第4話 婚約者

 その翌日、マリーはトーマスの宿泊先であるクラリッジスホテルを訪ねます。

 原則的に外交儀礼として国家元首が他国の元首を引見するのにホテルが使われることはありえません。

 その例外が許されるほどのホテルがクラリッジスなのです。

 他所行きの服装に身を包んだつもりでしたが、伝統と格式のあるホテルの佇まいにマリーは場違いな気持ちがしました。

 自意識過剰なのかもしれませんが、ドアマンの視線が痛い気がします。


 ロビーで所在なげに佇んでいると、トーマスが現れました。

「ああ。愛しのマリー。変わりはなかったかい?」

 その問いに胸が痛くなりますが、マリーは無理をしてトーマスに笑顔を向けます。

「特に変わりは無いわ。あなたはどうなの?」

「仕事が忙しすぎて少し目を回したぐらいかな。それじゃ、昼食にしよう」


 食事中もトーマスは快活に話をしますが、マリーはそれどころではありません。

 マリーがいつになく反応が悪いことにトーマスは疑念を抱きます。

 そして、何気なく放った一言がマリーの体を震わせるのでした。

「僕が送った指輪はお気に召さなかったかな?」


 ああ、ついにその質問が出てしまったとマリーは考えます。

 それでも、そんなことはおくびにも出さずにトーマスに笑みを返しました。

「そんなことはないわ。とても素敵よ。でも、最近は物騒でしょ。ピット街で殺人事件もあったじゃない。身につけていて強盗に遭ったらと思うと怖いわ」


「ああ。新聞で読んだよ。二束三文の胸像のために人殺しをする者もいるとは恐ろしい世の中だ。考えたくもないが、もしも君が襲われたら、指輪なぞ強盗にくれてやるがいい。君に何かあった方が大変だ」

「でも、折角あなたから頂いたものを粗末にはできないわ。それで今日は身につけてこなかったの。もしかして、気に障ったかしら?」


 トーマスは笑みを浮かべます。

「もちろん、君に会えれば十分だよ。だけど、僕の送ったものを気に入らなかったんじゃないかと気になっただけさ。あの指輪の宝石は単なる石ころだけど、君の指に飾られてこそ輝くんじゃないかと思っているよ」


 トーマスはマリーの手に自らの手を重ねました。

「僕のプレゼントを気に入ってもらえなかったんじゃないかと心がざわめいたけど、そういうことなら仕方ないね。僕ももうちょっと普段使いできるものを選べば良かったよ。でも、あの指輪は君の手に絶対似合うと思ったんだけどなあ」


「そうね。とても素敵な指輪だったわ。でもトーマス、この手を見て。あなたが言うほど綺麗な手じゃないわ」

「そんなことはないよ。働き者の綺麗な手だ。でも、この手は少し酷いね。僕の奥さんになったら、手荒れなんかさせないよ。夫としてそれぐらいはさせて欲しい」

 トーマスはマリーに笑みを向けます。

 マリーはそれに弱々しい笑みを返すのでした。


 今、マリーの心を煩わせている心配事を考えるとせっかくの食事も喉を通りません。

 でも、そのことを気取られないようにとなんとかナイフとフォークを動かします。

 口に運び飲み込みますがちっとも味が分かりませんでした。


 なんとか食事を終えるとトーマスは2人が暮らすことになる屋敷を見に行こうと誘います。

 ホテルを出ると立派な4頭立ての馬車が待ち受けていました。

 御者が恭しくマリーのために馬車の扉を開けます。


 走り出した馬車はハイドパークとケンジントン・ガーデンズを右手に見ながら進みました。

 馬車の中でトーマスは将来のことについて熱弁をふるいます。

 それに対して、マリーはともすれば散逸しがちな気持ちを集中しなければなりませんでした。


 目的地につくと改装中の建物での暮らしについてトーマスは語ります。

「君と一緒に暮らせるようになるのが待ち遠しいよ」

 気がかかりなことがなければマリーも心から楽しんだでしょうが、とてもそんな余裕はありません。


 そして、ついにマリーが恐れていた瞬間がやってきました。

 馬車でマリーの家まで送ってくれたトーマスが、笑顔で尋ねます。

「少し寄っていってもいいだろう? お義父さんにも挨拶がしたいし」

「あの、トーマス。聞いて欲しいの。実は……」


 トーマスが新大陸に出かけてすぐにマリーの父が病に倒れたため、今は店を閉めていること、その治療のために内証が苦しくなっていることを告げました。

 それを聞いたとても驚きます。

「どうして、そのことを手紙で知らせてくれなかったんだ?」

「あなたを心配させたくなくて」


「そんな気をつかう必要など無かったんだよ」

「それで、家に上がってもらってもなんのおもてなしもできないの。小間使いにも暇を出してしまっていて」

「そんなことはいいよ。それよりも直接窮状を見せてくれないか」


 こうなるとマリーも断ることができません。

 トーマスを家の中に招じ入れます。

 以前と比べるとほとんどのものがなくなっており、想像以上の惨状にトーマスは眉をひそめました。


 そして、家の中を歩き回ったトーマスはついにマリーの寝室にも足を踏み入れます。

「まさか、僕が送った指輪を手放したりしてはいないだろうね?」

 マリーはドキリとしました。

「ちゃんと、この書き物机にしまってありますわ」


 何気ないふうを装って、下の引き出しを開けてみせます。

 どうか、これでトーマスが納得してくれますようにと祈りました。

 弱り目に祟り目とはこのことで、実は5日前に空き巣に入られて指輪を盗まれています。


 犯人は捕まったのですが、共犯者が指輪を質入れしており、マリーはまだ取り戻せていませんでした。

 この状態でトーマスに打ち明けても信じてもらえそうにありません。

 きっと、マリーが質入れしたと思うでしょう。

 祈りも空しくトーマスはリングボックスを取り上げます。

「いい機会だから、今身につけてくれないか?」

 そして、パカリと蓋を開けるのでした。

  




 

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