第9話ウラジミールとアヴェーン

ニキタ・アヴェーンはボリスらの金星への出発後も多忙であった。クーデターによって掌握した数々の軍・政府施設の運用のすべては彼の両肩にかかっている。彼は権力の掌握後も法制度や人事を維持し、混乱の収拾につとめた。さしあたり官僚たちの不平を抑えるための措置であった。もちろん地球の作った統治システムを恒久的に維持するつもりなど毛頭ない。それを壊し新たな秩序を構築することこそ彼の動機であり、目的である。しかしそれは地球から完全な独立を勝ち取ったのちの話であった。ニキタには、同胞の水星人たちを救いたいという崇高な理念などない。彼の駆動力は怒りであり、その志向するところは復讐である。水星を地球以上に発展させ、水星人が知的に劣等であるなどという地球人の蒙昧さをあざ笑うことこそ彼にとっての復讐だった。そんなことをしても少年時代の傷は癒えないなどということは当然知っていた。しかし復讐というのは、その不毛さを知っていても止められないものである。いや復讐を望んで心が救われてきた日々がやめることを許さないのである。暴力と罵声に覆われた日々の彼にとって自らの力で地球支配を覆す妄想は、父親に対する鬱屈とした感情から逃れる唯一の術であった。幼き日の自分を裏切らないために彼はやり遂げなければならない。そのための協力者にボリス・エフレーモフとウラジミール・アシモフを選んだ。前者については、その力量と人格の両面において申し分ない。問題は地球人である点だが平素から水星人と交友しており、案外簡単に引き込むことができた。後者については、彼自身というよりも彼の名声が必要であった。革命に限らず政治活動には旗頭となる人物が必要不可欠である。ウラジミールは抗地球運動の活動家として名声を確立しており、象徴としての役割は十全に果たすだろう。しかしそれ以上のことは彼には期待していないし、できるとも思っていない。つまるところニキタが必要としていたのはウラジミール・アシモフという名の聖者の偶像であった。

 水星駐留軍のおもだった者を集めて今回のクーデターの趣旨を説明すると決定したのは、ボリスが出発してから三日後のことであった。予想以上に軍部の動揺と混乱が大きく、それを収拾する必要があるとニキタが考えたからである。この会合には地球人も水星人も分け隔てなく呼ばれた。地球人のいらない不信を買って、叛乱を誘発するのを防ぐ目的があった。水星駐留軍司令官及び同艦隊司令官を兼任するヴォルコフ中将及び陸戦部隊の師団長カンディンスキー少将の身柄以外の地球人士官の拘束は行っていない。そんなことを行えば、地球人全体から死に物狂いの抵抗を受けるからだ。各陸戦連隊長、各艦群司令、人事局長、工廠局長、通信局長などが、水星司令本部会議室に招集された。あるものはしきりと周囲を見渡し、あるものは指先をせわしなく机に打ちつけ、あるものは黙して下を向いていた。そんな中泰然といすに座って虚空を睨むものがある。第四艦群司令ドミトリー・エイヘンバウム大佐である。彼は白髪の老軍人であり、一兵卒からのたたき上げだ。その長い軍歴と比例する確かな手腕は、水星人でありながら地球人士官にすら認められていた。

「お集まりいただき感謝する。私はニキタ・アヴェーン少佐である。今回の我々の行動は、あくまでヴォルコフ中将及びカンディンスキー少将によるここにいるウラジミール・アシモフ氏への不当な抹殺命令に対抗する手段である。地球人全体へ危害を加えることを目的としたものではない」

 会場の空気が弛緩するのを感じる。カンディンスキーに関しては濡れ衣だが、陸戦師団を完全に掌握するための方便である。もっとも知っていれば、カンディンスキーは諸手を挙げて賛成しただろうとニキタは決めつけていた。

「ただし地球本国政府の水星に対する処置には目に余るものがある。これを機に我々は水星独立政府を設立し、植民地的な支配から完全に脱したいと考えている」

 どよめきがひろがった。ニキタの冷徹なまなざしが一同を貫く。再び静寂が訪れた。

「ただしこの政府は地球人と水星人による共存共栄を企図したものである。どちらの参加も大いに歓迎する」

 地球人の人事局長がおずおずと手を挙げた。ニキタは発言を許可する。

「も、もし君たちに協力しなかったらどうするつもりだ」

「その時は反革命罪で銃殺である。ただし、地球人士官のうち、地球への帰還を希望するものがあるのであれば、我々の独立を地球が承認したのち解放する。その際は地球政府に向けて、貴官らが脅されて協力していたと証明する公文書を発行する」

 これも地球人のサボタージュや妨害を防ぐ術である。つまり解放されたければ、水星を勝利に導く必要がある。

「まて、つけあがるな。脅せば協力するとでも思っているのか」

 鋭い怒声があがった。それは会議室を一声で制圧するのに十分なものであった。一同の注目を集めたドミトリーが機敏に立ち上がり、ニキタにひたひたとにじり寄る。その威圧は並みいる列席者が萎縮するほどのものであったが、威圧された張本人は一切の動揺を見せない。生まれついての鉄仮面のまま淡々と言い放つ。

「貴官がどう解釈しようと自由だが、これはすでに決まったことである」

 その一言に老大佐は一層激した。怒気の炎が瞳に燃え上がる。つかみかかろうとしてか間合いをさらに詰める。氷壁のごとく立ちふさがるニキタがなにか宣告しようとしたとき、それまで事態の推移を見守っていたウラジミールが駆け寄ってきた。

「待ってください。エイヘンバウム大佐、そのようなつもり彼にも私にもありません。私たちはただ水星人と地球人が手を取り合って生きていける社会をつくりたいだけなのです。私の話をすこしきいてください」

 ドミトリーもウラジミールの名にある程度の敬意を持っていたらしい。怒りがくすぶる目をウラジミールに向けてこういった。

「なら君から納得のいく説明があるのかね」

「私たちが立ち上がった理由を知っていただければ、必ず納得していただけると思っています」

そういうとウラジミールは一同に語りかけ始めた。それは一般に演説と呼ばれるものであったが、ありがちな押し付けがましさや聴衆をあおるような響きは全くない。まるで昔話を読み聞かせるかの様にはじまったのである。

まず彼は水星が歩んだ苦難の歴史を語る。デイヴィスによる水星人作出の後、彼らがいかに虐げられたか、地球人がどのように彼らを遇したかを並べた。地球を非難するのではなく、それがいかに悲しく苦難に満ちたものであったかを強調する。そして水星人と地球人が互いに憎しみあう過去と現在に対する悲痛な心境を述べた。ニキタは、周囲を見回す。なるほどエモーショナルな口舌であると評価した。水星人のうち、感情が高ぶりやすいアントーノフなどは涙を流している。しかしそれが老練のドミトリーに通用する手口かは疑問であった。彼は緘黙して、聴衆に徹してはいる。ニキタはいまひとりの陸戦連隊長ヴァシレフスキーに目配せをする。このままドミトリーが怒りを鞘に納めないならば、扉の向こうに控えた陸戦小隊に殺害させるつもりであった。見せしめのためであり、その手腕は惜しいが仕方ない。そもそも反対するものの存在は予期しており、だから武装集団を用意しておいた。

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