第35歩 おじさんの現実

骨張った白くて細い腕は、本気で掴めばポキンと折れてしまいそうなほど頼りない。

腕まくりをした朝日課長の周りに人が集まっている。

「昨日インフルエンザのワクチン打ったから腫れちゃってー」と二の腕を見せていた。

左腕が赤く膨らんでいて、「触ると熱いんだよねー」の言葉通り、見ただけでも熱感が伝わってくる。

ほー、とか、はー、とか声を出しながら、周りの部下たちがしげしげと腕を見ていると、木下次長が割り込んできた。

「オレなんか、利き腕に打たれて、あの看護師さんヘタなのかなー、痛かったー、ホント困ったわー。」

と腕を見せる。

むっちりとした白い腕が現れて、ポワンと丸く赤くなっているのを見ると、部下たちはなぜか気恥ずかしくなって目を泳がせた。

木下次長と朝日課長はどちらがより腫れているか、赤いか、熱いかで争っている。

「僕のほうが広範囲で赤いでしょ」

「オレの方が熱いけどな」

いい歳をした大人が長々とそんなやりとりをしているうちに、周りは仕事に戻ってしまった。


二人は事あるごとにどうでもいい事で競いがちだ。

健康診断の結果が悪かった

腰が痛い

汗が出る

スーツにシワが付いた

むせやすい


日常のトホホな出来事でマウントを取り合っている。


「あれ?なんか目がかすむ…疲れ目かなー」

朝日課長が目頭をもみながら呟く。

「あー、オレもなんか、文字が見えにくい」

木下次長が目薬をさす。

このやりとり、今週3度目である。


若いだけが取り柄で素直と失礼を履き違えている牧野が、通りがかりにその会話を聞いた。


「やばいっすね、それ、老眼きてますね。」


途端に木下次長は外していた眼鏡をかけ、「あ、目薬さしたら治ったー。スッキリしたー。」

朝日課長も何度かまばたきをして、「最近スマホ見すぎてたんだよねー。」

白々しく言い訳をする。

どうやら老眼はまだ認めたくないらしい。


「いやいや、お二人とも40こえられてるっしょ、おじさんなんですからあきらめてくださいっす。」


失礼かつ無礼な若者の発言。


朝日課長は悲しそうな顔で木下次長を見つめる。

木下次長は両手で顔を覆う。


「あ、なんかまずかったすか?」

牧野も流石に空気を読んでその場をこっそり立ち去った。


その日の夜、木下次長は自宅で新聞を離しては近づけ、近づけては離し、老眼のチェックをしていた。

「パパちゃん、なんで眼鏡を頭にかけてるの?おじいちゃんみたい!」

愛娘が無邪気にそう話しかけてくる。


木下次長の頭に「おじいちゃんみたい」のフレーズがぐるぐると回った。


自分でもおじさんなのは分かっている。それは受け入れている。

でもこれだけはなぜか、笑い話にできそうもない。

木下次長は新聞を置き、目を閉じると、ゆっくりとソファーに体を沈めた。

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