卒業写真
見咲影弥
上
朝から階下が騒がしい。何の遠慮もなしに床板を軋ませながら歩く阿呆に舌打ちをかました。お陰で最悪な目覚めだ。うるさい足音の正体には察しがついていた。というかあいつしかいない。
自室から出て、眩しい陽の光をいっぱいに浴びる。太陽が高い位置に昇っていたので、もう朝ではなくって昼なのだと気づいた。一階に降りると、案の定音の正体は奴だった。
「あ、起きてたんだ」
彼女は僕の姿を認めるなり言った。小言の一つでも言ってやろうかと思ったけれど、どうせ返り討ちにされるだけなのでやめにした。ただ黙っているのも癪なのでそれとなく言ってみることにした。
「朝からどうしてそんなにバタバタしてるの」
極力、棘の立たないような言い方を心がけたつもりだった。だが、その方法は失敗したみたいだった。
「何か文句でもある?」
と苛ついたように逆質問された。いや別に、と口籠ると、彼女は態とらしい溜息を吐いて
「昨日も言ったんですけど。これから友達と卒業旅行なの。そのための荷物確認」
と厭味ったらしく言った。へぇ、と僕が彼女の態度に面食らって薄いリアクションをとると
「聞いといて何よ、それ」
とまた非難されたので慌てて
「いやいや、そっかー、おまえももう卒業なのかーって思って」
と言うと
「そりゃ、あんたと三年違いだから卒業に決まってるでしょ。ほんとにあんたって他人のことに興味ないんだね」
と言われ、追い打ちをかけるように、サイテー、と加えられた。そっかそっか、ふぅん、とあくまで平静を装ってにこやかに接してはいたものの、内心、お前のことなんか知るかよばーかと毒づいていた。
「どこに行くんだ?」
「それも昨日聞いてきたじゃん。どうしてそんなことまであんたに伝えとかなきゃいけないの。先に言っとくけどあんたにお土産とか買わないから」
分かってるっつーの。そのくらい。くそが。――勿論言葉には出さない。胸のうちにとどめておく。案外、アンガーマネジメントとやらができているのかもしれない。
「それじゃあたし、そろそろ行ってくるから」
準備が整ったのか、彼女は荷物を抱えて玄関の方に向かう。その途中で、あ、と立ち止まる。
「ヘアアイロン、入れてない」
彼女が既に大荷物を抱えた状態だったので、気を利かせて
「僕が取ってきてやろうか」
と言ったのだが、結構です、と一蹴された。
「勝手にひとの部屋に入ろうとしないでよ。きもちわるぅ、変態かよ」
と散々な言われよう。なんだよ。折角おまえみたいなどうしようもない奴にも優しさの限りを尽くしてやろうとしているのに。
彼女はさっさと忘れ物を持ってきて、ただでさえパンパンの鞄に強引に詰め込んだ。それから、僕の方を見ないまま、
「パパは懇親会、ママはパートで夜遅いって。適当にご飯作って食べといてって、台所のメモにも書いてるから」
と淡々と告げる。
「いいよね、あんたは暇で」
おまえも暇だろ。それに僕はれっきとした大学生だ。一応勉学に励んでいる、そこそこ忙しい部類に入る。言いたいことは山程あるけど、ここで反論したっていいことはないので適当に作り笑いをしておいた。
「じゃ、鍵閉めといて」
彼女は僕を一瞥して玄関のドアを開ける。楽しんできて、と言い終える前に、扉は乱暴に閉ざされた。何だよ、と舌打ちして、内側からロックをかける。何だよ、ほんとに。
妹の冷淡な態度は今に始まったことではない。多分彼女が高校に上がった頃から、僕に対する風当たりが強くなった。反抗期と言われたらそれまでなのだが、実の兄、しかも三歳上と大して年の差の離れていない兄をここまで毛嫌いするものなのか甚だ疑問である。こういうのは大抵親父が被害に遭うものだとばかり思っていたのだが、うちに限っては違うみたいだった。
僕が彼女の逆鱗に触れるようなことを口にしてしまったからなのか、将又生理的な嫌悪感情を拗らせてしまったからなのか、理由は分からない。まぁしかし、実際僕は軽蔑に値する人間である。粗雑な扱いを受けても何ら問題ない人間である。それに、妹とは普段から大して接触があるわけでもない。特に気にすることではないのだ。
台所のメモを見ると、僕宛ての伝言がいくつか箇条書きで並んでいた。内容を把握してからゴミ箱に丸めて捨てる。中身は先程妹が言っていたこととほぼ同じだった。冷蔵庫からエナジィドリンクを取り出して、一気に飲む。半日惰眠貪っていたせいか水分不足だ。やけに喉が渇いていた。とは言え、無謀なことはできっこなく、半分まで飲んだところで炭酸がキツくなってやめにした。はぁ、と息を吐き出し、気づけば、口を衝いていた。
「卒業旅行かー」
いいなぁ、卒業旅行。柄にもなく、羨ましいと思ってしまった。いいなぁ、とまた呟いた。あぁそういえば――あれから、三年が経つというのか。早いものだ。自分のことながらそう感じる。そして、あの頃と何ら変わらない、寧ろ悪化の一途を辿っている己に嫌気が差す。あーあ。何なんだろうね。この虚しさは。哀れで、愚かで、無様で。そうだ、僕もしようかしら、卒業旅行。
「人生卒業旅行、とか」
やってみたいもんだ、鈍色の腐った人生に終止符を打つための儀式。自分で言って、面白くなって、自分で嘲笑ってやった。
そんなくだらないことを考えた後。ふと思い立ってアルバムを見てみることにした。あの頃のことが懐かしくなったのだ。たまにはこうやって過去を振り返ってみるのも、悪くないか、と思った。冊子を覆う埃を手で払い、ページを捲る。
卒業写真のページには、見覚えのある人たちが笑顔で写っていた。とびっきりの笑顔もいれば、シャイで控えめな微笑みの奴も、真顔の奴もいる。あいつら、今頃どうしてるかな、元気にしてるかな、とあの頃のことを思い起こしながら一枚、一枚と捲っていく。
僕のクラスのページを開いたときだ。あぁこれは、と思わず声を出してしまった。僕の写真自体は何ともないのだ。いつも通りの気持ち悪い貼り付けた笑みをした奴がいる。問題は、僕の斜め下の人物である。こいつが誰なのか、分からなくなっているのだ。どういうことかというと、総て油性ペンか何かで塗り潰されてしまっているのだ。顔も、名前も。びっちり。真っ黒に。何やら執念のようなものまで感じた。服まで黒で塗り込んでいて、男女を判別することさえ難しいのだ。
こいつは、あぁ……でも――
僕は知っていた。塗り潰された人の正体も理由も、分かっていた。総て、覚えていた。忘れるわけ、ないじゃないか――。
塗り潰されているのは、高校の頃親しくしていた友人、
あの日のことを思い起こす。
私のこと、忘れないでね。
あの日確かに、彼女はそう言ったのだ。
【続】
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