帝都道楽貴族
夏多巽
第1話 暴れ馬①
リン・クレファーとは如何なる人間か。
彼女を知る者にこう訊ねるといくつかの回答が返ってくる。
それらの回答は内容から凡そ四つに分けることができる。
「いいよね、家がお金持ちで。うちは歴史の長さだけが取り柄のしがない貴族だからさ、クレファー家みたいに商売が得意なところが羨ましいよ」
クレファー伯爵家は魔導結晶の採掘事業で莫大な財を築いたことで知られる。
二十年ほど前に魔導機関が発明されて以降、アルトネリア帝国では燃料となる魔導結晶の需要が急速に高まっていった。そこに目をつけたのがクレファー伯爵家であった。
当時まだ家督を継いだばかりだった現伯爵ガーランド・クレファーはすぐさま所有している土地を調査させ、魔獣の生息域として知られ維持管理以外では人の寄りつかない場所であった山に魔導結晶が眠っていることを突き止めた。
その後の行動は早かった。友人知人の家を駆けまわって融資してもらい、人手を募り魔獣の討伐隊を結成し、鉱脈の一帯を制圧することに成功した。かくしてクレファー伯爵家は魔導結晶の採掘に乗り出し、見事飛躍を成し遂げた。
クレファー伯爵は今や帝国経済における重鎮と位置づけられ、政財界と強い繋がりを持つに至る。
その伯爵家の次女として生まれたのがリンであった。
「やはりあの美しさは人の目を惹きつけますね。帝都にあれほどの美人はそういないでしょう」
背が高く、すらりと伸びた手足。長い銀髪。どこか儚さを思わせる青い瞳。夜空に映える月のように白い肌。リン・クレファーという女は物語の中から出てきたと錯覚させるような神秘性を帯びた造形をしていた。それは彼女の母親であり今なお帝国演劇界で脚光を浴びる大女優アレッシア・ミュリーから余すことなく受け継いだ美であった。アレッシアの若い頃を知る者であればリンの容貌に母親の面影を見ただろう。
「お金持ちだし美人だってのも確かだけど、それだけじゃなくて才能にも溢れているのよ。彼女にできないことなんて何もないわ」
クレファー伯爵はリンの教育に金を惜しまなかった。帝都のみならず国内すべてから優秀な家庭教師を集め、貴族の子女として恥ずかしくないように知識と技術を叩きこませた。
リンは真綿が水を吸うように教えを吸収していった。その速さに家庭教師たちは揃って戦慄したと云われている。
文学、数学、語学、歴史学、理学といった主要学問を満点に近い成績を修め続けるのは当然。それに加えて剣術、格闘技、射撃など戦闘技術も高い水準で身に着けていった。同年代の男子でもリンに運動で敵う者は数えるほどしかいなかった。
さらに、生まれながらにして魔術の素養も持ち合わせていた。初等学校を卒業するまでに火・水・土・風の基本四属性の高等魔術を完全に習得し、中等学校卒業前には当時考案されて間もなかった剣術と魔術の複合技術として注目を浴びていた魔導剣術を習得するに至った。
このようにリン・クレファーは天が思いつく限りの才能を与えたような人間であり、非の打ちどころなど何一つないように思えた。
しかし、彼女を称賛した人間は皆最後に言葉を濁した。
「まあ、彼女はとても素晴らしい人間だと思うよ。あれさえなければね」
「人間誰しも欠点の一つはあります。そのせいで彼女の価値が損なわれるわけじゃありません」
「一緒にいて楽しいと思うのは事実だけど、トラブルに巻き込まれるのだけは勘弁願いたいわね」
リン・クレファー唯一にして最大の欠点。
リンは帝都で一番の暴れん坊だったのだ。
リンの“武勇伝”は多岐に渡る。
曰く、クレファー伯爵邸に侵入してきた敵対勢力の刺客を返り討ちにした後、刺客を送り込んだ首謀者の拠点へ単身突撃し拠点を灰塵と化させた。
曰く、街中を散歩している時に裏社会の組織の抗争現場に出くわし、仲裁に入ろうとして双方から攻撃されたため両者共に鎮圧。無力化した構成員たちの首根っこを引き摺って双方の組織の首魁に直談判しに行き、停戦を合意させた。
曰く、第三皇子から執拗に愛を囁かれ断り続けたところ、業を煮やした皇子が剣術の試合を申し込み、自分が勝利すれば大人しく娶られよと宣告された。それに怒り完膚なきまで皇子を叩きのめし試合を見物していた貴族たちを震え上がらせた。
曰く、他国が秘密裏に送り込んだ工作員部隊を殲滅した。
中には噂が膨らんだものとしか言い様がない逸話も含まれていたが、リン・クレファーに限っていえばあり得ない話ではないとまことしやかに囁かれていた。それほどまでにリンは常識外れであった。だが、帝都民からの信頼は絶大だった。
その理由が三年前に起きた帝都に一級魔獣が出没した事件にある。
三年前の秋、帝都東部の港湾地区に海棲魔獣が現れ帝都を震撼させた事件は、今なお人々の記憶に鮮明である。
現れたのは一級魔獣。本来帝都の主要戦力を集結させて対処しなければならない極大の悪夢であった。魔獣出現の報告を受けた皇帝エリシャ・レヴィノスは、帝都が壊滅的被害を被ることを覚悟したと云われている。
しかし、最悪の未来はあまりに予想しない形で回避された。
魔獣出没の緊急放送が帝都全域に流された時、リン・クレファーは問題の港湾地区に近いクレファー伯爵家の私有地にて私兵と共に鍛錬の最中だった。
リンは放送が終わった後すぐに私兵を纏め上げ港湾地区へと一直線に突き進んだ。付近の住民が避難する中を駆け抜け現場に到着した彼女らは今まさに陸に上がろうとしていた魔獣を迎え撃った。
それから間もなく駆けつけた騎士団は今まさに魔獣の脳天を魔力が迸る剣で割らんとしているリンの勇姿を目に焼きつけることになった。
奇跡的にも討伐隊に死者はいなかった。リンが頭と腕を、伯爵家の私兵たちが重軽傷を負っただけで済んだ。
この出来事はリン・クレファーの地位を不動のものにした。
無辜の民を守護する帝都一の女傑。
そして、皇帝エリシャもまたリンに強い感銘を受けた。彼女がいなければ帝都は滅んでいたかもしれない。貴族の地位が低下した時代に貴族として在るべき姿を体現したリンを新時代の寵児と評した。
事件から三ヶ月後、リン・クレファーはアルトネリア国防勲章を授与された。歴代最年少の授与であった。
これがリン・クレファーに対する評価である。
天に愛された才媛。
厄介事に巻き込まれれば如何なる手段を以ってしても自ら解決に導く強引さ。
一方で民を守るため過酷な戦いに赴くことを厭わない精神性を持ち、厚い信頼を寄せられている。
リンは己の意思を貫くためなら手段を選ばない。
誰一人として彼女に手綱をつけられる人間はいない。
そうしてつけられた渾名が“暴れ馬”である。
「――と、これがお前に対する評価だ。何か感想は?」
帝都のクレファー伯爵家邸内にある書斎で、ガーランド・クレファー伯爵は娘のリンにそう問うた。
父親の問いにリンは頷きながら微笑んだ。
「とても的を射た評価ですね。皆さんが観察力に優れていることがよく分かります」
「評価者への感想ではなく評価の内容について答えてくれないか」
聞きたかった答えが返ってこなかったことにガーランドは頭痛を堪えるように目を瞑った。傍らに立つ執事のギルトレット・ハートが無言で首を振った。
リンは父親を眺めながら肩をすくめた。
「そうは言っても適切な評価としか言い様がありません。多少誇張が含まれていますが概ね真実でしょう? “暴れ馬”という渾名は不本意ですが仕方ないとも言えます。詰まるところお父様は私にどうしてほしいのですか?」
「あちこちで暴れ回るのを止めてほしいのだよ。お前も来年二十歳になる。いい加減自重を覚えるべきだ」
ガーランドは職人の技巧が随所に施された木製の机の上で頬杖をついた。もう片方の手は苛立たしそうに万年筆を弄んでいた。
「お前も分かっていると思うが我が伯爵家に対する妬みは多い。元々は大して見所のない貴族だったのが魔導結晶の採掘で一気に産業と経済の要に登り詰めた。そのお陰で皇帝陛下の覚えも良い。それを面白くないと思っている連中はいくらでもいる。つまり、お前は体のいい批判材料なのだよ」
「随分と情けない貴族たちですね。お父様に隙がないから私に標的を移したと?」
「はっきり言ってしまえばそうだ。お前のことを傲慢で自己中心的に振る舞うと中傷する連中もいる。特に、第三皇子との御前試合の件が反感を買う原因になっている」
平然とした表情を保っていたリンは第三皇子ソル・レヴィノスの名前が出た途端、眉を顰めた。
帝国でも有数の武人として知られるソルは、リンが心から尊敬する人間の一人である。
そして、一時期ソルがリンに恋愛感情を抱いていたのは多くの貴族が知る話であった。
「あれはソル殿下も納得の上でしょう? 私が御前試合で勝てば婚約は諦めると殿下が事前に明言していたんですから、私を批判するのは筋違いというものです」
「奴等にとって理由は何でもいいのだよ。御前試合の後から流れ出した噂は知っているか? お前は自分より弱い人間に興味がなく、気に入らないと判断すればたとえ皇子であろうと容赦なく甚振るらしい。市井に流れている噂も、お前が殿下の執拗なプロポーズに怒り叩きのめしたという内容だ。お前と殿下の不仲説は思っているより広まっている」
「私たちの普段の関係を見た上でその感想が出てくるなら大したものですよ」
リンの声色には冷たい怒りが潜んでいた。
彼女は自分を侮る発言には平静を保っていたが、幼馴染の第三皇子を間接的に侮辱する発言を許容することはできなかった。
ソルは極めて紳士的な男性であり、女性にしつこく言い寄るなど無作法な真似をする人間ではない。リンは噂を広めた人間の浅慮さに嫌悪感を覚えた。
ふと、告白を受けた時のソルの顔がリンの脳裏に浮かんだ。彼女は後ろめたい感情が漏れ出るのを防いだ。
ガーランドはそんなリンの心情を知らず、優しく説き伏せるように言った。
「リン、お前は昔から親の欲目なしに良い子だった。常識外れではあっても人の道を外れる真似はしなかった。だからお前が妙な噂に振り回されるのは心が痛む」
「私は気にしていません。お父様が気にする必要は――」
「レッシーが気にかけている。お前の将来に悪い影響を与えるのではないかとね」
ガーランドは今この場にいない愛しい妻の不安に揺れる瞳を思い出した。
ずっと昔に大恋愛の末に結ばれた躍進的な貴族と大女優は、私生活において互いに胸の内を隠すことなく本心を語り合う習慣があった。
前日の夜、アレッシアは劇場関係者から伝えられた娘の悪い噂を夫に語った。愛する妻が心を痛める姿に、ガーランドは我が事のように苦しんだ。彼は自分が妬み嫉みの的になることは耐え凌げるが、家族にまで広がることは看過できなかった。
「どれだけ人のために尽くしても悪評を真に受ける人間はどこにでもいる。不当な理由で嫌う人間が増えるということは、それだけ嫌な思いをする機会も増えるということだ。お前は派手な行動を起こさずとも成果を挙げられるだけの実力を持っているのだから、選択肢に困るわけではないだろう?」
「それは不当な理由に屈するという意味ですよ、お父様」
リンはきっぱりと己の意思を叩きつけた。
ガーランドは助けを求めるようにギルトレットへ視線を向けた。
ギルトレットは再び無言で首を振った。
「お前の考えは分かった。だが、時間をかけて考えてほしい。お前はまだ若いのだからやりようはいくらでもある。それだけは知っておいてくれ」
翌日の夜、帝都中央部イスメラ区の
リンは麺料理の乗った皿の上にフォークを突き立て、物憂げにくるくると回す。
その様子を正面に座るマオ・ユーライデスがやや呆れた様子で見ていた。
「それでちゃんと考えたわけ?」
「考えるだけ考えましたよ。でも、私は今のままでいいです」
一晩かけて父親の言葉を反芻した結果、リンはこれまでと同じ結論を下した。
ただ、時間をかけるよう言われた手前すぐに結論を報告しに行かなかった。代わりに長年の親友であるマオに愚痴を零すことを決め、今こうして彼女と夕食を共にしている。
「ま、リンは昔から騒動に関わってばかりだったし、その方がらしいと言えるわね。アンタが大人しく御令嬢やってる姿とか想像つかないわ」
マオは幼い頃のリンの姿を思い出しながらくつくつと笑った。
初等学校で出逢った頃からリンとマオの仲は周囲が不思議に思うほど良好であった。
黙っていれば可愛らしい貴族出身のリンと、明け透けで口の悪い平民出身のマオ。
幼い頃から度々トラブルに関わるリンが腫物扱いされる中、マオだけは態度を変えることがなく堂々とリンに話しかけたり遊びに誘ったりした。
リンは一度マオにその理由を訊ねたことがある。その時に返ってきた答えが「貴族でもアンタ相手なら取り繕わなくていいから気が楽」であった。その回答にリンは納得して、それから今に至るまでマオとの友好は続いている。
「まあ、その話はいいのよ。アタシが気になってるのはソル殿下のこと。本当に振っちゃって良かったわけ?」
リンはフォークを動かす手をぴたりと止めた。
「殿下には申し訳ないと思いますが、あれで良かったと思います」
「アタシは勿体ないって思うわ。七、八年くらい一緒に剣を頑張ってきて、いつ結ばれてもおかしくないって思ってたのに」
「……正直に言うと私に恋愛は似合わないと思います」
「へえ、なんでもできる大天才が恋愛だけは苦手と仰る?」
「そうかもしれません……誰かを好きになるということがぴんとこないんですよ。少なくともソル殿下に対してそういった感情を持ったことはありません」
リンはソルが己に対して恋情を抱いていることに気づいていた。彼とは同じ剣の師を持ち、十年も剣を打ち合った仲である。互いの性格や嗜好は把握しており、如何なる感情を向けられているのか理解できないほど彼女は鈍感ではなかった。
今でもリンはソルと並び身体と技を鍛えた日々を思い出せる。
八年前のある春の日、帝都の騎士団が所有する訓練場で二人は出逢った。
その時、十歳のソルは信頼する近衛騎士相手に稽古をつけてもらっている最中だった。そこへ剣術の師ヴァイス・ベスナーの訪問を告げる旨の知らせが届いた。訓練を中断して師を出迎えたソルは、彼の隣に立つ見覚えのない一人の少女に気づいた。透き通るような青い瞳と銀髪が目を惹く少女だった。
師は少女が誰なのか説明することなく、ただ彼女と打ち合ってほしいとソルに頼んだ。ソルは不思議に思いつつも師の頼みであればと快く引き受けた。
上質な生地だが薄汚れた長袖のシャツと黒いズボンに身を包んだ少女は、師から木剣を受け取りソルと相対した。
その場に居合わせた者の中に少女の素性を知る者はいなかった。恐らく剣の道に憧れるも剣を握ったことのないどこぞの令嬢であり、高名な剣術家に
数分後、訓練場には膝をついて呆然とするソルと、涼しげな表情で立つ少女リン・クレファーがいた。
剣の才能と実力でいえば同年代で一番だったソルが
八年は子供にとって長い時間である。そして、少年の淡い恋心が熟成されるには十分な時間であった。
リンにとってソルは対等な友人であり弟分だ。友として、年下の男子として向ける好意はあった。しかし、一人の男性として認識することは一度もなかった。その事実はソル自身も察していた。
ソルの恋情が発露するようになったのは三年前にリンが一級魔獣を討伐してからだ。あの事件で現場に駆けつけた騎士団の中には、偶然訓練場に居合わせ周囲の反対を押し切って強引についてきたソルの姿もあった。彼もまたリンが魔獣を討伐する瞬間を目の当たりにした一人だった。それ以降ソルの瞳には憧れによく似た輝きが含まれるようになった。
ソルが御前試合を提案し、自分が勝利すれば告白を受け入れてほしいと告げたのは、もしかすると己が負けることを見越した上で胸の内に秘めた想いに区切りをつけたかったのではないかとリンは推測していた。
リンは御前試合の後から、ふとした拍子に自身の恋愛観について考えるようになった。
自分は何に惹かれるのか。どんな男性であれば異性として愛せるのか。
思考を重ねても具体性のないもやもやとした何かが頭の中に散るばかり。
結局、リンは結論を出すのを諦めた。
「何にでも全力を尽くすアンタが恋愛だけはお手上げか」
「私が何事にも全力で取り組んできたのは、自分の目の前に課題があって、その課題をクリアできる実力があって、実行するのを躊躇う理由がなかった。やるからには妥協したくない――それだけの話です。勿論人のため国のために行動するのは貴族として当然の責務と思っていますし、倫理観や道徳心も根底にありますよ」
「今の時代に貴族の責務なんて真面目に口にするのはアンタくらいよ。平民のアタシが言えることじゃないけど。で、恋愛には全力を尽くす価値がないってこと?」
「そうする意義を見出せないと言った方が正確ですね」
リンは己の持ちうる能力の全てについて如何にすれば効率よく最大限に発揮できるか追求し続けてきた。
彼女にとって“効率よく最大限”とは自身と家族、友人、利害関係者を含めた社会全体の利益を意味しており、個人の主観から始まり個人の利益に終わる恋愛に活かすという発想は微塵もなかった。
「ふーん、成程」
マオは葡萄ジュースが注がれたグラスを持ち、ゆらゆらと揺らした。
「何一人で納得しているんです?」
「リンが恋愛に興味ない理由が分かった気がする。アンタは“対等な相手”を求めてるのよ」
「……?」
リンはマオの言葉を咀嚼しようとしたができなかった。
「だってアンタのやることについていける人間っている? 興味を持ってちょっかいかけてくる奴は何人かいたけど、アンタのやることを目にしたら皆逃げていったでしょ。アタシみたいに付き合いの長い奴だって“アンタはそういう人間だから仕方ない”って諦め半分で受け入れてるのがほとんどよ。アンタはそれを無意識に不満に思ってるのよ。自分と並んで一緒に付き合ってくれる人が欲しいって。そして、そんな人がいない現実に失望している」
「……失望」
リンには現状に不満を抱えているという自覚はなかった。だが、親友の言葉にはどこか納得のいくものがあった。
過去の行いを称賛されたことは何度もある。心ない噂を囁く者だけでなくリンを評価する者も確かにいた。
しかし、リンを肩を並べて戦う人間は現れなかった。伯爵家の私兵は家臣としての立場を崩さず、親密な間柄を築くまでには至らなかった。
「昔から知ってるアタシから見てもリンは非常識の塊みたいだけど、人間らしさの一つや二つは持ってるわ。寂しいと思うことくらいあるのよ」
その単語は漠然としていたリンの感情をゆっくりと固めていく。
捉えどころのない物が明確な形を獲得するような感覚だった。
「寂しい――そうですね。なんだかしっくりくる気がします」
寂しい。簡単な言葉であるが的確だった。
振り返ると自分は一人で行動するのが当たり前だったと彼女は気づいた。誰かに助けを求めたことなど一度もない。精々事件に巻き込まれた民間人の避難や事が終わった後の始末を任せたくらいだ。それを当然と認識し、変えようという気すら起きなかった。
それは期待しても無駄だと心の奥底で諦観していたからだろうかと、リンは今まで意識したことのなかった己の内面を初めて直視した。
そんなリンの様子を気にすることもなく、マオは料理を口に運んでいた。
「もっとも、リンに並びたてる男がどんな奴かって訊かれると思いつかないのよね」
「そ、そうですね。難しい話はこのあたりにしておきましょう。折角の料理が冷めてしまいます」
「そうそう。熱い内に食べないと勿体ないわ」
リンは思考を打ち切り、目の前に並ぶ料理を堪能することにした。
「それにしても大学の近くにこんな名店があるとは知りませんでした。よく見つけましたね」
「でしょー? 何か良い店はないかと探してたら見つけたの。値は張るけどその分味は格別よ」
マオは店内をゆるりと見回す。店内の席はほとんど埋まっており、二人が来店した頃よりも大きな賑わいを見せている。
《黒い羊》は、リンが在籍するリネス大学から歩いて二十分ほどの場所に看板を出している店である。看板には店の名前が示すとおり黒い毛と金色の瞳を持つ羊が、可愛らしい筆触で描かれていた。
女将のチェルシー・クローバーは、まだ三十にもなっていない健康的で艶やかな白い肌と束ねた金髪が魅力的な女性だ。
快活で聞き上手。気配りもできて働き者。それに加えて人望もあり、店員皆から慕われていた。
そして、人気があるのはチェルシーだけではない。《黒い羊》の従業員には瑞々しさに溢れた娘や精悍な顔つきの青年の姿もあり、そちらを目当てに訪れる客も多い。リンはマオがこの店を贔屓にした理由が好みの若い男目当てであると推測した。
マオが店の入口へ視線を向けた丁度その時、入口の扉が開いた。
「女将さーん、こんばんはー」
扉を引いて店内へ入って来たのは男女の二人組だった。
男はリンと同じくらいの年頃と思われる青年だった。薄茶色の髪に黒い瞳、端正な顔立ちだが幼い印象で、気の抜ける間延びした声の持ち主だ。
女の方は青年よりも少し年上に見え、背筋を真っ直ぐ伸ばして落ち着いた雰囲気を漂わせていた。
「ようこそレイクさん。いつもの部屋が空いていますよ。案内します」
チェルシーは男をよく知っているのか慣れた態度でレイクと連れの女を案内していく。向かう先は店の奥に位置する《黒い羊》唯一の個室だった。
リンは女将と連れ立って歩く男女を特に理由もなく眺めていた。
しかし、マオは男の顔を意外そうに見つめていた。
「……あれ、レイキシリス・ブラウエルじゃない? ここの常連だったのね」
マオが口にした名前はリンにとって意外なものだった。
「ブラウエル? それってブラウエル侯爵家ですか?」
「そうそう、ブラウエル侯爵家の三男のレイキシリスよ。皆はレイクって呼んでる」
ブラウエル侯爵家のことはリンもよく知っていた。
アルトネリア帝国黎明期から続く由緒ある貴族にして法の番人。代々法に携わる者を輩出してきた帝国司法の要。クレファー伯爵家が産業を牽引すると云われるなら、ブラウエル侯爵家は帝国を法の光で照らすと云われる。現侯爵は帝都警察の長官を務めていることで知られていた。
「マオの知り合いですか?」
「何度か会ったことがあるだけ。ていうかアンタ知らない? “道楽レイク”のこと」
「“道楽レイク”?」
マオの口ぶりでは有名らしいと悟ったリンであったが、記憶を辿っても見つけることはできなかった。社交界でブラウエル侯爵家の名が挙がることはたまにあったが、レイキシリスの話は耳にしたことがなかった。
「毎日のように遊び惚けて、あちこちで面倒事を引き起こすブラウエル侯爵家の汚点。軽薄で能天気。あんまりにも素行が悪いから彼の話題は禁忌扱いになっていて、皆口にしないのよね。なんでも侯爵家の本邸から追い出されて、今は別宅で使用人と暮らしてるらしいわ。それに女をとっかえひっかえしてるって噂もあるのよ。今日も綺麗な女性を連れてるわね。身なりからしていいとこのお嬢様って感じねえ」
マオはレイクの後ろを歩く女を観察する。緩いウェーブがかかった金髪と丸眼鏡が特徴的で、白いコートと赤い石が填め込まれたブレスレットが上品さを醸し出している。いかにも良家の令嬢といった装いだ。
「面倒事を起こすとは具体的には?」
「噂だから確かなことは分からないけど……いかがわしい連中からヤバい品を買ったとか、ごろつきから追われていたとか、どこかの金持ちの家に上がり込んで高価な骨董品を脅し取っていったとか」
リンは溜息を吐いた。
「信憑性に欠けますね。謹厳実直で名高いブラウエル侯爵がそのような行いを諫めず見逃していると? 侯爵の誠実さは父も褒めていましたし、そんな方の息子が悪事に手を染めているとは考えられませんね」
リンはレイクの所業が事実なら侯爵が手を打たないはずがないと考えた。ブラウエル侯爵家の家名は重く、そこに泥を塗るような真似を許すことはあり得ないからだ。噂が事実ならとうに侯爵はレイクを処分しているだろう。
(悪い噂――他人事ではありませんね)
リンは父親の忠告を思い出し、内心の自嘲を悟られないように努めた。
リンが考え事をしている間にチェルシーがリンの席の横を通り過ぎていく。
後ろからついてくるレイクがテーブルの傍まで寄った時、彼は意外そうに眉を上げた。
「あれ、マオじゃないか。君もこの店を知っていたんだね」
レイクはマオの存在に気づくと微笑みを見せた。端正な顔立ちが甘く歪む。確かに女性に好まれそうだとリンは思った。
「久しぶりね。最近この店見つけたのよ。アンタこの店の常連だったの?」
「まあね。ここの料理は絶品だよ。あと女将も美人だし」
会話を交わす二人の間に不穏な空気はない。マオ自身もレイクの噂を真に受けているわけではないことが窺えた。
「そっちの子は初めて見るね。君の友達?」
レイクの視線がリンへと向けられる。興味本位で訊ねるかのような口ぶりだった。
だが、一瞬その瞳が鋭く細められたのをリンは見逃さなかった。それは注意深く見ていなければ気づけないほどほんの僅かな時間のことだった。
自分を見定めるような眼差しを直視した時、リンは身体に小さく電流が走ったような感覚に陥った。
「そうよ。言っておくけど命が惜しければこの子だけは口説かないことね。マジで死ぬかもしれないから」
「おっと、それは怖いね。女性関係で死にそうになったことは何回かあるけど、好き好んで経験するもんじゃない。御忠告に従うよ」
「それが賢い選択よ。リンもこいつに口説かれたら遠慮なく殴り飛ばしていいわよ」
マオはリンにそう告げると、無言でレイクを威嚇した。
レイクは苦笑しつつ片目を瞑った。
「それじゃあお嬢様方、良い夜を」
そう言い残してレイクは女性を連れて去っていった。
リンは深呼吸した。
「……どことなく不思議な方でしたね。悪い人には思えません」
「そう? まあアタシも嫌いじゃないけど。どっちにしてもリンと馬が合うとは思えないわね」
リンはマオの言葉に反応することなく、レイクの後ろ姿が見えなくなるまで見続けていた。
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