第8話 色街の純情①

 レイキシリス・ブラウエルは表向きには道楽者として通っているが、探偵という裏の顔を持ち、独自の情報網を握っている。

 帝都の各地には平民、貴族問わずレイクの協力者が多数存在し、その内訳は大きく二つ。

 一つは、帝国司法の頂点に立つ実家のブラウエル侯爵家と繋がりの深い司法関係者。帝都警察長官を務める父親の信を得た警察官、裁判官、検察官、弁護士などだ。

 もう一つは、レイクが自らの足と交渉と実績によって獲得した協力者。実業家、技術者、芸術家、医者、船乗り、新聞記者、傭兵、果ては裏社会の人間と顔ぶれは多種多様だ。


 そんな情報源の中でも特に情報の量や価値に富んでいるのが、色街で働く人間だ。


 帝都二十六区、中央部より東に位置するザバ区には帝都唯一の色街がある。帝国の法律では娼館やそれに準ずる営業形態の店は、国または都市が指定した地域でしか営業を許可されていない。帝都においてはザバ区の一定区画がそれに当たる。

 ザバ区は内陸にある行政区だが、色街は整備された幅の広い水路に囲まれた島のような形で造られている。島へ渡るには四方に設置された橋を通るほかにない。それは色街の中に充満する欲望を外へ逃がさないための措置のように思え、夜に映える色街はさながら光に満ち溢れた監獄のようであると誰かが評した。


 それでもこの街には様々な人間の思惑が集中する。金と名声に溺れた者も日々のささやかな糧を求める者も、欲望のはけ口を求める点では皆等しい。そして、快楽に浸りきった彼らの理性が緩み、口が軽くなった時、彼らが抱える秘密が飛び出す。

 情報の内容は玉石混交だ。会社の上役が妻と不仲で離婚寸前だの、品行方正で知られる淑女が違法賭博に興じているだの、顧客の金を横領した事件を揉み消しただの、敵対関係にある企業同士が実は裏で提携しているだの、単なるゴシップに始まり商売上の機密や隠された犯罪まで選り取り見取りだ。

 これらの情報はレイクの協力者たちによって拾い集められ、彼の元へと届けられ探偵活動の助けとなる。そして、レイクはその見返りとして色街で起きる問題を引き受けるという契約を結んでた。


 この日、レイクは協力者の一人である《炎麗館》の女主人リザ・チャンドラーから問題が生じたので力を借りたいと連絡を受けて赴く最中だった。




 夜空の下、レイクは西側の橋を渡って色街へと足を踏み入れた。橋から一歩色街の地区内へと踏み込んだ瞬間、むせ返るような甘ったるい空気が襲いかかってくるような感覚に見舞われた。それは鼻腔をくすぐるものではなく本能の奥底を刺激するような身体が落ち着かなくなる空気だった。並の男なら気分が高揚してしまいそうであるが、レイクは普段と変わらない表情だ。

 この空気は自然に発生したもので何らかの魔術による効果ではない。精神に作用する魔術を用いた客引きは法律で禁じられている。これは愛欲を鍋でどろどろに煮詰めて醸し出された快感と不快感の中間に位置する退廃的な歓びの象徴だとレイクは思っていた。


 レイクは澄ました顔のまま明々とした道を進んでいく。人の隙間を潜り抜けるように歩くレイクを目にした幾人かの女が獲物と見定め声をかけてきた。道楽者と粗雑な扱いを受けることの多いレイクであるが、見目麗しいのもまた事実。年の割に童顔であるがそれが女を惹きつける要素となっていた。

 だが、レイクは誘惑の声に対して一瞥すらせず通り過ぎていく。無視された女たちはがっかりし、近くにいたレイクを知る者からその素性を教えてもらい驚いた。一見するとなよなよしている若者が色街の大物と接点のある貴族だと知った女たちは、人の波に消えゆく後姿を見つめて嘆息した。


 やがて、レイクは目的地である《炎麗館》の前に到着した。


 《炎麗館》はかつて女向けの衣料品や靴を販売する商店が所有していた建物で、煉瓦造りの趣ある外観が特徴的だ。商店が事業を畳んだ後、新たに建物を買い取ったのがリザ・チャンドラーだった。

 リザがどこの生まれで娼館経営の前に何をしていたのか知る人間は誰一人としていない。確かなのは彼女が十分な財産と経営の知識を持っていることだけだ。リザは買い取った建物を修繕し、改装するために金を惜しまなかった。こうして色街の真ん中に《炎麗館》は現れた。


 レイクは店の入口付近に一組の男女がいることに気づいた。

 一人は長い黒髪の女で、右目の下に黒子がある。レイクも知る《炎麗館》の娼婦ミレイ・リンデンだ。

 もう一人は背の高いこげ茶色の髪を持つ若い男だ。レイクが初めて見る男でどこぞの貴公子とも思えるような美男子で、甘い言葉の一つでも囁くだけで十人の女が同時に蕩けてしまいそうなほどだ。


 二人が何やら揉めているように見えたレイクは、近寄って二人の会話を聴くことにした。


「すみませんディノさん、気持ちは大変ありがたいのですがこれ以上ご迷惑をおかけするわけにはいきません」

「俺もそう思いますが、これもモーディスさんの意向なんです。貴女を心配しての措置ですから、あまり気になさらなくてもいいのでは?」

「そうなんですが……もしかしたら小父様やディノさんの身に何かあるかもしれません。そんなことになればもう顔向けできなくて……」


 レイクは最初美男子がミレイに言い寄っているのかと思ったが、どうやらミレイに何らかの提案をしているようだと気づいた。ミレイは提案の内容に遠慮し、ディノと呼ばれた男は誰かの指示で来ているため引き下がるわけにいかない様子だ。

 ミレイは会話の最中に何度か目線を落としている。その顔には罪悪感に似た感情が見え隠れしていた。

 一方ディノの方はというと、ミレイへ向ける瞳は酷く冷たく感情が籠っていない。また、時折苛立ちを抑えるように目元がぴくぴくと引き攣っていた。

 レイクは過去にそれと似た瞳を見たことがある。娼婦へ向けられる軽蔑の眼差しだ。


(どうもあの男、好きでここに来ているわけじゃなさそうだな。ミレイの態度に怒っているように見えるし、間に入った方がいいか)


 レイクはこのまま眺めているより介入すべきと判断し、二人に声をかけようとした。


 その瞬間、すぐ近くから怒号が上がった。


「ん?」


 声を上がった先を見ると、二人の男が睨み合っていた。どちらも酒を呑んでいるのか顔が赤い。二人が互いに唾を飛ばしながら喚く様子を見るに、一方がふらついてもう一方を突き飛ばしてしまったらしい。そこで相手の男が逆上して怒鳴ったことで喧嘩が勃発したようだ。周囲にいる人々は関わり合いになりたくないのか距離を置いている。

 二人の口論は止まる気配はなく次第に激しさを増していく。罵詈雑言が次から次へと出てくる有様はレイクが耳を塞ぎたくなるほど酷かった。


 そんな状況は突如として一変した。突き飛ばされた男が右手を前にかざし赤い魔力を纏わせると、野次馬がどよめいた。炎属性の魔術を使おうとしている。もう一人の男もそれに釣られて薄い緑色の魔力の塊を顔の前に展開し始めた。風属性の魔術で相手を吹き飛ばすつもりなのだろう。魔力の練りを見るに両者ともそれなりに腕の立つ魔術師であり、そしてここが街中だと失念していることは明白だった。


 悲鳴が上がり野次馬たちが慌てて遠ざかる。

 レイクは二人の魔術師の頭を冷ましてやろうと水の魔術を発動しようとした。


 だが、彼より先に動いた男がいた。


 レイクの視界の端で何かが揺れたかと思うと、次の瞬間にはミレイの前にいたはずの美男子ディノが男たちの間に割り込んでいた。彼の肉体はいつの間にか橙色の魔力に包まれていた。

 眼前に現れたディノに男たちは呆気にとられたように口をぽかんと開けた。彼らがディノを認識して対応するよりも早く、ディノの右の拳が二人の胴に立て続けにめり込む。男たちの口から苦痛の息が漏れた。そのまま彼らは白目を剥くと膝から崩れ落ちて、路上に伏した。


(へえ。これはなかなか……)


 数秒の間を置いて野次馬の歓声が上がった。ディノは気にした素振りもなく変わらず冷たい表情のままミレイの元へ戻った。


「ミレイさん、《炎麗館》の電話をお借りしていいですか? 警察にこの馬鹿どもを任せましょう。それから念のため拘束できる縄などあれば提供してください」

「は、はい。魔術師用の拘束用具なら事務室にあるはずです。マールさんに頼んでみますね」


 ミレイは多少動揺していたが、指示に従って店の中へ駆けていった。

 ディノはほっとしたように息を吐いた。レイクは彼の元へ歩み寄った。


「お見事だった。今の身体強化はそうそうお目にかかれない習熟具合だ。才能があるか、それとも地道に鍛錬を重ねたのか、ともかく凄かったよ」


 レイクはディノが身体強化を発動する瞬間に気づけなかった。視界の端で動く彼の姿を認めた時には既に発動を終え、行動に移っていた。

 身体強化の魔術は魔術を学ぶ者であれば初期に習得する魔術であり、戦う者にとって必須の魔術でもある。レイクも当然習得し、どんな時でも無意識に発動できるように極めている。

 だが、ディノの用いた身体強化はそれを優に超えていた。瞬きする間もないほどの時間で極限まで出力を上げ、攻撃する。それは一切の無駄を削ぎ落とし、必要な動作のみを刹那に詰め込んだかのような芸術性があった。

 

「いや、それほどでもない。あんたも動こうとしていただろ。俺から見ればすぐに水の魔術を発動させようとしたあんたも十分凄いよ」


 ディノは目を逸らしながら謙虚に答えた。レイクが魔術を発動しようとしていたことにも気づいていたらしい。あの短時間で周囲の状況の把握も済ませていたことに、レイクは益々興味が湧いた。


「俺はレイキシリス・ブラウエル。レイクでいいよ」

「……ディノ・ホールデン。《モーディス商会》ってところで用心棒として雇われている」


 レイクはディノと会話を続けようとしたが、ディノの勇姿に感激した女性たちが彼に群がって来た。犬がじゃれつくように彼の服を掴み、手放しに褒め称える。ディノは言葉少なめに応じているが、明らかに迷惑だと顔に書いてあった。それだけでなく先程ミレイに見せた冷たい感情の籠っていない瞳が戻っている。


「外で立っているのもなんだし一度中に入ろうか。俺も《炎麗館》に用があって来たんだ。一緒に中に入らない?」

「ああ、そうする」


 ディノは群がる女性たちから急いで離れ、建物の中へ足早に入っていく。レイクもその後をすぐに追った。


 《炎麗館》のロビーでディノは安堵した顔を見せた。


「ふう……」

「娼婦に纏わりつかれるのは嫌い?」


 レイクは不躾だと思いながらも正直に訊いた。ディノの不愉快そうに娼婦を見る目が気になって仕方がなかった。

 質問されたディノはばつが悪そうに顔を背けた。


「いや、別にそういうわけじゃないんだ。今のはただ纏わりつかれていたから離れたかっただけで……」

「でも、さっきミレイも同じように見ていたからさ。ミレイとは普通に話してただけだったでしょ」

「そうなんだが、決して嫌いではなくて……」


 妙にはっきりしない口振りに、レイクは首を傾げた。


 ディノは恥ずかしそうにしていたが、やがて意を決して答えた。


「その……女性と会話するのが苦手なんだ。女性を前にすると緊張して、平静を装うだけでもう限界で」


 美男子は、ただ初心なだけだった。




 警官が到着したのはそれから間もなくのことだった。ディノは当事者として警官に事情を説明し、レイクやミレイも彼の行動に非がないことを証言をした。

 魔術師二人は縛り上げられたまま警官たちに連行されていった。

 その光景を見届けると、ディノはミレイと打ち切られた会話の続きをした。


「ええと、さっきの話ですが……」

「はい、お言葉に甘えさせてもらいます。先程の戦いぶりを見てディノさんがとても頼りになる人だと分かりましたから、一緒に帰ってくれるなら助かります。それにこのまま断るのも小父様に悪いですから」

「了解しました」


 ミレイは押し問答を繰り返すより提案に乗るべきと判断し、ディノと連れ立って《炎麗館》を去っていった。帰る際にディノの顔がまたしても引き攣り、機械的な喋り方でミレイと接していたのをレイクは何とも言えない顔で見ていた。


「レイキシリスさん、お待たせしてすみません」


 《炎麗館》の事務員マールがやって来て、レイクに謝罪した。


「気にしてないよ。マールさんも電話と拘束用具貸してくれてありがとね」

「構いませんよ。店の前で暴れられたら困るのはうちですから」


 レイクはマールについていく。マールは執務室の扉の前まで行くと、ノックして声をかけてから開いた。


 部屋の中には中年の女が一人、椅子に座って葉巻をふかしていた。


 リザ・チャンドラーは今年で五十五歳になる婦人だ。老いの兆しが肌に表れながらも、昔は美貌の持ち主であった名残があった。白髪交じりのくすんだ金髪も寂寥感のある美を体現している。


「よく来たねレイ坊、表で面倒事に巻き込まれて災難だったろう」

「俺は何もしちゃいないよ。美男子用心棒が一人で片付けてくれたからね」

「ああ、あの初心な坊やか。平然とした面を保ってるのが気に食わない。堂々と恥ずかしがる方がよっぽど可愛げがある」

「あ、ディノが女性が苦手なこと知ってたんだ」

「ふん、若造の女を見る目からは人となりが見て取れるんだよ。お前さんもよく学んどきな」

「はいはい、ところであいつミレイと何か押し問答してたけど何かあったの?」


 リザの目が鋭く光った。


「実は今日呼んだのはそのミレイに関わる問題なのさ」

「へえ?」


 レイクの眉が興味深そうに上がった。

 リザは葉巻を置くと、頬杖を突いて話し始めた。


「ここ三週間でこの《炎麗館》の上客が襲われる事件が三度起きた。襲われた客は皆複数人の男に殴る蹴るの暴行を加えられているが、幸いどれも命に別状はない。一度目は丁度三週間前、二度目は十日前、三度目は四日前に起きている。最初の事件の時は知り合いが襲われたってことで物騒な話だねって済ませてたけど、二度目の事件でうちの客がまた襲われるなんて妙な偶然があるなと不審に思った。そこへ三度目の事件が起きて偶然なんかじゃないと結論を下して、お前さんに相談することにしたんだよ」

「ここの客ばかりがねえ。営業妨害が目的なら従業員を襲いそうなものだし……何か心当たりはないの?」

「それがあるんだよ。まさにさっき言ったミレイが関わってる」


 リザは頭痛を我慢するように目を瞑った。レイクは彼女が何を言いたいのかすぐに気づいた。


「……ひょっとしてその三人の客って皆」

「ああ、ミレイが担当した客ばかりだ」


 成程、とレイクは小さく呟いた。


「娼館の客が次々に襲われ、しかも同じ娼婦が関わっているとなれば、当然その娼婦が何か絡んでいるじゃないかと思われるか」

「そうさ。ミレイの立場が悪くなるのはあたしとしても面白くない」

「リザはミレイのこと可愛がってるからね」


 図星を突かれてリザは鼻を鳴らした。《炎麗館》の女主人は金感情に厳しい事で知られているが、同時に抱えている娼婦に甘いことをレイクは知っていた。そして、特にミレイのことを気にかけていることも。


「ミレイは大分気落ちしているみたいだよ。ただでさえ暗そうな見た目だっていうのに、余計にじめじめしてるからカビが生えそうだ。既にミレイが疫病神だなんて噂も立っている。ただでさえミレイは気に病みやすい性格なのに、事件のせいで精神的に負担がかかってる。それに犯人が本当にミレイの客を狙って襲っているのか確証もない。今のところミレイ自身に何か起きたって話は一切くて、至って平和だよ。一応あの若い用心棒が念のために送り迎えに来ているけどね」

「そういうことだったのか……でも、ディノは雇い主の命令で来ていたらしいけど、ミレイとどんな関係があるの?」

「聞いた話じゃ《モーディス商会》の会長ってのがミレイの死んだ両親の友人だったらしい」


 ミレイは数年前に両親を事故で亡くし、遺された弟妹を養うために身体を売っている。身寄りが他におらず引き取り手はいなかった。

 ところが、最近になって母親の高等学校時代の同級生だったベイリー・モーディスがリンデン家の現状を知り、何かと支援しているらしい。


「色街で流れてる噂を知ってわざわざ自分の雇ってる用心棒を護衛に寄越すなんて感心するよ」

「そのモーディスって奴、ディノが女性が駄目なの知ってるの?」

「知らないから送ってるんだろう」


 ディノは雇い主に抗議したかったが恥を晒すことを恐れて受け入れるしかなかったのだろうと、レイクは推測という名の正解に至った。


「そういうわけでお前さんに依頼したい。レイ坊なら警察より上手くやれるだろう。それにこんな時のために協力関係を築いてるんだ。ちゃんと働いて報いておくれ」

「ま、それが契約だからね。引き受けよう」


 レイクとしても協力関係にある《炎麗館》がトラブルに巻き込まれて客足が遠のくといった事態になることは避けたい。そして、うら若い娘が悪意に晒されるのを黙って見ていることもできなかった。


「それで犯人に心当たりはあるの? ミレイにご執心の客とか、そういう奴はいる?」

「あたしが知る限りではいないね。ミレイを気に入ってる客は確かに何人かいる。襲われた三人もそうだけど、あの子と一緒にいて父性が刺激される男が多いみたいだね」


 ミレイは物憂げで幸薄そうな面立ちが庇護欲をそそると評判だ。客の中には彼女と寝るより、ただ話をするだけでいいという者も多かった。


「一応あの子の客に関する情報は纏めているから好きに使っておくれ」


 リザは大きめで厚みのある封筒をレイクに差し出した。


「そういえばミレイって《炎麗館》の寮には住んでいないんだよね。住所は?」

「カリム区にある賃貸の集合住宅に住んでる。両親が死んでからそこに越したらしいね。地図もその中に入ってるから、何か訊きたいことがあれば訪ねてみな。ああ、それから事件が解決するまで仕事は休むように言ってる」

「どうせその間の給料も出すって言ったんでしょ?」

「よく分かってるじゃないか。ガキの世話するには金がかかるからね」


 リザは再び葉巻を咥えると笑った。




 ミレイとディノは道中一言も会話を交わすことなく、ミレイの住む集合住宅の前まで行き着いた。


「ありがとうございますディノさん、ここまでで結構です」


 ディノは周囲を警戒したが、誰かが潜んでいる気配は感じ取れなかった。

 代わりに悪意の欠片もないどたどたとした足音が聞こえてくると、一人の子供が集合住宅の階段を駆け降りてきた。


「ミレイ姉ちゃん帰ってきた!」


 声の主はミレイの上の弟のリックだ。その後ろから下の弟クーロ、さらに遅れて妹のアネッサもやって来る。


「あんたたちまだ寝てなかったの?」

「ミレイ姉ちゃんがケーサツと話があるから遅くなるって電話かかってきたから心配だったんだよ!」

「大丈夫? どっか怪我してない?」

「大したことじゃないよ。たまたま目の前の喧嘩を通報しただけなんだから」


 ミレイは涙目で服の裾を掴む弟二人の頭を撫でる。


「ほらほら、もう安心でしょ。離れなさい」


 アネッサが弟たちを引き剥がした。十七歳になる彼女はミレイと同じ黒髪だが、ぱっちりとした瞳に快活そうな顔つきと印象は真逆だ。


「ディノさんも送ってくれてありがとうございます」

「いえ、礼には及びません。仕事ですから」


 ディノは必死に表情を取り繕い、視線をアネッサの後方へと向けた。


 そこで彼はアネッサの後ろから一人の男がやって来ていることに気づいた。


「ああ、ラッセルさんも来ていたんですか」

「ミレイさんが面倒事に巻き込まれて弟さんたちが不安になってるとアネッサから連絡を受けました。それでアネッサと一緒に二人を宥めていたんです」


 ラッセル・ロイヤーは屈託のない笑顔を見せた。彼はリンデン家と親しい近隣の住民であり、アネッサが学校へ通う傍らに働いている魔導器具工場の経営者だ。まだ三十になるかどうかという年齢で、既に一角の経営者として高い人望を集めていた。

 彼の顔はミレイの帰還に心からほっとしているようだった。一連の事件のことは家族以外には伝えていない。近所でも妙な噂が立つのは避けたかったからだ。彼はただ知人がちょっとしたトラブルに巻き込まれたことを心配しているだけなのだろうと思った。


 その時、ミレイは互いに顔を見合わせて微笑む妹とラッセルを見た。その目に僅かな羨望と嫉妬が混じったのをディノは見逃さなかった。


 ミレイはディノへ向き直ると、頭を深々と下げた。


「それではディノさん、おやすみなさい。モーディスさんにもお礼を伝えておいてください」

「分かりました」


 ミレイの目に映った感情について考えていたディノは話しかけられたことに一瞬動揺した。それでもどうにか言葉を返すことはできた。


 若干気まずい空気が流れたが、ミレイの顔色は幾分良くなっていた。彼女は弟妹とラッセルと一緒に集合住宅の階段を上がっていった。


 ディノは自己嫌悪に肩を落とし、重い足取りで歩き出した。




 翌日、レイクは早速ミレイの住む集合住宅へ向かうことにした。

 オーリン区の自宅を出てそのまま東へ真っ直ぐ進めばカリム区の住宅街へと辿り着く。そこは先日の殺人事件で犠牲となったラオル・バンザの家とも近い場所だ。現在ラオルの家では子や孫たちによって遺品整理が行われている最中だ。レイクが事件解決後に会いに行った時は感謝の意を伝えられた。ラオルの家はそう遠くない内に引き払われる予定だ。


 目的の集合住宅はラオルの家からそれほど離れていない場所にあった。建物は三階建てで、リンデン家が住んでいるのは三階一番奥の部屋だ。レイクはリザから渡された封筒に入っていた地図を手に持ち、建物を見上げた。窓の奥はカーテンによって遮られていた。


 レイクはそこで建物の正面に広がる公園に三つの人影があることに気づいた。そのうちの一つが目当てのミレイであることにも。他の二人は初等学校生くらいの年齢であり、彼女の弟二人だと推測できた。

 二人の少年はボール遊びをしていて、ミレイが近くのベンチに座って眺めている。その表情は穏やかであり、平和な家族の光景そのものだった。


 ミレイは歩いてくるレイクに気づくと立ち上がり、頭を下げた。


「こんにちはレイクさん」

「やあ、どうも」

「オーナーから話は窺っています。私のために力をお貸ししてくれてありがとうございます」

「気にする必要はないよ。これも俺の仕事だからね。何より美しい女性がトラブルに巻き込まれているのを見過ごすのは男がすたる。大船に乗ったつもりでいてほしい!」


 おどけた態度で豪語するレイクに、ミレイはくすくすと笑った。


 そこへボール遊びを中止してリックとクーロが駆け寄ってきた。


「なんだお前! ミレイ姉ちゃんに用でもあるのか!」

「こらリック、失礼でしょ!」


 レイクにぴんと指を突きつけて睨むリックを、ミレイは叱りつけた。


「お兄ちゃん誰?」


 クーロは幼い顔に疑問符を浮かべて問うた。


「誰かと訊かれたら答えないわけにはいかないな。俺こそは帝都にその人ありと云われた“道楽レイク”ことレイキシリス・ブラウエル。君たちのお姉さんの友達だ」

「道楽? 友達?」

「道楽ってどういう意味?」

「うーん、遊ぶのが好きってことかな」


 レイクの当たり障りのない回答を聴いて、リックとクーロが顔を見合わせた。それからリックが持っているボールを掲げた。


「じゃあ、俺たちと遊びに来たってこと?」

「遊びたいの?」

「だからやめなさいって。レイクさん、どうかお気になさらず」


 ミレイは弟たちの頭を軽く叩く。

 だが、レイクは不敵に笑った。


「いいよ、急いでいるわけじゃないから。子供たちも遊び相手が多い方がいいだろう。いいかい? 俺はこう見えて運動が得意でね。一番は剣術だけどボール遊びも結構できる。高等学校時代には大会に出場した奴とも張り合えたんだよ」

「凄い! じゃあ、“暴れ馬”より強いのか?」

「僕聞いたことあるよ。“暴れ馬”はボールで地面に穴開けたことあるって」

「うん、実際見たことあるけど凄いよあれ。観戦してたマオが天を仰いでた」


 子供たちの警戒心はすっかり解けていた。レイクと兄弟は前から仲の良い友達同士であったかのように言葉を交わしている。その様子を間近で見ていたミレイは、レイクの人好きのする性格に驚くしかなかった。


「信頼関係を築くには時間を共有するのが一番だ。というわけで付き合ってあげよう。二人がかりでかかってくるといい」


 レイクの挑発に乗った兄弟は威勢のいい声を上げて走っていった。


「子供たちが満足してからゆっくり話を訊かせてほしい。それまでは休日を大いに楽しもう」

「……そうですね」


 ミレイはリザから休んでいる間に心を落ち着けるよう何度も言い聞かされたことを思い出した。ずっと世話になっている彼女の厚意を無駄にするのは忍びなかった。


 三人が公園の中央へ行き、ボール遊びが再開された。


 ミレイはまたベンチに座ろうとしたが、そこに新たな客が現れた。


「マールさん?」

「どう調子は? 買い出しついでに様子身に行こうかと思ってさ」


 マールの手には買い物袋が下げられている。事務員である彼女は不足した食料品や文房具を買い足す役目を負っていた。


「特に何事もなくゆっくりできています。レイクさんも顔を見に来てくれたんですよ。今は弟たちの面倒を見てもらっています」

「折角貰った休みなんだから事件のことなんか忘れて好き勝手にしたらいいんじゃない? オーナーも復帰した暁には休んだ分働かせてやるって言ってたし、有意義に使わなきゃ損よ」

「ふふ、そうですね」


 それからしばらく会話を交わした後、マールは手を振って《炎麗館》のある方角へと消えていった。


 ミレイは手を振って見送っていたが、マールが消えた方向からまた新たな人物が登場したことに思わず声を上げた。


「ディノさん?」


 ディノ・ホールデンは端正な顔に皺を寄せ、ミレイの前に立った。


「どうもミレイさん、たった今マールさんとすれ違ったんですが……」

「丁度今まで話をしていたところでした。あの、ディノさんも私の様子を?」

「ええ、まあ、そうなんですが……」


 歯切れの悪い調子で話すディノは、ちらちらとミレイの顔色を窺っている。


「どうかしたんですか?」

「その、今日もモーディスさんに言われて来たんですが……」


 ディノは大きく息を吸うと、まるで死地へ赴く軍人のように悲壮な表情を浮かべた。


「実はモーディスさんの護衛を外されまして。今日からミレイさんの護衛をしろと命じられました」


 予想外の言葉にミレイは仰天した。

 レイクたちは遊ぶ手を止めて何事かと視線を向けた。

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