学校前の朝

 その日、月初めにめくったカレンダーの、規則正しく紙に並んだ数字の一つに赤く星形に囲まれた数字があるのを見つけて、ルーノの心は踊った。星の印だ。待ち望んできた日がもうすぐ来る。一緒に住んでいるティア———本当はティアーロというのだけどルーノはティアと呼んでいる———もニコニコ笑って眼鏡を抑えながらカレンダーを覗き込んでいる。


 ティアの眼鏡はよくずり落ちる。


この間行ったとき「サイズが合わないから買い直すべきだ。」って、本屋のおじいさんが言った。


 でも、最初にティアが眼鏡を買ったとき、眼鏡はティアの鼻先に辛うじて引っかかるくらい小さかったのをルーノは覚えている。レンズを覗き込むために、ティアは目をしょぼしょぼ細めていた。


 毎日きっちり鼻にかけていて、気づいたらこんなに大きくなっていたのだ。ルーノの持っている教科書に載っていた『成長期』ってやつだ。こんなに順調に成長している眼鏡を手放して新しい眼鏡を買い直すだなんて酷い!

 無慈悲な人だってティアは怒っていた。


「無慈悲ってどんな意味?」ルーノは聞いた。


「人でなしってこと。」ティアの返事にルーノはぎょっとした。


 その拍子に、うっかり貰った飴を飲み込んだ。いつも通っている本屋のおじいさんは、人間じゃなかったらしい。おじいさんはティアが本を選んでいる退屈な間、カウンターの下からお菓子を取り出してつまみ食いをしているし、一緒に退屈しているルーノにもお菓子をわけてくれるから、てっきり自分と変わらない人間だと思い込んでいた。吸血鬼や狼男が目の前にいる子供よりもお菓子を優先するおとぎ話なんて見た事がないからだ。


「おじいさん、人間じゃないの?」


 どきまぎしながら、ルーノは聞いた。おじいさんは、にやっと笑って新しい飴をくれた。


「でもな、ストゥルタさん。」ストゥルタとはティアの苗字だ。


「これ以上育っちまったら、眼鏡の方だってどうやって貴女の顔に座ったらいいか、わからなくなっちまうよ。それは可哀想だろ。」


 ルーノはティアの顔から今にも落ちそうになっている眼鏡を見上げた。そして、これ以上大きくなって、ドアを通り抜けられずに家に入れなくなった眼鏡が、庭でズルズルとつるを引きずりながらティアを探しているところを想像した。ついでに、そんな眼鏡のつるに乗っかって眼鏡を慰めるルーノの姿も想像した。


「ティアは眼鏡の事嫌いになったわけじゃないんだよ。」


ルーノは眼鏡のフレームのふちを優しくなでる。


「ただ、朝起きたときに眼鏡をかけられなかったから、まだベッドの中にいるんだよ。ティアは目が悪いから、眼鏡が無いとベッドの端がどこにあるか、わかんないんだ。」


 眼鏡って、どこまで大きくなるのだろう。もしかしたら、慰めているルーノの事もわからないほど大きくなってしまうかもしれない。そしたら、誰が眼鏡を慰められるのだろう。うちにはルーノとティアしかいないのに!


「確かに。眼鏡が可哀想だよ。」


ルーノも言った。ティアは顔をしかめた。


「なら、この眼鏡を捨てろって言うの?」ティアは食い下がった。


 でも、なんでわざわざおじいさんが人間じゃないってことをティアは強調したのだろう。

ティアのすることはわからないことだらけだ。きっとルーノが子供だからわからないのだ。

だからといって、早く大人になりたいわけじゃないけど。急ぎ過ぎたら、ルーノも大きくなり過ぎた眼鏡と一緒になって庭でキャンプをしないといけなくなるもの。

あれ、そうしたらルーノが眼鏡をかけてあげられる。いや、だめだ。ルーノの目は眼鏡と仲違いをしている。

それを知らなかった頃、ティアが眼鏡を外していたときにこっそりかけたことがある。目を開けた途端、眼鏡が世界を歪める嫌がらせをしてきたので、ルーノはたちまちひっくり返ってしまった。グネグネに曲がったティアが、ため息をついてルーノに眼鏡を外すように言った。


「ルーノの目は眼鏡が必要じゃないのよ。」


どうやら気づかないうちに、ルーノの目は眼鏡と大喧嘩をしていたようだ。


『あなたなんて必要じゃない!』なんて言葉は、凄まじい喧嘩の末にもう二度と仲直り出来ないような別れ文句でしか聞いた事がない。ルーノの両親のように、よっぽどお互いの事を嫌いにならないかぎり、出てこない言葉だ。


 一体、ルーノの目と眼鏡はいつの間にそんな仲になっていたのだろう。思い返してみれば、鏡を覗いたとき以外にルーノは自分の目を見た事がなかった。右手がフォークを掴んでカリカリのベーコンをお皿からつまみあげている間、目はルーノの顔から飛び出してのんびりと朝の散歩をしていたかもしれない。自分自身の事なのに、どうして今まで知ろうともしなかったのだろう。知っていたら眼鏡の方だって、世界を変える嫌がらせをするほど目の事を嫌いにならなかったかもしれないのに。

後悔したルーノは、鏡を見る時間を増やして毎日目の居場所を確認することに決め、せめて自分だけは眼鏡に優しくしてやることにしたのだ。


「もって三カ月といったところさ。」


おじいさんは穏やかな声で恐ろしい宣告をティアと眼鏡に言った。


「それまでに、眼鏡を成長させている厄介な魔法を解くか、眼鏡を売って新しいのを買うんだね。」


「わかりました。」ティアはため息をついた。


「それまでにこの魔法をどうにかしますよ。でも、魔法をかけた本人に自覚がないから困っちゃう。初めて成功した魔法だから、記念にとっておきたいのだけれど。」


 どうやら、眼鏡は眼鏡自身に魔法をかけているらしい。眼鏡が魔法をかけられるなんて、眼鏡自身もわかっていないに違いない。ティアが眼鏡を弟子にしていたとは知らなかった。でも、眼鏡はルーノよりも優秀な魔法使いみたいだ。ルーノはまだ一度も魔法を成功させたことがないもの。


 昨日ティアがそろそろ本屋に行くと言っていたので、本屋のおじいさんとティアのちょっとした喧嘩は、二ヶ月ちょっと前にあったことになる。ティアは大体二か月半ごとにあそこの本屋に行って魔術書を買う。『75日で極める魔法』というシリーズを愛読しているのだ。

本屋のおじいさんと話したあの日から、ティアとルーノは眼鏡にこれ以上大きくならないようにと毎朝話しかけることにしている。それが功を奏したのか、眼鏡の成長はだんだんと落ち着いてきた。今では、ちょっと下を向いた折にティアがそっと支えないとずり落ちるようになってしまったけれど、庭に放り出さないといけないほど大きくはなりそうにない。


「眼鏡も一緒に星を拾いに行くよね。」


兄弟子として、ルーノはティアの眼鏡に話しかけた。


「もちろん。私、眼鏡がないと星どころか、何の形もわからなくなるもの。」


眼鏡は未だにルーノの目と仲違いの最中で、ルーノとも話をしてくれないけれど、ティアが代わりに話してくれる。


「ぼく、楽しみだな。ねぇ眼鏡、これ以上大きくなったら駄目だよ。ティアが困っちゃう。」

「そうね。落とした眼鏡を探してる間に、星が痛んじゃう。」


ティアはそう言って眉尻を下げた。


「……これから星降りの夜までに、夜の時間が長くなるわ。それに、月も欠けていくから星降りの日は、一日中真っ暗になるの。他にも色々な変化が起こるし、多分、学校は明日からお休みになるわ。今学期の学校は今日で終りね。」

「そうだ、学校。遅れちゃう。」


ルーノは慌ててカリカリのベーコンをフォークでつまんだ。


「友達できた?」

「……まだ。」

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