さよなら貴方、また来て明日。

立藤夕貴

第1話 涙こぼれて

 何もかもが億劫で、もう疲れたなとぼんやりと思った。

 ホームドアがない駅がやけに開放的に見えた。視線を上げると電車がホームに訪れることを告げる電光掲示板が目に入る。 遠くからぱあんと鋭い警笛が耳をいた。


朝倉あさくらさん!」


 勢いよく腕を引っ張られ、私の体は否応なしに傾いた。誰かに体を受け止められたと思った途端、何かが止まることなく日常を駆け抜けていく。


「大丈夫ですか?」


 事態が飲み込めないまま、私は声がしてきた頭上に視線を送る。

 そこにいたのは見慣れた顔の青年。黒い髪は少し前髪が伸びていて眼鏡にかかっている。いつも柔和な顔が今はひどく強張っていた。


井深いぶかくん」


 彼は私――朝倉あさくらまいの同期であり、同僚でもある井深くんだ。視線が合ってようやく彼は表情を崩し、ほっとしたように息をついた。


「何ともありませんか?」

「え、ああ……。うん……」

「声をかけても全然気づいてもらえなくて。びっくりしました」

「……ご、ごめん。迷惑かけて。ボーッとしてて」


 ようやくその時になって、自分が何をしでかそうとしていたのか気づいた。体がすっと芯から冷える。私はハッとして身を離し、取り繕うように笑った。


「そ、それにしても、まだここらへんにいたんだ。びっくりしちゃった」


 残業はあったものの、彼は早めに退勤したはずだ。疑問を汲み取った井深くんは歯切れの悪い返事をした。


「今日は早く上がったし、金曜日だから……。金井さんとちょっと飲んでたんですよ」

「そっか」


 近場の居酒屋で二人で飲んでいたのだろうか。それこそ、と投げられた言葉に気がついて視線を向けると井深くんが眉を潜めていた。


「朝倉さん、今帰りなんですか?」

「ああ、うん……。定時ちょっと前にクライアントから修正依頼が来て。入稿日も近いし、修正しておきたくて」


 時計が指し示すのは二十二時を少し過ぎたところだ。

 私たちは小さいデザイン会社のデザイナーとして働いている。入稿前は修正で慌ただしくなるし、師走ということもあって忙しさに拍車をかけていた。井深くんはわずかに間を空けてから私に尋ねた。


「ちょっと飲みに行きませんか? 朝倉さんがよければなんですけど」

「え? でも、帰るところなんじゃ……」

「僕は構いませんよ。それにご飯は食べたんですか?」


 現実が舞い戻って来て空腹を思い出す。仕事にかまけていて何も食べていなかった。迷惑をかけたことも居た堪れなくて、私は恐る恐る返事をした。


「じゃあ、少し……」


 返事を聞いて井深くんはホッとしたように笑った。どこに行きましょうか、と言いながら携帯電話をいじり始めた井深くんを私はぼんやりと見遣る。私の頭ひとつ分は背が高いけれど威圧感はなく、笑うと柔らかい雰囲気に包まれるのが不思議だ。


「ここなんかどうですか」


 そんなことを考えているうちに、携帯電話の画面が向けられる。候補に上がったのは数個隣の駅にある居酒屋ダイニングらしい。大丈夫と返し、二人でホームに滑り込んできた電車に乗り込んだ。


 街は煌々と光を放っていてまだ眠る気配がない。金曜日とあって人は多いが、目的のお店はモダンで女性も立ち寄りやすそうだった。半個室の四人がけのテーブルに案内されて早速注文をすませる。お酒と美味しい料理が届いて、少しお酒が回ってきたかなと思ったところだった。


「……朝倉さん、何かあったんですか?」

「ううん、何も」

「何もない人が、あんなことするわけないじゃないですか」


 井深くんの指摘はもっともだった。私は反論できないまま、梅サワーが入ったグラスを撫でる。つうと、グラスから雫が流れ落ちていった。


「仕事が忙しくて大変なんですか? もしあれば、できること回してください」

「井深くんくんはやる仕事が違うでしょう?」


 井深くんの提案に私は苦笑を浮かべる。

 井深くんはデザイン業務の中で映像を担当している。いくら同じデザイナー職とはいえ、業務内容が違うのだ。もし簡単な作業を頼めたとしても彼もやるべき業務は多いし、むしろ映像特有の煩雑さもある。そう簡単に声をかけられるものではない。


「とか言いながら、雑用とか引き受けてるじゃないですか。……ろくに手伝えていない俺が言えた立場じゃないですけど」


 井深くんは居心地悪そうに視線を落とした。そんなところを見ていてくれたのかと思うと、重苦しかった心が少し軽くなった。何も悪いことなどしていないのに肩を落とす彼を見て私は笑う。


「大丈夫、仕事のことじゃないから。大変だけど、なんだかんだ言って好きだし」

「じゃあ、どうして?」


 井深くんは追及をやめない。どうしようかと躊躇っているうちに、彼は静かに問いかけてきた。


「差し支えなければ話してくれませんか。話せば少しは気が晴れるかも……」


 どこか懇願するような視線。すでに醜態を晒してしまったあとだ。それにはぐらかし続けるほど心配をかけさせることになるとも思った。

 私は努めて明るく笑う。声は思った以上に明るく軽やかに口から転げ出た。


「前の日曜日に三年付き合ってた彼氏にふられたの。なんでも、好きな人がいるんだって」

「……は?」

「しかもね、こっそり会ってたみたい。ねえ、呆れちゃうよね。気づかなかった私も、そんな彼も。結婚の話もしてたのにさ。こういうのって漫画とかドラマの話だと思ってたのに、本当に――」


 そこで不意に言葉は途切れた。

 声がその先一つも出てこない。知らぬ間に俯いてしまっていた。

 どうしよう。このまま何も言えないままではダメだ。いや、もうとっくに手遅れなのはわかっている。けれど、これを有耶無耶にしなければ、元恋人に未練があると認めていることになる。振り絞って出てきた声は思っていた以上に揺らいでしまった。


「とか、そんなこと……よくある話だよね。迷惑をかけて、本当にごめ……」


 はあという大きなため息が聞こえてきて、体が嫌に強張る。いつの間にか、井深くんはグラスの口を両手で覆い、深く項垂れていた。

 彼にふられたぐらいで希死念慮を抱いたなんて、絶対に面倒な奴だと思われた。さっと血の気が引く。


「ご、ごめん。本当、くだらないことで振り回して――」

「人としてどうかしてる」


 投げ放たれた言葉で私は一切の動きを止めた。次いで唐突に井深くんが伏せていた顔を勢いよく上げる。

 眼鏡越しの瞳が静かに私の目を見据えていた。何を言われるのかと、緊張と恐怖から喉が渇く。


「そんな人のこと、忘れましょう。今すぐ、この場所で跡形もなく」


 放たれた言葉が思い描いていたものとは違い、私は目を白黒させる。話していることがいつになく不穏だ。柔和な彼には似合わなくて不思議と笑みが零れてしまう。


「井深くん、そんな過激なこと言うんだ」

「全然過激じゃないですよ。生温いです」


 熱いお酒でも欲しいですね、と言って井深くんは電子パネルを操作する。どうやら熱燗あつかんを頼むらしい。何か言わなければと思ったが、結局いい言葉も思いつかず、私は取り皿に残っていたカルパッチョを細々とつまんだ。


「こちら、熱燗です」

「ありがとうございます」


 井深くんが運ばれてきた熱燗を受け取る。お猪口が二つあるのを見て、私はおずおずと声をかけた。


「え、あの」

「一口どうですか? 日本酒いけるなら」


 ふわりと笑って差し出されたお猪口ちょこ。無理はしなくていいですよと彼は言う。日本酒なんてほぼ飲んだことがない。それでもせっかくなら甘えてみたくて、私は一杯だけもらうことにした。

 徳利とっくりから注がれる少し熱めの酒。口に含むと、きゅっと引き締まった辛味が口と喉を刺激する。


「辛っ」

「はは、熱燗になると辛味が増しますよね。朝倉さんには、ぬる燗の方がよかったかもしれない――」


 じわりと視界が歪み、ぽたりぽたりと雫が机に落ちる。


「朝倉さん」

「ごめん、なさい」


 止めたいのに止めどもなく涙と嗚咽が溢れていく。

 留めていた思いが、様々に積み重なった日々が。底に沈殿していた澱みが濁流となって、コップから溢れるように流れ落ちていく。


「私、仕事もろくにできなくて、みんなに迷惑かけて。毎日がいっぱいいっぱいでくたくたで。愛想も尽かされて、一人になって。だめだ、私……。もう、何にもないよ……」

「そんなことないですよ」


 気を使ってかけられる言葉が今は苦しくて仕方がない。それでも彼は言葉を連ねるのをやめない。


「朝倉さん。いらないものは捨てましょう。ほら、断捨離ってやつです」

「断、捨離……」


「叔父がよく言っていました。『手放せばその隙間にいい縁がやってくる。しかるべきように縁は訪れて離れていくから、離れていったものに必要以上にこだわることはない』って。昔は何のことだかさっぱりだったんですけど、今は少しわかる気がします。苦しい思いを起こさせる人を、わざわざ心に残しておく必要はないんですよ。時間がもったいないですから」


 ふっと浮かべた井深くんの笑顔に憂いが見えた。当然のことだけれど、自分が知らない時間を思い知らさたようで、彼を遠く感じた。


「楽しいもので満たしましょう。縁も思い出も」

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