帰ってこれたんだからさ」

「俺の煙幕のお陰だろ。感謝しろよ」

「はいはい」


 ショウは手製の煙幕弾を持たせたのは正解だったと思った。魔導器具の製作は専門外であったが、予想していたより上手にできたと内心自賛する。


「だが、金持ちの使用人を狙ったのはまずかったな。雇い主が貴族だったら、犯人捜しに乗り出す可能性が高いぞ」


 そう言うとニックの表情が渋くなった。それは彼も逃げ帰ってからずっと考えていたことだった。

 貴族の使用人が受けた被害は、貴族自身の被害と見做される。使用人への攻撃は、雇用者たる貴族への攻撃も同然と考えるのが常だからだ。また、貴族の在り方として、使用人に対して責任を負えない貴族は下に見られる風潮も強い。使用人を守れない貴族は、信用に疑義が生じるからだ。そのため、犯人捜しに躍起になることも十分に考えられた。


 ショウはニックと視線を合わせた。


「なあニック、前に言ったこと真剣に考える気はないか? お前は才能があるんだ。こんな掃き溜めで暮らさなくとも良い暮らしができるんだぞ。魔術の素養を真っ当な道で活かせ」


 ニックは魔術の素養を持っていた。正確に診断したことはないが、風属性の適性を持っていることは間違いないと思われた。

 魔術師はどの業界でも引く手数多だ。才能をスラムで腐らせるには勿体ないと、ショウは常々思っていた。


 しかし、ニックは拒絶した。


「いいんだよ、そんなの。俺は頭が良くないし、魔術師になってもふんぞり返ってる偉い奴に扱き使われるだけだよ。あんただってそんな生活送った挙句に、失敗の責任被せられてクビになったんだろ。それで今じゃここで闇医者やってるんだ。そんな生き方するくらいなら、最初からここで一旗揚げてやる」


 痛いところを突かれたショウは、顔を顰めた。


「また馬鹿なこと言いやがって。こんな所で大成なんてできるわけないだろう。お山の大将で終わる気か?」

「俺はそんなちっぽけな夢で満足しねえよ。昔ここを仕切っていたアーロイって奴みたいに大きな組織を立ち上げるんだ」


 アーロイの名前が出てきて、ショウの表情はますます歪んだ。彼は少年の夢を鼻で笑った。


「はっ! アーロイの真似事なんて笑い話もいいとこだ! あいつが最後にどうなったかちゃんと聞いたのか? どっかの大貴族に手を出したせいで組織の連中は根こそぎしょっ引かれたんだ。アーロイは仲間を見捨てて逃げ出したよ。お前はそんな奴になりたいのか?」

「俺はそんなヘマはしねえ。もっとうまくやるよ」

「今日ヘマをして逃げ帰ったばかりなのをもう忘れたか?」


 今度はニックが痛いところを突かれた。彼は恥ずかしさから顔を背けた。


「それはそうだけど……」

「大体お前と同じことを考えた奴が今までいなかったと思うか? アーロイがいなくなってから誰がトップになるか揉めに揉めたぞ。それまで抑え込まれていた連中が次々に名乗りを上げて、いくつものグループができたんだ。そのせいでしばらく争いが止まなくてなあ。連日のように殺しが起きたもんだ。唯一救いだったのは“火焔蝶”が参戦しなかったことだな。あいつはアーロイと真っ向から対立していたヤバい奴だったから、あいつが支配者の椅子を狙うつもりだったらもっと多くの死人が出ていたのは確かだ。聞いた話じゃ“火焔蝶”もアーロイが潰された時のごたごたでここを離れたそうだ。俺は正直アーロイより“火焔蝶”の方が怖かったから、ほっとしたよ」


 ショウは“火焔蝶”の鋭い眼差しを思い出して身震いした。

 名前が表す通り火の魔術の使い手だった“火焔蝶”は、アーロイと双璧を成す大物だった。アーロイほど大規模ではないが若者中心の集団を率いており、スラムの南側に拠点を構えていた。

 “火焔蝶”はスラムでは一定の支持を得ていた。一度暴れ出したら手をつけられなかったが、アーロイのように他者を食い物にするような悪辣な人間ではなく、身内と認めた者を守るために血を流すことを厭わない人間だったからだ。アーロイに従うくらいなら“火焔蝶”に与するという住民は多かった。


 そんな“火焔蝶”もアーロイの失脚と同時期に姿を消した。その手下たちも同様だった。一部の住民が、アーロイの組織に帝都警察が踏み込んだ騒ぎの際に、“火焔蝶”一味が捕縛されるのを目撃したと語った。ショウは帝都警察がアーロイを潰す作戦に併せて、“火焔蝶”も一緒に潰そうと目論んだのだと推測した。危険な野良魔術師など放置する理由などないからだ。


「情けねえおっさん。あんたそれでも一流の魔術師だったのかよ」

「悪かったな。どうせ俺は臆病者だよ」


 ショウは吐き捨てるように言った。


「結局争ってた連中も捕まるか死ぬかで、最後は誰もいなくなったよ。それからはこの辺りも随分住みやすくなったもんさ。貧しくても互助的に生活すれば、大抵のことはどうにかなるもんだ」

「……俺はそれで満足したくねえんだ。上に立って、ケイたちに好きなだけ食わせてやれるようになりたいんだよ」


 ニックは顔を背けたまま、振り絞るような声で言った。彼の言葉には、まるで自分自身に言い聞かせるような響きがあった。

 ショウは溜息を吐いた。


「そのために真っ当な道を目指せって言ってんだ。お前は魔術師を目指せる才能がある。お前を拾ってくれる奴は必ずいるはずだ」

「俺一人だけな。他の子供は見捨てるだろ」


 ニックは椅子から立ち上がると、医院の玄関へ歩き出した。


「あいつらを置き去りにするくらいならここに残るよ。俺は俺が満足できるやり方を選ぶ。俺がそうしたいんだ」


 少年は背中越しにそう言い残して、建物の外へ出ていった。残された闇医者は静かに玄関を見つめていたが、やがて首を振ると奥の部屋へと戻っていった。

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