そこにはかつて壁があった。西と東を分ける壁だ。先の大戦で同盟が連合軍に負け、盟主であった帝国には連合国軍が進駐することになった。問題は、その時すでに連合国の間にも亀裂が入っていたことだ。共通の敵がいなくなった途端、同士討ちを始めたのである。旧帝国の東側にはS連邦が、西側にはE国、F国、A国のグループが暫定統治を敷き、私たちの祖国は分断されてしまった。やっと経済が回復してきても両陣営の政治的対立はますます顕著になり、遂には共同管理下にあったこの首都の中央に、往来を禁ずる壁を築いたのだった。



 ネレと僕が大学で知り合った頃には、壁が建設されてから既に20年が過ぎようとしていた。僕は西側統治の田舎から首都へ出てきた学生で、都会の学生たちの振る舞いに慣れようと必死だった。だから、そんな気概も無いのに誘われて学生運動組織に参加するようになった。戦後も長くなり、西側と東側で異なるイデオロギーの元に生活はしていたが、暮らしは豊かになりつつあった。そうなると人々は自由と尊厳を取り戻したくなる。学生たちはS連邦または条約機構(E国、F国、A国のグループ)の影響下にある大学経営陣を批判し、完全自治の回復と、東西の再統合を求めて抗議行動を組織し、警察と衝突した。多くの講義がストライキされ、教授たちは暴行を恐れて外出せず、僕は学問をしにきたはずなのに手持ち無沙汰になってしまった。学生運動組織に参加しているといったって、一部の声の大きいものが仕切っているので、僕のようなにはせいぜい活動資金の工面というような適当な指示が降りてくるに過ぎない。若かったが非力で内向的だった僕は鬱屈して図書館に篭り、日がな一日を過ごしているうちに、ネレに出会ったのだった。


 ネレはもの静かな女学生だった。今ほど女性の学生が多くない時代で、好奇の目を避けて本を読み文を書いていた。両親を手伝って内職もしているようでいつも忙しく、けれどその橙色の髪がほつれてかかる頬の、ほんのり染まって微笑む様子が、とても魅力的だった。僕たちは薄いコーヒーがすっかり冷めてしまうまで、好きな小説や詩のはなしに夢中になった。けれどネレは、組織の学生たちにも警察にも知られた存在だったのらしい。強硬派であるとマークされていたのだ。ネレの叔母に当たる女性は、ある日突然壁の建設が始まって引き離された恋人に会うため、壁越えをしようとして射殺された。壁ができたばかりの頃は随分多くの人々がよじ登って向こう側へ行こうとしたらしいが、ほとんどが警備兵に捕まって懲役にされるか、振り切れば射殺された。今でも時々ニュースになる。そればかりでなく、東側と密通したかどで情報局に連れていかれる人々も日々いるはずだが、こういった繰り返し細々と続けられる暴虐というものは、日常から見えなくなり、人々も自分とは関係無いと錯覚し始めるので質が悪い。


 だから、ネレがエーデル川に屍体として浮いたのも、連中からしてみれば些末な問題を片付けたに過ぎなかったのかもしれない。学生運動の強硬派グループは、ネレを悲劇のヒロインみたいな旗印にしようとしているようだったし、噂ではネレは強硬派リーダーの愛人兼ブレーンのようなことをしていたのだという。そんなことはどうでもいい、僕は参列者の少ないネレの葬儀で、やっと買うことのできた百合の花一輪を棺に置きながら震えた。どいつもこいつも自分のためにネレを利用しようとして、本当の彼女を見ようとした者などいたのだろうか。己れを含めて。そして涙に濁った目の前へと降り立ったのだ。鉄槌ハンマーを携えた天使が−天使となったネレが。


 純白の羽を伸ばし、髪は燃えるように輝き靡いて、そばかすの有った肌は青白く艶めき、あおく憂いを帯びていた瞳は、水晶のように何も映していない。身の丈ほどもあるつかを振りかざし、最初にのは、僕の傍らにいた父親だった。一瞬何が起こったのか分からず呆然と立ちつくしていた僕たちは、母親の悲鳴で我に返った。

「その男は、情報局と通じている上司に娘を売った」

 天使は天上の喇叭ラッパが響くように、透明な厳かな声で言った。父親はほとんど歯が折れてしまったであろう血まみれの口をぞりぞりと動かして何か言おうとしていたが、やがて血の泡を吹いて気を失った。きっと辞めさせられるような圧力をかけられたのだろう。この国の会社組織とはそういうものなのだ。次にのは母親だった。

「子供たちに仕事をさせながら、隠れて男と遊び歩いていたな」

 紅い染みを撒き散らしながら地面を這って、母親は泣き叫んだ。こんな場所にこんな時代に生まれたせいで、仕事に家庭に辛いことばかりだ、私だってちょっとは楽しんだっていいだろう、A国やF国の女たちを見てみろ、不公平じゃないか……。天使は何の感慨も無いように、美しい翼をはためかせると、墓地から飛び去った。僕は慌てて救急車を呼びに走り、ネレの弟妹たちに付き添って両親を病院へと運んだ。


 病院から出てくると、市中が騒然としていた。情報局の建物に警察の車が集まっており、路上封鎖で人々が右往左往している。遠巻きにしか見えないが、野次馬の山をかき分けてレッドテープぎりぎりまで近づくと、塀で囲まれた建物から微かに物が割れる音や悲鳴が聞こえてきた。建物の中で無差別に情報局員を襲っている奴がいるらしいぞ、と傍らで話している声が耳に入る。血と嗚咽で充満した建物は禍々しく、警察も凶手が何者か分からないので立ち入ることができない。やがて屋上に姿を現したのは、やはり血染めのローブを纏った天使だった。夕日を受けて黄金に輝くさまは美しく、警察も群衆も息を呑んで見惚れていたが、その宣告は壮絶なものだった。

「私は、この罪の連鎖を断ち切るために鉄槌ハンマーを賜った」

 ふわりと軽やかに地面へ降りると、恐怖と畏怖で動けなくなっていた警官たちを薙ぎ倒し、装甲車を叩き潰す。

「己れに罪有りと思う者は心得よ」

 人々は恐慌とともに一斉に逃げ出した。僕は怒声と人波に押しやられながら、必死に天使へ手を伸ばそうとした。ネレ、どうして君がこんなことをしなきゃならない。きっと僕は本当の君を理解していなかったんだろうけれど、暴力に抗うことができるのも、人間だからだと言っていたのに。見下ろす天使は、暗がりゆく空の雲からの残照を受けて、笑ったようだった。


 天使に人の武器は届かず、また天使は眠らない。次に天使が出現したのは大学で、経営陣と学生運動組織幹部たちの前頭を叩き割ったらしい。キャンパスは血飛沫に塗れてエリカが一面咲いているかに見えた。次は条約機構の駐留軍基地、刑務所、通関、新聞社もラジオ局もぶっ壊されて報道できなくなり、遂に西側政府の要人たちも病院送りになった。首相は首都戒厳令を公布するための記者会見で串刺しにされた。首相のどてっ腹から鉄槌の先が飛び出しているさまは、まるで残酷で滑稽な人形劇のようだった。それでも条約機構は沽券にかけて情報統制し、東側へ救援を求めることを拒んだ。市民は首都から地方へ疎開し、または管理の手が足りなくなった関所を突破し、壁を登って東側へと逃げ出した。大戦での空襲にも耐え、往時の豪奢で美麗な街並みを残してきた旧帝国首都の西側は、人の気配を失ってただ血の臭いと煤ぼこりの沈澱した遺跡のようになってしまった。留まっているのは病人と怪我人と身寄りのない者と、僕と天使だけだった。



 僕は疲れ果てていた。逃げるつもりはなかったが、傷ついている人々を見続けるのは神経がすり減っていく。身体の痛みにも、心の痛みにも、慣れることなどない。血が流れ出すように、感情も流れ出していくに過ぎない。とぼとぼと人気の無い道を歩いていくと、壁の上に天使が座っているのが見えた。水晶の瞳は何を映しているのか分からなかったが、彼女はこちらを向いた。ネレ、僕は名前を呼んで耐えきれず泣いた。君を助けられなかった僕を罰してくれ、みんながみんなそうやって他人に罪をなすりつける、保身のために見て見ぬ振りをして、個人の利益だけを囲おうとする社会はそれ自体が罪深い、僕たちはみんな罪人だ、そうなんだろう。抜けるような晴天を背に、天使は立ち上がった。僕をじっと見つめると、抱えていた鉄槌を、壁の上から放ってよこした。僕はその巨大さと重さによろけて下敷きになり、脆い肋骨が折れる音がした。地面にひっくり返り圧迫感に気が遠くなっていく。その眩しく閉じていく視界に、覆い被さるように天使が近づいた。羽が優しく僕を包み込むようだった。

「そうだ。そして私の罪は諦めたことだ。お前に託して」



 天使は去り、僕は鉄槌で壁を打ち始めた。西側の兵士たちはもはや天使の鉄槌を恐れて僕に近づかず、隠れていた人々も集まってきて素手で一緒に黙々と掘り出した。東側でも西側の異状に気付き、怒りの群衆が東側警備兵たちを追い払って壁を押しにかかった。やがて壁は崩れ落ちた。

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