タコイ族の少女マチ

松岡蒼士

第1話 プロローグ 不本意な逃亡

 鬱蒼と茂る森の中を、少女が肩までかかる黒髪を振り乱し、必

死の形相で駆けている。

 

 少女が履いている皮靴は泥でまみれ、小麦色の肌も汗でまみれ

、身に纏った橙色の貫頭衣も枝木で傷つき破れている。

 蔦や伸びたつるに足を取られながらも、少女の両足が本能的に

働き転倒を回避している。

 倒れることは死を意味すると、五体が理解しているからだ。


「――ッ」

 

 極限の緊張と疲労で息切れをして倒れそうだが堪える。

 狂暴な生き物が数体、彼女を追いかけまわしていたのだ。

 ずらりと生えた長い牙と太く鋭い爪を持った、突き出た頭部か

ら尻尾まで灰色の毛に包まれた四足獣である。

 

 少女の倍の体躯を持つソレはけたましい咆哮で威圧するも、彼

女は怯えを押し込め、振り返らずに快足をとばして走り続ける。

 夜は深い眠りにつき大人しくなるこの生物が激怒し、彼女を追

っている理由は、少女が走っている途中に尻尾を踏んでしまった

からである。

 

 現在は真夜中をとうに過ぎた頃だが、それでも森の中は暗くて

前が見えにくいのだから仕方がない。

 幸いにも獣が活発に活動する日中ではないため、動きが多少鈍

いのが救いだった。


(どうしてっ。どうしてどうしてこんなことに!)

 

 涙を抑えきれなくなった彼女は、好き好んで死の森を疾走して

いるわけではない。

 家族を、友人を、隣人を、彼女を取り巻く全ての世界が邪悪な

心を持ったある者達によって引き裂かれてしまったからだ。

 愛する者を救うため、彼女は絶望の淵から脱した。


(いい加減しつこい! 踏んだあたしが悪いんだけどさッ)

 

 首に付けた虹色の連珠が白く輝きだし、続けて少女自身も白い

光を帯びる。

 右手を後方から迫る獣に翳した。

 掌の先が小さく爆ぜる。

 赤く細長い瞳で少女を捉える獣へ、反撃する手段を身に宿して

いた。


(これでもくらえ――ッ)

 

 その異能で追い払おうとするも――


(あッ!? ダメだ、あいつらに気がつかれるッ)

 

 行使することを慌てて止めた。

 上空。針葉の木の上を旋回する異形の翼竜が吠声を轟かせていた。

 手綱を握った銀鎧の者が操っているのだ。

 彼女の故郷を滅茶苦茶にした者の一人であり、明らかに彼女を

探していた。

 

 空と陸。二方からの脅威が迫る。

 ここで見つかるわけにはいかない。

 少女は翳した右手をおろし、残る力を振り絞って両足の回転を

あげた。


(ルイ、絶対に後で生きて会うんだから頑張れッ)

 

 この広大で危険な森で同様に駆けているはずの親友と合流し、


(ナナ、どうか無事で)

 

 故郷を襲撃してきた元凶に攫われた妹を助け、


(父さん、里の皆、待っててね。絶対助けに戻るから!)

 

 残された者達を救うと決めた彼女は、


「箱を、メギドの箱も必ず取り戻さないとッ」

 

 叫ぶ。

 自らに課せられた使命を果たなければと、決意を胸にした。

 

 追ってきたはずの獣は諦めたのか、徐々に四足の回転を落とし

た後、各々のテリトリーに引き返したようだ。

 やがて密集した大樹の群れが切れて外の光が見える。

 もはや月光が地平線の彼方へ溶けて、蒼穹に輝く太陽が現れた。 

 

 森が終わる。楽園育ちの彼女にとって、初めて触れる世界だ。

 思わず手を伸ばしたが、木々の間に張られた蜘蛛の巣にかかっ

た。

 これから待ち受けるは、見知らぬ世界での苦難の連続だろう。

 それでも彼女は牢獄から脱したように、異世界へ飛び出した。

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