第10話 色街の純情③

 《モーディス商会》の会長室で、四人の男が話していた。

 経営者のベイリー・モーディス、秘書のリーヴス、用心棒のダミアンとロシュだ。


 夜も更けすっかり寛いだ様子のモーディスは、たった今リーヴスからもたらされた報告に喜色満面だった。


「そうか! ついにミレイが養子縁組の話に前向きになったか!」

「ディノの報告では“考えてみる”とだけ言っていたそうですよ」

「十分だ。やっと良い報せが届いた」


 モーディスは歓喜とともに酒を呷った。


「でも、説得できるなら最初から襲撃なんて面倒なことしなくてもよかったんじゃないッスか?」


 ロシュが塩漬け肉をつまみながら訊ねた。


「あれはあれでいいんだ。ミレイに抱かれた男などそれだけで万死に値する。命があるだけ感謝すべきだ」

「そんなにあの娘がいいんですか? 俺だったらもっと愛嬌ある女の方が好みですがね」

「母親によく似ているんだ。あいつもミレイと同じように陰のある女で、誰の物にもならないとでも言いたげだった。学生時代に想いを伝えられなかったのは失敗だったよ。結局他の男にとられてしまってそれっきりだ」

「それで娘を母親代わりに自分の物にしようってわけッスか」


 モーディスは学生時代からミレイの母親に懸想していた。彼女もまた物静かで、人と打ち解けることが苦手だった。モーディスは誰にでも気軽に接する人間であり、彼女とはそれなりに親しかった。

 他に彼女に近づく男がいないことにモーディスは安心しきっていた。他者に心を開かない女が自分だけに笑顔を見せてくれるのは、モーディスの自尊心と独占欲を大いに刺激した。彼は焦らずともよいと判断し、想いを伝える前に距離を縮めることを優先した。それが誤りだった。

 高等学校を卒業する数ヶ月前、ミレイの母親は同級生のリンデンと恋仲になった。


 モーディスにとって呆気なく惨めな敗北だった。モーディスは湧き上がる怒りと後悔を抑え、無事に卒業を迎えた。それから愛した女は愛する男と共に帝都を出て、西部へと向かった。モーディスは以降彼女のことを考えないように記憶に蓋をした。


 だが、四十年近く経過した今になって予想外の出来事が起きた。風の噂でリンデン夫妻が子供を伴って帝都へ戻ってきたという話を耳にしても、モーディスは顔を見ようという気にはなれなかった。しかし、夫妻が不幸な事故でこの世を去ったと聞いて、墓参りの一つでもするのが礼儀だと考え、墓地へと赴いた。


 そこで彼は墓石の前に佇むミレイを初めて目にした。


 モーディスはミレイに母親の姿を映した。顔立ちではなく漂わせる雰囲気が酷似していた。世界に失望しているような虚しさを表情に湛え、目に見えない壁が常に眼前に立ちはだかっていた。


(なんだ、彼女はまだ生きているじゃないか。娘の中に――)


 ミレイの現状を調べるのに時間はかからなかった。モーディスはミレイの歓心を買うために、彼女に明るい未来を与えようとした。彼女の弟妹たちの信用を築き外堀を埋め、頃合を見計らって養子縁組の話を持ち出した。

 だが、ミレイは提案を拒絶した。既に人生に疲れ切っていた彼女は弟妹達をモーディスに預け、自分は今までと同じ生活を送るとまで言った。モーディスには何故そこまで頑ななのか理解できなかった。それが原因となり事態は進展しなかった。


 モーディスは別の形でミレイを落とすことにした。最初に《炎麗館》に勤めるマールを買収し、ミレイを気に入っている客の情報を手に入れ、ロシュを始めとする用心棒たちに襲撃させた。また、その過程でミレイに近づいた男が狙われるという内容の噂を色街に広め、好奇心の赴くままに憶測が吹き荒れるように仕向けた。


 予想通りミレイは自分が事件の中心にいることを気に病み、精神が疲弊していった。モーディスは彼女を気遣うふりをして心の隙間に付け入ろうと画策した。さらに、護衛と称して用心棒をつけ、彼女の身の回りを監視した。監視はミレイの動向を把握し、不測の事態に備えるのが目的だった。


 ミレイは自分が不利益を被れば片付くならそれでいいと考える人間だった。今の状況が続けば、遠くない未来に《炎麗館》を辞めると言い出すだろう。事件が原因で店に悪評が立つのは避けたいと考えるのは自明だった。


 そして、その時が来れば、モーディスはミレイに甘い言葉を囁くつもりだ。


「しかし会長、事件を探ってるブラウエル家の三男はどうしますか? 始末しようにもブラウエル侯爵家を敵に回すわけにはいきませんし……」


 リーヴスが懸念を示した。ダミアンも同意した。


「ディノの話によれば奴が来るのは昼間だけみたいだな。今のところはミレイに話を訊いたり、ミレイに接触する人物を確かめたりしているだけで問題はなさそうだが」


 その件はモーディスにとっても無視できない問題だった。レイキシリス・ブラウエルがどこまで探っているのか分からない。ミレイと同じように監視をつけることも考慮したが、相手がこちらを狙っている以上、藪を突きたくなかった。


「要はこれ以上首を突っ込まないようにすればいいんだろう? こちらの目的はミレイが《炎麗館》を辞めるように仕向けることだ。そのために客を襲って、市井に悪評を流した。なら最後の一押しがあればいける」

「具体的に何をすりゃいいんスかい?」


 ロシュはまた自分の出番が来たと確信し、残酷な笑みを浮かべた。


「《炎麗館》のオーナーを襲え。それでミレイはもう迷惑をかけられないと辞める決意を固めるはずだ。それからオーナーを脅して調査依頼を取り下げさせろ。歯向かう気が起きないように徹底的にな」

「老人を甚振るのは趣味じゃねえけど……やってみますか」

「リーヴス、《炎麗館》にいるマールとかいう女にオーナーの動向を見張らせろ。適当な機会を見繕って実行に移す」

「了解しました」




 翌日、《炎麗館》から離れた路地裏でリーヴスはマールに“最後の一押し”について説明した。


「どうだ? やれるか?」


 マールは思案するように首を傾げた。


「やれないことはないけど勿論はした金じゃ引き受けられないわよ? 職場のボスを襲うなんて、下手したら店が潰れて無職になりかねないんだから」

「分かってる。会長は二十万エル出すと言っている」


 二十万エルという金額は、服飾店を開きたい彼女にとって開業資金の足しにするには十分だった。余裕を持つためにも三十万エルを要求したかったが、彼女は妥協することにした。


「二十万ね……この際贅沢は言わないわ」

「ああ、ほどほどにした方が身のためだ」


 二人は報酬の支払い時期を含めて計画の詳細を話し合い、数分後に別れた。


 路地裏には二人の他に人影はなかった。


 しかし、二人が去ってたっぷり十秒は経った後で、地面を覆う建物の影の一部が不気味に蠢いた。やがて影は不自然に盛り上がり、人間の形を作っていく。影の中に潜んでいた人物は水から這い上がるように路地裏へ立つと、二人が去った方角を見つめた。


(レイクさんの読み通りでしたね)


 ホタル・ミスミの全身が、暗い紫に色の魔力に包まれていた。




「やっぱりマールが犯人と繋がっていたか」


 マルタ区の《甘美荘》近辺の路上でレイクとホタルは落ち合った。

 レイクは己の推測が正しかったことを伝えられ、瞳に怒りを燃やした。


「ディノから護衛を任された話を聴いた時に妙だと思ったんだ。ミレイに褒められた話をモーディスが知ってるはずないからな。あの場にいたのはディノとミレイの他には、俺とマールだけだ」


 《炎麗館》の中で交わされた会話はあの場にいた人間しか知り得ない。レイクが詳しい話を訊ねたところ、ディノはミレイを送った後、酔っ払いの事件について簡単に報告しただけだと答えた。

 レイクは店の中での会話が漏れていることからマールに疑いをかけ、ホタルに尾行を依頼した。


「案の定首謀者はモーディスか。狙いは大方ミレイを手に入れるためといったところか」

「これで裏は取れましたけどこの後はどうします?」


 レイクはディノに見せたのと同じ狩人の顔を見せた。


「決まってる。次の狙いが分かっているなら待ち構えるまでだ」




 三日後の夕刻、リンデン家に姉と弟たちが全員集まって夕食の支度をしていた。


「ミレイ姉ちゃん、機嫌良いな」

「良いことでもあったの?」


 リックとクーロが久しぶりに見た姉の血色の良い顔を見て、疑問を抱いた。


「そうね。胸のつかえが下りたのかな?」

「ひょっとして例の犯人捕まりそうなの?」


 アネッサが期待に満ちた眼差しを向けた。


「ううん、そういうのじゃないけど……実はね、養子縁組の話受けようと思ってるの」

「え! 本当に?」

「やったあ!」


 しばらくの間拗れたままと思っていた話が思わぬ展開を見せ、三人の弟妹は揃って声を上げた。


「じゃあ《炎麗館》は辞めるの?」

「うん、実はこの炎麗館に行ってオーナーに話をするつもりなの」

「今から?」

「実は明日からオーナーが休暇をとって帝都を離れる予定なの。だから今夜ちゃんと逢って話をしようと思って。夕食は先に食べてて」

「そっか、じゃあ仕方ないね。でも、暗い中出て平気なの?」

「大丈夫よ、ディノさんが一緒にいてくれるから。じゃあ、リックとクーロをよろしくね」


 ミレイが部屋を出ると、ディノが部屋の前で待機していた。


「お待たせしました。行きましょう」

「はい」


 ディノは温かな声で言った。




「マール、あたしこれから飯に行くから。誰か来たら代わりに応対しておくれ」


 《炎麗館》ではリザ・チャンドラーが予め決めていた外食へで出かけるところだった。

 店の裏口から出たリザを見送ったマールは廊下を引き返し、事務室へと戻った。


(予定通り外出したわ。うまくいきそうね)


 計画が上手く運んでいることに満足したマールは事務室の扉を開こうとした。

 そこで異変に気付いた。扉の隙間から漏れているはずの光がなかったのだ。


(あれ? 部屋を出る時に電気消したかしら?)


 奇妙に思いつつマールは扉を開いた。


 暗闇が視界に入った瞬間、マールはぎょっとした。


 見知らぬ若い女が暗闇の中に立ち、妖しく微笑んでいる姿が廊下の光で照らされていた。


「だ、誰!」

「はーい、それじゃ貴女は私と一緒に来ましょうね」


 ホタルはマールに抱き着くと、そのまま影の中へと溶け込んだ。気が動転したマールは抵抗することすら忘れ、為されるがままだった。




 《炎麗館》の裏口が見える路地の一角で、ロシュと二人の手下が張り込んでいた。

 裏口を見張っていた手下の一人が、ロシュに話しかけた。


「ロシュさん、来ましたよ」


 ロシュが僅かに建物の陰から顔を出すと、リザが建物から出てくるところだった。


「じゃ、前と同じようにやるぞ。痛めつけて脅すだけの簡単な仕事だ」

「これで金をたんまり貰えるんだから割の良い仕事だよな」

「金払いの良さならフォルナットの旦那よりずっと上だ。《アナグマ警備》にいた頃より稼げるのはありがたいな」


 三人は軽口を叩きながら、リザの元へ近寄った。


「婆さん、ちょっといいか?」

「なんだい。こんな年食った女に何か用かい?」

「ああ、ちょっとお話がしたくてな。ついてきてもらうぜ」


 リザは不快な顔で三人を睨んだが、彼らは意に介さなかった。見るからに非力な年寄りだ。何も恐れるこどなどなかった。

 

「……はあ、この手の馬鹿は今まで散々見てきたけど、見る度に頭の悪さに溜息が出る。あの道楽者の爪の垢を煎じて呑ませたいよ」


 数々の男を見てきた《炎麗館》の女主人は、見下げ果てた男たちに失笑した。


「何言ってやがる。さっさと来い!」


 手下がリザの腕を掴むと、強引に引っ張ろうとした。

 だが、その腕をさらに掴む人物がいた。


「――そこまでだ」


 リザを掴んでいた手下は、いつの間にか隣に若い男が立っていたことに気づいて驚愕した。レイキシリス・ブラウエルだ。


「な、なんだてめぇ!」

「どうも、煎じて吞ませたい爪の垢の持ち主だよ」


 そう言ってレイクは右手を手下の顔の前に翳し、魔術を発動した。

 掌から噴き出した水流が手下を弾き飛ばし、後方の建物の壁に衝突させる。崩れ落ちた手下はそのまま動かなくなった。


「こいつ、俺たちを嗅ぎ回ってたブラウエル家の奴だ!」

「そうだよ。ブラウエル家の道楽者が悪者を退治しにやって来たのさ」


 レイクの言葉と同時に複数の男がぞろぞろと現れ、レイクの後ろに並んだ。ルカ・ガードナーを始めとする水蓮流の剣士たちだ。


「大人しくしろ。お前たちの計画はとっくに漏れてたんだ。マールも既に捕縛されている」


 ロシュたちはここにきて罠に嵌められたことを理解した。


「ろ、ロシュさん、どうするんですか!」

「畜生! 逃げるぞ!」


 悲鳴を上げるもう一人の手下を構うことなく、ロシュは一目散に逃げだした。背後から剣士たちの叫ぶ声が聞こえたが、振り返らなかった。残る手下が命乞いする声も無視した。

 ロシュは身体強化の魔術を発動すると、地面を蹴って大きく跳躍した。建物の壁を蹴り、さらに上へ上へと登っていく。屋上に下り立った彼は、色街の南側を目指して駆けた。


(どうする? マールって女が全部吐いたらもう終わりだ。まずは会長に報せないと……)


 南端の建物の屋上から一気に地上まで飛び下りたロシュは、南の橋まで真っ直ぐ向かった。

 ロシュが橋の袂まで辿り着いた時、ちょうど一組の男女が橋を渡り終えようとしていた。薄暗い夜の闇の中で顔は見えなかった。


「邪魔だ!」

「きゃっ!」


 ロシュは身体強化した肉体で女の方を突き飛ばす。女は無様に地面に転がった。


 そのまま橋を渡ろうと一歩踏み出そうとして――ロシュの視界が回転した。


(は?)


 ロシュは何が起きたのか理解できなかった。ただ、景色がぐるりと回るのを知覚し、突如背中に鈍い痛みが走った。投げ飛ばされたのだ。


 そして、一人の男が追撃を加えるように倒れたロシュの顔面に拳を見舞った。


 ロシュの頭の中に火花が散った。


「ミレイさん、大丈夫ですか!」

「は、はい。ちょっと擦りむいただけです」


 ディノは突き飛ばされたミレイへと駆け寄った。ミレイは混乱していたが大きな怪我もなく、ディノの問いかけにもしっかり答えた。

 彼女に大事がないと確認し、ディノはたった今気絶させた男の元へ再び近寄った。ミレイが突き飛ばされた瞬間、反射的に掴んで投げ飛ばしてしまった。それから怒りに任せて殴ってしまったが、冷静さを取り戻すと息があるか確認しようとした。


 そこでようやく男が自分の知っている男であると気づいた。


「あれ、この人……ロシュさん? どうしてここに?」


 気絶したロシュを見下ろし、ディノは困惑した。

 そこへちょうどレイクが数人の剣士を伴って駆けつけた。


「あらら、追いついてみれば妙なことになってるね」

「レイク? 一体何がどうなってるんだ?」


 ディノは突然降りかかった状況への説明を求めた。


「……まあ、どうせ後で知ることになるんだ。今話してもいいだろう」




 《モーディス商会》の会長室で、リーヴスが時計を見ながら眉を顰めた。


「変ですね。そろそろロシュから連絡があってもいい頃なんですが……」


 本来であれば既に仕事を終えたと電話があるはずだった。しかし、いつまで経っても電話はなく、帰還もしない。流石におかしいと考え出したリーヴスは、部屋にいるモーディスとダミアンに呼びかけたが、二人とも答えを思いつかなかった。


 そんな思考を扉をノックする音が打ち破った。


「ん? ロシュ、帰ってきたのか?」


 リーヴスは扉の方へ声をかけるが、返事はない。不思議に思って扉へ近づいた。

 扉がゆっくりと音を立てて開く。

 そこに立っていたのはロシュではなくディノだった。


「ディノ、お前今日はもう帰ったんじゃなかったのか?」


 ディノは無言のまま右手に持っていた物を無造作に室内へと放り投げた。リーヴスが慌てて後ろへ下がり、床に転がったそれを見て目を見開いた。


 ロシュだった。顔面から血を流して荒く息をしていた。


「ロ、ロシュ!」

「ディノ、お前一体何を!」


 モーディスが血相を変えて立ち上がろうとしたが、ダミアンがそれを制した。用心棒である彼は即座に事態の異常さを見抜いていた。


 ディノは部屋へ入ってくると、モーディスを真っ直ぐ見据えた。


「モーディスさん、ロシュは全部吐きましたよ。貴方が裏で糸を引いていたってことも、全部ミレイさんを手に入れるためだってことも」


 モーディスは怒りに顔を紅潮させて何か言おうとしたが、ぐっと堪えた。

 ダミアンがその前に立ち、剣を抜いた。


「会長、下がってくれ」


 殺気の迸る目でディノを捉え、ダミアンは剣を振りかざして突進する。今ここで仕留めなければ不味いと長年培った直感が警鐘を鳴らしていた。

 ディノは泰然としてダミアンを直視していた。身構えてすらいない。


 刃がディノの頭を割ろうと振り下ろされ――金属が砕ける音がした。


 剣が根元に近い所からぽっきりと折れ、折れた先の部分がロシュの近くに落ちた。

 身体強化されたディノの拳が折れた箇所に添えられている。拳で叩き割られたのだとダミアンが理解する間もなく、続いて振りぬかれた左の拳がダミアンの腹部へ沈んだ。


「な……」


 ダミアンは呻き声を上げて倒れた。


「ひい!」


 リーヴスがディノの脇をすり抜けるようにして部屋の外へと逃げだした。

 だが、部屋の外で待ち構えていたレイクや彼の後ろにいる制服警官たちの姿を見て、へなへなと膝をついた。


 ディノは逃げ場を失った雇い主へ向けて、最後の言葉を突きつけた。


「モーディスさん、短い間ですがお世話になりました。ミレイさんからは養子縁組の話はなかったことにしてほしいと言伝を預かっています」


 愛した女の娘から送られた言葉を聴いて、モーディスは自身の終わりを知った。


 ディノは力なく項垂れた男を前に、小さく息を吐いた。




 《モーディス商会》での幕引きから幾日か経ったある日、レイクとディノはカリム区の住宅街を並んで歩いていた。


「本当に俺にできるか? 人に教えた経験なんて全然ないんだが……」

「大丈夫だって。困ったときはルカを頼ればいいから」


 ベイリー・モーディスの逮捕により《モーディス商会》は経営を畳むことになった。秘書のリーヴス、用心棒もダミアンとロシュをはじめ四人がいなくなり、残された従業員の多くは商会を捨てる決断をした末だった。

 マールも同様に逮捕され、《炎麗館》から損害賠償を請求される見通しだ。服飾店の開業資金は罪の清算に充てられることになった。


 ディノは商会を辞めた後も、アリウス・ランバーから貰った餞別があるのですぐに生活に困ることはなかった。だが、自堕落に過ごす気はなく、本来目指している魔獣討伐へ向けて情報収集のための人脈づくりに励むつもりでいた。

 そこでレイクはルカが講師を務める幼年向けの武芸教室に、新しい講師として参加することを提案した。水蓮流の剣士との親交を得られるためディノは提案を受け入れたが、初めて人に技術を教えることには不安があった。


「気にしなくても大丈夫さ。それよりミレイの方はどうなの? 行けそう?」

「……多分大丈夫だと思う。ミレイさんと一緒にいてももう平気だ。他の女性はまだ駄目だが」


 ディノがミレイへの恋心について相談したところ、レイクは興味津々といった様子で耳を傾けた。女性が苦手な男の胸に芽生えた恋に纏わる話題は、道楽者を活き活きとさせた。

 この調子で進めば、ディノがミレイへ告白できる日も近いとレイクは予測していた。


「モーディスの件で思ったほどショックじゃないみたいでよかったよ」

「でも、養子縁組の話が駄目になったのは不味かったな。今の生活から抜け出せるはずだったのに」


 やがて、二人はミレイの住む集合住宅の前まで辿り着いた。

 広場にはリックとクーロが遊ぶ姿を見守っているミレイの姿があった。


 事件が片付いてからディノがミレイに会いに行くのは、今日が初めてだ。ディノは事後報告にかこつけてミレイと会話をするために訪れた。


「何はともあれ、まずはより親密になることだ。君への印象は元々悪くない。突き飛ばされた時に怒って反撃してくれたことも好感を持つ要因になってるはずだ。このまま落としてしまえ!」

「よ、よし、行ってくる」


 ディノは勇気を出して歩いていく。だが、その足が途中で止まった。

 アネッサとラッセル・ロイヤーが、ミレイの方へ行くのが見えたからだ。


「あら、ラッセルさん……何かご用ですか?」


 ミレイは並び立つ二人へ顔を向けた。


「実は、今日ミレイさんに大事なお話があって来たんです」


 ラッセルの表情には熱が籠っていた。

 

(ああ、ついに決めたのね)


 予想していた未来がとうとう訪れたとミレイは思った。いつか来ることは覚悟していた。それでも、いざその時が来ると胸の痛みがじんわりと広がっていく。

 だが、ミレイは気丈に振る舞った。ディノの言葉が脳裏に蘇った。もう妹へ嫉妬することは止めたのだ。たとえどれだけ苦痛から逃げても心が休まることはない。ならば、本心と向き合った上で現実を受け入れることを選択した。


 ミレイは言葉を待った。


 風が吹き、木々が騒めいた。


 ラッセルは静かに口を開いた。


「ミレイさん、貴女のことがずっと前から好きでした」

「……え?」


 ミレイは一瞬何を言われたのか分からず、呆気に取られてしまった。

 ラッセルは言葉を続けた。


「貴方たちがここに引っ越してきてすぐです。いつだったか、休日にここを通りかかった時、貴女が弟たちと一緒に広場で遊んでいる姿を目にしたんです。その時に、その、貴女が見せた笑顔に惹かれてしまって」


 そういえば、とミレイは引っ越してきたばかりの時期に、この広場でラッセルと初めて会ったことを思い出した。あの時、ラッセルは先行きの見えない暮らしを怖れていた彼女に、優しく声をかけてきた。ミレイは今も忘れていない。


「僕は時間がある時にここを訪れて、貴女と話す機会を得ようとしました。近所には貴女のことを悪し様に言う人もいて、貴女といると会社の評判にも関わるなんて説教もされましたが、そんなことはどうでもよかった。本当はもっと早く想いを告げたかったんですが、どうしても勇気がでなくて。そこでアネッサに相談して助言を貰ったんです。その代わりに彼女が医療魔術師を目指すのに協力しました。うちの工場で雇ったのもその一環です。それに彼女に協力すればミレイさんと接する機会も増えるという打算もありました」

「ラッセルさん結構奥手でさ、逢って話す切っ掛けが欲しいからって私をダシにして家に来るようになったの。でも、一言か二言話すだけで後は私と一緒にいるだけだし。あんまりにも遅々として進展しないから背中蹴飛ばしてやろうかと思ったわ」


 アネッサは仮にも上司である男の情けなさを容赦なく指摘する。ラッセルもよく分かっているのか言い返さなかった。


「でも、迷っている間に今度の事件が起きて……アネッサから話を聴いて初めて貴女が事件に巻き込まれていたことを知ったんです。それでようやく決心がつきました。言いたいことを言えずにいたら、いつか必ず後悔すると。どうでしょう? 僕の気持ちを受け入れてくれますか?」


 ラッセルの顔には初めて見る感情の揺れがあった。自信に満ち溢れた敏腕経営者は、一世一代の告白に震えていた。


 ミレイもまた身体が小刻みに震えていた。久しく感じていない興奮だった。


「ラッセルさん、本当に私でいいんですか? 私よりもアネッサの方が明るくて、人に好かれやすい性格ですよ」

「貴女だって家族思いで優しいでしょう」

「私、ずっとラッセルさんと仲が良いアネッサに嫉妬してたんです。私よりずっと可愛らしくて周りの人にも恵まれているから。そんな意地の悪い女ですよ?」

「つまり、僕のことを好いてくれていたってことですね? それならむしろ安心しましたよ!」

「私、最近自分の在り方について考えて、もっと我儘に生きようと思ってたんです。貴方に迷惑かけるかもしれませんよ?」

「思う存分我儘を言ってください。貴女はずっと我慢してきたんです。それくらいの権利はある」


 ミレイはラッセルの胸の中に飛び込んだ。彼は全身を以って受け止めた。


「……私もラッセルさんのような素敵な人に巡り会えたら良かったのに、とずっと思ってました」

「ありがとうございます」


 ミレイは顔を背けて涙を拭いた。そこでレイクとディノがいることに初めて気づいた。


「ああ、観られていたんですか。恥ずかしいですね」

「えーと……突然のことで驚いたけど、とりあえずおめでとうと言っておくべきかな」


 レイクはどう言うべきか迷ったが、当たり障りのない祝福の言葉を贈ることにした。彼は隣に立つディノを横目に見た。ディノは静かに愛し合う二人を見つめていた。


「ディノさん、本当に感謝します。貴方の助言のお陰で私やっと自分らしく生きられるようになりました」

「ミレイさん、その」


 ディノは言葉に詰まったが、少し逡巡した後に気持ちを切り替えることに成功した。


「……お幸せに」


 その一言で、ディノは秘めていた感情を殺した。


「レイクさんも手を尽くしてくれて本当に感謝します。もし、今後何かお手伝いできることがあれば是非頼ってください。できる限りのことはするつもりです」


 ラッセルはそう言うと、ミレイの肩を抱いて一緒に去っていった。アネッサもリックとクーロを連れ、会釈して離れていく。


(ラッセル・ロイヤーもまたミレイの影のある魅力に惹かれた男の一人だったってわけか)


 レイクはミレイ・リンデンという人間は存外罪な女だなと、しみじみ思った。

 

「ディノ」

「いいんだ。ミレイさんも幸せそうに見えたし、これが最高の結末なんだろう」


 ディノの表情は悲しくも穏やかだった。嫉妬も後悔もない。新しい門出を純粋に祝う男がそこにいた。


 レイクは肩をすくめた。


「気にするななんて気休めは言わないよ。失恋は大いに悔しがるべきだ。今日は俺が奢るから好きなだけ呑むといい。恋に破れた新しい友人の純情を慰めてやろうじゃないか」

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