第13話 「あと100万回は呼びたいの」



 過去 -ロイ=スリア-


 スルト村は穏やかで標高が高く、自然に恵まれた良い土地だった。

 多くの貴族が華やかな街を楽しんだ後、子育てや老後のために田舎へ移住する。その中でも人気の高い村で、故に財源も食料もあり安定した環境が用意されていた。


「ぱぱ〜!またモナがボクのおもちゃ壊した!殴りたい!!」

「ロイ、オマエ女を殴るとか言ってんじゃねぇ!!」


 しばき倒される小さな少年。

 ロイ=スリアがそこに居た。金髪の癖毛は父であるフォグ=スリア譲りだ。


「うわぁぁぁぁん!殴るなとか言って殴ってきたぁぁぁ!」

「オマエは男だろ、こんくらいガードして殴り返せ!」

「いやだぁぁぁぁぁぁぁぁ暴力反対だぁぁぁぁぁぁ!」

「馬鹿野郎さっき殴るとか言ったのどこのどいつだ!」


 こう見えてフォグの性格は真っ直ぐだった。

 されて嫌な事は他の人にしない。スリア家が大事にしている事だ。


「あのなぁロイ。俺たちは貴族だ。いいか?貴族ってのはそれだけで妬まれるし虐められるんだ。パパのパンチなんて可愛いもんだ。体の痛みは癒えるんだからな」

「うぐっ……言ってる意味分かんないよ」

「分かれ。オマエは聡いんだからな」

「殴ってきたくせに!ばか!」


 それだけ言うとロイは走ってリビングを飛び出した。

 自室に戻ってドアの前で蹲る。目の前には首の折れたブリキ人形が落ちていた。


「なんだよ……ボクは何も悪い事してない。どうしてぶたれるんだ」


 現在、ロイはイヤイヤ期のようにこの世が全員的に見えるお年頃だった。


 一方リビングではフォグがダイニングテーブルの前で少し反省していた。やりすぎてしまったかと考えながら俯いていると、後ろから声がかかる。


「アナタ、もしかしてロイを泣かせたの?殺すわよ」

「ひぃぃぃ母さんそりゃないぜ!」


 振り返ると、美しい金髪の女性がそこにはいた。

 さらさらのストレートヘアに豊満な体型をしたフォグの結婚相手、ミラーゼだ。とても二児の母とは思えない見た目だが、優しい顔に似合わない強烈な言葉遣いでフォグを見る。


「でもな。ロイは優しすぎるんだ。俺が思うにあの子は学校に行き始めたら虐められるだろう。今でも修行をつけているがもっと強く育てなきゃいけない」

「その考えは古いわアナタ。あの子は大丈夫よ」

「母さん……どうしてそう思うんだ?」

「私の子だからよ」

「……ははは。やっぱり凄いな。愛してるよミラーゼ」

「胸を見ながら言わないでくれる?」


 優しい笑顔でミラーゼは返事をした。

 するとトタトタ音がして、柔らかなパーマの少女がやってきた。


「あらモナちゃん。どうしたの?」

「まま、言わなきゃいけない事があるの」


 娘のモナが純粋な瞳でミラーゼを見た。その姿に気づいたフォグが、少し強い口調でモナを叱る。


「こらモナ!オマエお兄ちゃんのおもちゃ壊したんだって?お兄ちゃん怒ってたぞ」

「う……それは違うの」

「何が違うん――」


 ボコォ、と。凄まじい音がした。

 同時にフォグは肺の息を全て出し、膝をつく。ミラーゼの正拳突きが鳩尾にヒットしたのだ。


「アナタ、子供の言葉を聞きなさい」

「ぉご……す、すまない母さん」

「私じゃなくて子供に謝りなさい」

「ご……ごめんなモナ……」


 ギリギリで意識を繋いだフォグが謝ると、モナは申し訳ない表情で俯く。

 しばらくして切り出した。


「ううん。モナが悪いの。ごめんなさい」

「どうしたのかしら?モナちゃん」

「ままに言うつもりだったの。お兄ちゃんの人形、壊しちゃった」

「あら。それはお兄ちゃん悲しむわね。どうしてそんなことをしたの?」


「お兄ちゃん明日誕生日だから、何かしたくて……お兄ちゃん黄色が好きで、色のないブリキの人形に可愛いリボンを巻いてあげようとして……それで……」

「壊しちゃったのね」

「うん。ごめんなさい」


 モナが泣きそうになる姿を見て、フォグは状況を理解した。同時にミラーゼはしゃがみ込んで、モナと視線を合わせる。


「まず、人の大切なものを勝手に触ると相手は悲しい思いをするわよ」

「うん……」

「次に、謝る相手はママだと思う?」

「ううん……お兄ちゃん」

「そうね。偉いわ。よくできました」


 ミラーゼは優しい笑顔でモナを撫でる。


「お兄ちゃんに謝れる?心から謝ればきっと許してくれるわ」

「うん。ちゃんと謝る。ままありがとう」


 そう言うと、早足でモナは子供部屋の方へ行った。

 一連の流れからフォグがミラーゼに感謝を告げる。


「母さんありがとう。やっぱり凄いな」

「凄いのは子供たちよ。自分で理解してとても聡いわ」


「きっと母さんがあれ駄目これ駄目って言葉を使わないから、子供も思考できるのさ」

「それでも子供たちが賢いわ。というかアナタ、そこまで理解できるのにどうして子供の叱り方が古いのかしら」

「まぁー、俺はコレでいいんだよ。教育が向いてなくて、大人に叱られてばっかのポンコツだ」


 フォグが嬉しそうに話すのを、ミラーゼは首を傾げて見ていた。


 トタトタと早足で進むモナが、扉の前でノックをしてロイの部屋のドアノブに手をかけた。その先にはブリキの人形を抱えて涙ぐむロイの姿があった。


「お兄ちゃん」

「……くんなよばか」

「ごめんねお兄ちゃん」

「うるさい!」


 ロイは近くにあったクッションを投げつける。

 コントロールが悪いのか、わざとなのかは不明だがモナには当たらない。モナ自身は、当たらない事を自覚していて微動だにしなかった。


「わざとじゃないの」

「わざとじゃないなら壊してもいいのか!?わざとじゃないなら、大切なものに触れていいのか!?」

「……違うの。喜んでもらいたかったの」

「そんなのボクはいらない!壊される喜びなんて誰も得しないじゃないか!!」

「だから、壊すつもりは無くて……」

「出ていけ、ばか」


 ロイは目を逸らして呟いた。

 モナはもう一度だけ深々と謝ってから、ロイの部屋を後にした。妹のいなくなった部屋で、落ちている黄色いリボンを見つめながらロイは涙ぐむ。


「モナは馬鹿だ。ボクは、もっと馬鹿だ」



××××××××××××××××××××



 その日の夜、ロイはご飯を食べなかった。

 部屋に篭ったきりで、一度も出てくる事はなく家族は3人で食事を楽しんだ。


「ロイのやつ、今日は凄く拗ねてるな」


 フォグが肉を切りながらそう言った。


「明日誕生日なのよ。あの人形と同じシリーズの人形をおねだりしていたから、きっとショックだったのね」

「ごめんなさい……」


「モナは謝ったんだろう?ならあとはロイの問題だ」

「モナちゃんの心からの気持ちを伝えていけば、きっとお兄ちゃんも許してくれるわよ」

「まま、モナのお小遣いでお兄ちゃんにお人形あげたい」

「あらあら、それはいいわね」


 ミラーゼが優しくモナを撫でて、口元についたソースを指で拭った。


「と言ってもモナ、この間野良猫にご飯買っただろ。もうお小遣いないぞ〜」

「なんでもします!ぱぱの肩いちまんかいたたく!」

「それは……幸福極まるな……金貨あげちゃおうかな……」

「アナタ、昔からそんな性格だからモナにまで操作されるのよ?」

「なっ!?コレはモナの戦略だったのか」


「えへへ、ぱぱ単純!」

「うおおおおおお、なんか娘に女性っぽい一面みえて悲しい!」


 遠くへ行かないで〜と涙目でフォグがうねうねする。他愛もない話で食事を終えると、ミラーゼが棚から箱を二つ取り出した。


「じつはねーえ、そんな話も出るんじゃないかと……モナが渡す分の人形も買ってるのです!えっへん」

「本当⁉︎ まますごい、予知能力者みたい!」

「そうよー?ままの予言だと、明日はこれでお兄ちゃんも喜んで……幸せな食卓を囲む事でしょう」

「すごーい!まま本当に二つも人形買ってる‼︎お兄ちゃんきっと喜ぶ!」

「一つだけだと思ったのに、いつの間に二つも?」

「アナタのお小遣いから出させてもらったわ。モナの前借り料として」

「うおおおお、辛辣だ!現実は厳しいんだなあ」


 スリア家は貴族とはいえ、二児を育てるのは大変だ。

 ある程度裕福ではあるが元浪費家のフォグに殆どお小遣いはない。加えて金属人形は値が張る。しばらくはフォグもカフェのコーヒーを水筒に変えなければならないだろう。


「まぁでも、明日はロイに楽しんでもらうために俺たちで頑張ろうな!」

「うん、頑張る!」


「「「えい、えい、おー!」」」


 こうして食事を終えて、家族団欒のひと時を過ごした。


 ――そして悲劇は突然やってくる。


「モナのかち!」

「んお⁉︎ 本気で負けた!」

「――ッ!?」


 お風呂に入り、カードゲームで3人遊んでいた時、ミラーゼは独特の気配を察知した。元々護身術を体得しているのもあり、小さな異変に気付くのがフォグよりも早い。

 しかしフォグ自体もレイス学園を出た身だ。

 二人はほぼ同時に違和感を感じ取ることになる。


「アナタ」

「――ああ」


 時間にして数秒。

 フォグは精霊剣を出すためのタイミングと場所を思考し、ミラーゼは娘に悟られないように語りかける。


「モナちゃん。そろそろ終わりにしましょうか」

「うん!明日があるからもう寝る!」

「それじゃ、お部屋に戻れるかしら?」

「うん!……あ、おしっこも大丈夫!」

「そう、気付けて偉いわね。明日の準備をするから、今日はお部屋から出ては駄目よ?」


「わかった。まま、ぱぱ、おやすみなさい」

「おやすみなさい」

「おやすみ、モナ」


 母は娘を撫で、父は頬にキスをした。

 満足したモナが早足で部屋へ向かう。

 扉が閉まる音を聞いたミラーゼとフォグが、ようやっと緊張の汗を流した。


「おいおい。こいつはヤバいぞ」

「そうね……とりあえず子供たちの部屋は防音と魔獣除けが成されているから、少し激しくなってでも守りましょう」

「でも少しでも扉が開いていたら……気付くぞ」

「それは、神に祈りましょう」


 二人が感じていたのは圧倒的な魔獣の気配だ。独特の瘴気を孕んだその気は、ある程度剣気に長けていれば感知する事ができる。


「――まじかッ!もう来てるッッッ!!!」


 フォグが叫んだ瞬間。

 甲高い轟音と共に窓ガラスが粉々に砕け散った。


「なっ――ミラーゼッッッ!」


 窓から現れたのは夥しい数の蝙蝠。

 バギルと呼ばれる、群れを成す黒い魔獣だった。

 ものすごい勢いでフォグとミラーゼにたかり出し、二人の衣類は噛みちぎられていく。


 バタバタバタバタッ‼︎と。

 激しい羽音で互いの声が聞こえない。

 視界は真っ黒で周囲も見えない。


 しかし、バギルの噛みつきにフォグもミラーゼも怪我をする事はなかった。バギルは日常的に存在する魔獣で、光魔法を全身に纏えばその牙が皮膚を穿つ事はない。


「バギルだ!光魔法を使えば怪我までする事はない!!」

「えぇ――分かってる。でも数が多いわ!それと、バギルは光魔法を感知すると逃げるはず……どうして!」


 前が見えないながら、互いに近づいてようやく会話が成立する。フォグはミラーゼを抱きながら光魔法の力を強め、そこに炎魔法を込めて一気に解放する。


 轟ッッッ‼︎と、凄まじい火と光がバギルを焼き尽くす。


「――っは、ぁ……クソ、なんだあのバギル!?」

「アナタッッッ!!!後――」


 刹那。フォグが真横に吹き飛んだ。

 抱えていたミラーゼが手元から居なくなり、気づいた時には床に伏していた。遅れて右半身全てに痛みがやってくる。右肋骨を二、三本と幾つか細かい骨が砕け、壁に当たった左肩は力なく垂れていた。


「クソッ、腕が――」

「脱臼よ。早く立ちなさい!」


 背後からの薙ぎ払いを受けたと気付いた頃には、ミラーゼが庇うようにフォグの前に立つ。その先にいたのは、竜の形をした魔獣だ。


 ――骨操竜ケルニアス。

 紫に覆われた細身。人の形を歪な竜にした独特の形状をしており、太くて長い尻尾の先は針のように尖っている。おそらくあの太い尾で叩かれたのだろうとフォグは理解した。


「ケルニアス……指定魔獣か」


 立ちながらフォグが呟くと動く右手を空に掲げた。

 脇腹の強烈な痛みを抑えながら精霊剣を呼び起こそうとする。


「顕現せよ――スタ」


 ずぶり、と。呼び起こす直前に声が止まる。

 いいや止まったのではない。途中で声にならない叫びがやってきたのだ。


 凄まじい痛みが支配する。


 小刀のような巨大な針が的確にフォグの右腕を貫いていた。すぐにケルニアスが自身の尻尾の先を高速度で射出した事に気付く。同時に尻尾から新しい針が出現する。


 フォグはその衝撃と痛みに加え、最初に吹き飛ばされた際のダメージが想像以上だった事に気づいてしまい、膝をついた。


「フォグッッッ!!」

「ぁがっ……」


 ミラーゼが思わず後ろを見て、フォグを名前で呼んだ。


「母さ――、ミラーゼ……。ケルニアスには、高度な知能がある……アイツはどうやら……精霊剣を、知ってるらしい」

「フォグ!待って、すぐに左腕を戻すわッ!!」

「――やめろッッッ!!」


 ミラーゼが駆け寄りしゃがんで脱臼した腕を戻そうとしたが、フォグは大声でそれを制した。同時に口から凄まじい量の血液が溢れる。


 側に居るミラーゼはその光景を見て濡れそうな瞳を我慢する。


「ごぶっ……ぐ……ッ!…………ミラーゼ」

「………………フォグ」

「一発目で、内臓、肺を、やられてる、らしい」

「フォグ、フォグ…………フォグッ!」


 ミラーゼはフォグの癖がついた金髪に触れながら名を呼んだ。


 フォグは右の肺が潰れ、折れた肋骨が砕けてあらゆる内臓に突き刺さっていた。それ以前に衝撃で内臓破裂しており、咄嗟に継続していた治癒魔法が効果を示さなくなっている。


「き、効か、ねぇんだ……治癒魔法。魔法って本当に、はぁ、はぁ、下ら、ねぇよな」

「フォグ…………アナタ…………」


 今にも全ての血液が口から出てしまいそうなフォグは、舌の端を噛みちぎる事で嗚咽を抑えていた。暖かなミラーゼの手の温もりに、このまま眠ってしまいたいと強く思った。


 ケルニアスと言えば、新しく生えた尾の針を確認しながら興味深そうに二人を見る。

 高度な知能を持つ魔獣に良くある観察だった。


「奴は……きっと俺たちが、動き、始めた時に……攻撃してくる。……観察してんだ、馬鹿にっ、されてるみたい、だろ」

「フォグ……無理に話さないで。会話できる程度の治癒に集中して……その後はきっと…………きっと良くなるわ」


 それはミラーゼが初めてついた嘘だった。

 最初で最後の優しい嘘をフォグはぐっと噛み締める。


「ミラーゼ………………逃げろ」

「――、」


 フォグは愛するミラーゼを前にして、目すら合わせられなくなるほど意識がおかしくなっていた。フォグが気絶しないように時折り強くつねっても反応がない。


 触れている感触は、きっと既に感じていない。


 ミラーゼの涙はもう溢れる寸前だった。


「嫌よ」

「ミラーゼッ……俺たちは、もう……二人じゃないんだ」

「――、」

「どっちかが……生きてないと……」

「――、」

「子供たちがッッッ!居るんだッッッ!!」


 血溜まりを吐きながら叫んだ。

 ミラーゼの美しい顔と破れて露わになった皮膚に、フォグの血が飛び散り滲む。ミラーゼはそれに動じずただフォグの頬を撫でて、額にキスをした。


「フォグ…………愛しているわ」

「俺も、愛してる」


「アナタが消えても、私が灰になっても――愛してる」

「生まれ変わってもだ」


「……千年先でも、アナタに出会いたい」

「もっと先でも……ずっと一緒だ」


 フォグが、ゆっくりと立ち上がる。ミラーゼは手元から離れたその瞬間に、最期を確信した。


「――っ」


 ミラーゼは堪えきれなくなった涙が溢れて仕方なかった。人がこんなに涙を流せると知ったのは初めての経験だと、場違いな事を思うほどに頬を伝う。雫が落ちる度に思い出が落ちていくような気がした。


 そして、朦朧とした意識の中でフォグがケルニアスを目で捉える。


 視界の端で愛するミラーゼを確認した。

 大きく息を吸った。


 愛してる。もう一度心の中で呟いた。


「――行けッッッッッ!!!!!」

「――ッ!」


 瞬時に光魔法の弾丸をケルニアスに放つ。同時、床を蹴ったミラーゼが部屋から外に出るため走った。


 ケルニアスは突然の攻撃に何も動じなかった。


 ブォン!と虚空から闇魔法を出現させ、飛んできた光魔法にぶつける。凄まじい光と共に魔法は消失したが、これをフォグは想定していた。


「こっちだバケモノッッッ!!」


 魔法は脱臼している左腕を治すカモフラージュだった。

 左腕を上げ、光を集結させる。

 走り出して先にいる魔獣へと接近する。


 この瞬間――初めてケルニアスは危機を察知した。


 おそらく精霊剣が、来る。


「顕現せよ――」


 魔獣は全てのモーションを中断し左腕の切断に変更。

 尻尾の針を回転射出する。


 バシュッッッ!と、乾いた音を鳴らして尾が飛ぶ。


「――くれてやるよ、馬鹿が」


 しかし、これもフォグの想定内だった。

 凄まじく回転した刀のような尾がズバッとフォグの左腕を落とす。最も簡単に落ちた腕が鈍い音を立てるが、フォグの前進は止まることはない。


「集中してたのはこっちの腕だ!!」


 急接近したフォグは、タックルするようにケルニアスにぶつかる。治癒した右腕に突き刺さったままの尾の先端を、魔獣の方に向けて突撃した。


 太い針が、硬い鱗を割って胸に突き刺さる。


「――ギィィィィィィィア゛アアアッ!!!」


 魔獣の断末魔が部屋に響き渡った。


 この時、ケルニアスは高知能故のミスを犯していた。


 まず、セオリーを理解していた事。

 人が腕を落とすほどの衝撃があれば多少は怯むと想定していた。例外がある事をケルニアスは知らなかった。恐怖支配に殉じていたが故、人類が守るべきものを背にした時どんな行動に出るかまでを予測できなかった。


 次に、驕っていた事。

 反撃されても捩じ伏せれば良いという傲慢が、知能の発達により起きていた。興味関心を優先して人の動きを見届けていたり、人間程度の接近では何も出来まいとガードやカウンターに意識を向けなかった。


 最後に、精霊剣を意識しすぎた事。

 危険だと感じるものに集中しすぎてその次の動きを想定できていなかった。その結果、明らかな精霊剣への執着をフォグ程度の貴族に見切られてしまった。尻尾を射出させて無く、凶器の再生時間を作ることでフォグは尻尾の鋭い攻撃を気にせず接近できた。


 全てのことにケルニアスは反省する。


 だが反省できるからこそ。

 ケルニアスは“指定1級魔獣”の地位を得ている。


「――なッ」


 フォグは驚きに顔を歪めた。

 ケルニアスが尻尾でフォグを固定し抱き寄せたのだ。


 ギリギリギリギリと。

 ケルニアスに食い込む太い針の音。

 まるで戒めかのように、強く、強く締める。

 己で自分自身を突き刺す魔獣。


 しかしこれには理由があった。


「――がっ、ぁぁぁぁああッッッ!!」


 締めることで、同時にタックルしたフォグの右腕を圧迫していった。それだけではない、背中の骨も軋むほどのホールドが支配する。両者共に痛みを伴う、修羅のような命のやり取りが繰り広げられた。


 痛みと痛みが交差する。


 そして。


 バギィ、と。

 フォグの右腕が折れて骨が皮膚を破った。


「うぁぁぁぁああッッッ!!!」


 無くなったはずの気絶するような痛覚。

 否、気絶しては痛みで起きてを繰り返した。

 フォグはもう限界だった。


 悟ったケルニアスが尻尾を器用に動かしてフォグを壁に吹き飛ばす。されるがままのフォグは壁にめり込み、立ったまま動かない体を憎んだ。また体の痛覚が消える。


 最後の反抗として目だけでもケルニアスを見た。


「――ブサイクだ」


 吐き捨てた言葉に意味はない。

 相手に理解されるとも思っていない。


 ケルニアスは新しく生えた尻尾の針を確認して、距離を取ったままフォグの胸を狙う。これで最期だが、慎重にならなければいけない。そう言ってるような仕草だ。


「それと……臆病者だ」


 視界は霞んだ。

 もう色彩も消えた。

 痛覚は愚か、感覚も消えた。

 右手は骨が出ている。左手はもうない。

 おまけに内臓はぐちゃぐちゃだ。


「両手が使えないと……ロイを撫でてやれねえなぁ……モナも抱っこできねぇや…………あと、ミラーゼを抱けないなぁ」


 射出の準備ができたケルニアスが、狙いを定めた。いずれ朽ち行くフォグの命と、どっちが先なのかはわからない。


 フォグは断片的に様々な光景を思い出す。

 そして意味もなく、言葉を羅列する。


「悔しいなぁ…………もっと生きたいなぁ…………。ロイとモナの大きくなった姿も……みたいけどっ…………本当は、カッコつけたけどっ、子供たちも大切だけどっ……うぐっ……あ゛ぁ…………くそっ…………」


 ずっと頬を伝っているのは涙ではない。

 断じて涙なんかではないと言い聞かせ我慢した。

 男を魅せろ、フォグ。心の中で呟いた。


「教育なんてっ……向いてねえのさ。母さんに怒られてばっかでよ。その度に……ロイたちと同じ気持ちに、なれたんだ」


 シュッ、と。針を放つために尾が振り下ろされた。


「だからぁ、俺の中の一番はミラーゼ…………ずっと君だ。君がいるから、俺はロイとモナを――、心から愛せたんだ」


 ズドンッッッッッ!!!


「――、」


 癖のない金の髪が散る。視界が赤く染まる。


 そして不幸なことに、フォグは失った感覚がまた戻ったのを自覚した。しかしそれは、神が与えた最期の恩恵だ。

 全身が死ぬほど痛い。死んでるのかもしれない。


 だからこそ。

 ――唇の優しい感触を感じることができた。


「生きて」

「――なッ」


 叫ぼうとした口をもう一度塞がれた。

 花の香りが鼻腔を刺激する。

 フォグは、これを知っている。


「最期に、こうしたかったんでしょう」

「…………ミラーゼ」


「アナタ――、フォグはずっと子供のままね」

「ミラーゼ……ミラーゼッ!」


「初めて会った時のセリフよ」

「お前、何で……戻ってッッッ!!」


 フォグの愛した女は、最期に戻ってきた。

 背中から胸を貫通する痛々しい姿。


 血で染まったフォグとは正反対の癖のない金髪。明らかに急所を捉えたケルニアスの決定打を、無かったことのようにする柔らかな表情がそこにはあった。


「初めて好きになった人がこんな姿になって、飛び出せない恋人がいるかしら」

「でも、お前――、馬鹿。子供達のために……」


「それだけが本心じゃないことも、ちゃんと聞いていたわよ」

「それはっ」


「愛しているわ」

「ミラーゼ……」


 ミラーゼは肝心な事を伏せておいた。

 せめてフォグの命が続くまで、フォグには幸せになってもらいたい一心で弱音を避けた。


 既に村は壊滅し、魔獣に包囲されている。


 “逃げる場所など何処にも無かった”と。


「ねぇアナタ。一つだけ、約束して」

「何だ」


「あの子たちが間違えて扉を開けるかもしれない」

「あぁ」


「だから、私たちはこれから何があっても叫ばない」

「――、」


「心配して、降りてきちゃうかもしれないから」

「――わかった。愛してる」

「私も愛してる」


 もう情景は浮かばない。

 ただ目の前の愛した女性を見つめた。

 その目も、徐々に霞んでいく。


 続け様に触れ合う唇だけが、生を実感させた。


 ケルニアスは既にその場には居なかった。

 ――戦意を喪失した、朽ち行く脆い命に興味はない。


 家には死に行く二人が愛を交わすだけ。

 側には砕けたブリキの人形が隣り合わせで二つ。

 皮肉にもフォグとミラーゼを現しているようだった。


「きっと……この日の為に、生まれてきたんだと思うの」

「どうして、そう……思うんだ」


 動けないままフォグが返事をした。

 寄りかかって髪を撫でるミラーゼが尊い視線を送る。


「今が一番……続いて欲しいって思うからよ」


 頬を撫でるミラーゼの手に、力が無くなった。

 だらりと腕を落とし、力なくフォグに体重を預けた。


 まだ、息はある。


「せめて……フォグ、アナタだけは――」


 暖かな治癒魔法が一瞬フォグを癒す。意味は殆ど無い。それでもその一瞬を心に刻んだ。



 ――悲劇は突然やってくる。



 ドガンッッッ!!!と。

 半壊した壁をぶち破って人型の魔獣が5匹現れる。


「おま、えたち……」


 それは人より一回り大きな手足、歪な顔、ぬめっとした粘着質な皮膚を持ち、軽装をしている魔獣。人類はそれをゴブリンと呼んだりオークと呼んだ。


「ヒィァ」


 5匹の魔獣は下卑た笑みを浮かべて2人を嗤いながら近くまでやってくる。全てを馬鹿にするような、人生を蹂躙するような甲高い嗤い声。


「――な」


 そしてフォグは気づいてしまった。

 彼らが一体、何をする為に来たのかを。


「やめろ……やめてくれ……もう――」


 ゴブリンの1匹が尖る爪で瀕死のミラーゼをつかみ、自分の胸に抱き寄せた。


 目の前で奪われたフォグは動かそうにも体が動かない。

 もう感覚はとうに無い。

 命も僅かだというのに、まだ絶命もしない。ただ歯が割れるほど噛み締めた。


「――ッッッ!!」


 そしてゴブリンは、フォグの目の前でミラーゼの服を破く。露わになる琥珀の肌と突き刺さったままの太い針、破いた影響で傷だらけになる四肢からは血が滲み、この世のものとは思えない絶望的な光景が広がった。


「――やめろぉぉぉぉぉぉぉぉぉッッッ!!!」


 ドッ!!と、死に際のフォグの剣気が広がる。


 臆病なゴブリンは一度肩が跳ねるが、動けないフォグを見て再び嗤った。笑って、また嗤った。


 ゴブリンは煽るように剥き出しのミラーゼの胸を揉んでみせた。フォグは言葉にならない怒りで目の細い血管が破れていくのを感じた。


 だが、ここでミラーゼの意識が一瞬戻る。


「――ミラーゼッッッ!!」


 ミラーゼは変わらぬ優しい表情で、フォグの事を見た。


 そして、静かに告げる。


「――約束」

「――ッッッ!」


 フォグの瞳から、血の涙が出た。


『私たちはこれから何があっても叫ばない』


 約束の会話が反響する。


 刹那。

 ゴブリンが面白そうにミラーゼの生脚をへし折った。


「――ッッッッッ!!!」

「――……ぅ゛ッ」


 声が漏れたのはミラーゼではなくフォグの方だった。

 ミラーゼは安心させるかのようにフォグの前では表情を崩さなかった。その光景を踏まえて声が漏れてしまった。


 フォグは動かない体を消滅させて魂になってでもコイツらを滅しなければならないと確信した。だが、そうする事すらできなかった。


「ヒィアァ」

「――っ」


 ゴブリンがフォグを見ながらミラーゼの肌を舐めた。

 胸に触れたりして弄ぶ。

 一度眉を顰めて嫌悪感を抱くミラーゼが居た堪れなくなり、歯軋りが止まらなくなっていた。


「(いっそ……殺して……くれ)」


 ――ゴブリンがミラーゼの頬を触る。


 世界の残酷さだとか、魔獣の怖さだとか。


 ――ゴブリンがミラーゼの胸を触る。


 子供の尊さだとか、村の穏やかさだとか。


 ――ゴブリンがミラーゼの股を触る。


 精霊剣だとか、貴族だとか。


 ――ゴブリンがミラーゼの身体を舐め回す。


 空の広さも海の深さも、全部どうだっていい。


 全てを壊してくれないか。爪の先から魂まで全部を与えるから、誰かこの絶望を終わらせてくれないか。


 ――願う声は届かない。


 散々目の前で弄ばれた後、ゴブリンたちはミラーゼを抱えて部屋の奥へと進んだ。フォグが運ばれていくミラーゼと目が合う。


「――――――」


 去り際にミラーゼが、声に出さず言葉を残した。


 その頬が濡れているのを見る。

 いよいよフォグの精神は崩壊した。


「――死にたい」


 なるべく小さな声で言うしか無かった。

 ここからでは見えない部屋の奥。

 ゴブリン達が思いのままにミラーゼを弄ぶ。

 

 幸いにも奴らは臆病で、無理に物音を立てる事を避けた。時折皮膚を叩く乾いた音や、何かが擦れる音がするのを、フォグの耳や子供部屋に聞こえているかまでは誰にも分からない。


 ただ、眠るように絶望に飲まれて意識は潰えた。



××××××××××××××××××××



 この時、モナは確信していた。

 村……ひいては家の中で異常な事が起こっている。

 ただ絶対に外に出てはいけない事を本能が伝えた。


「お兄ちゃんを、守らなきゃ」


 モナには他者とは違う圧倒的な才能があり、それが魔獣の強い気に触れる事でこの日に開花した。


 ギフテッド――万物霊障ばんぶつれいしょう

 あらゆる魔獣や剣気を持つ者の位置や意思を知覚でき、それらを第六感として感覚処理したり操作ができると言うものだった。


 一般的にギフテッドは精霊剣を持つものがそれを振るう際に使える恩恵のことを指すが、この異例の事態が無理にモナの潜在能力を引き立てる事となる。ギフテッドは自覚した時点で己がどんな力を得たのかを知覚でき、何をすべきかは幼いモナにも理解できた。


 命が次々と無くなっていく感覚を感じながら、モナがとった行動はまずロイの監視だ。意識を隣の部屋のロイだけに向けて、彼が部屋を出ない事を最優先とした。


「……お兄ちゃん、動かないで」


 しかしロイはこの時、目が覚めてしまっていた。

 夕飯の時は既に不貞寝していて変な時間に目が覚めたのだった。モナはロイが部屋をぐるぐると回っている感覚だけを捉える事ができていた。


 さらに補足すると、ロイは今トイレを我慢している。

 ずっと部屋を出なかった事がキッカケで、かといって深夜に部屋を出る事が良くない事はロイにも自覚できた。


 たが。


 ガチャリ、と不穏な音がしてしまった。

 ロイが外に出ようとドアを開けてしまったのだ。

 怖いのでブリキの人形を手に持ちながら廊下を覗く。


 刹那。

 リビングの奥の部屋にいるゴブリンが、ロイの存在に気付いた事をモナは自覚する。恐る恐ると言った足取りで気配の元に近づくゴブリンを感覚で捉える。


「来ないで……来ないで……」


 モナが願うと、ゴブリンが瞬時に取り憑かれたかのように元の位置に戻った。この時、モナにわかった事が二つある。


 一つは、おそらく弱い魔獣に限って命令権を得る事。

 もう一つは、5匹ほどいたゴブリンが1匹になった事。


 この力が何を成し、この事実が何を意味するのかをモナは感覚で判断した。


 自分は魔獣を操れる。

 そしてゴブリンが減ったのは役目を終えたからだ。


 この力があれば兄を助けることができるはずだ。

 とにかく部屋を出てロイと合流する必要がある。


「――え、お兄ちゃん?」


 しかし、そうするよりも前にロイが走り出した。

 おそらく夜が怖いからであり、早くトイレに行きたかったのだろう。その為にはリビングを通らなければならない。家の周りにはまだ魔獣の気配がしている。


 モナは咄嗟に部屋を飛び出してロイを追いかけた。


「はぁ、はぁ、お兄ちゃん!そっちは魔獣が――」


 角を曲がった先。

 リビングの入り口で、呆然と立ち尽くすロイの背中とぶつかった。「わぶ」と鼻が当たって痛みを伴うがモナはロイに追いついて安堵した。


 だが、悲惨な現実がそこには広がっていた。


「なに、これ……」

「ぁ――」


 ロイが絶望し、モナは言葉を失った。


 窓ガラスは全て割れ、あらゆる壁が粉々になり夜風がよく通るようになったリビング。ひしゃげた床や夥しい量の血。鼻をつく異様な臭い。


「おもちゃ……」


 床に転がっているのは欲しかったブリキの人形だ。それも二体。片方は何かに踏まれたようにひしゃげて、片方は腕が壊れてしまっている。


 そしてその近くにあるのは――、


「ひとの……手?」

「――、」


 この場でロイはショックを感じて目の光を失った。

 同時に失禁してしまうが、もはやその事にも気付かない。

 モナだけがおおよそ誰の腕であるかを予測していた。


 だがそんなモナも実際に目で見て頭が真っ白になった。


 ずる、ずる。

 ずる、ずる、ずる、ずる。

 ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる。


 ゆっくりと、何かが擦れる音がする。

 絶望してその場で硬直状態の2人。

 その音を聞く余裕もなかった。


 ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる。

 ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる。


 ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる。

 ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる、ずる。


 しかし、どんどん近づいてくる音にようやく気付く。



「…………………………………………ぱは?」



 それは、原型を全くとどめていない父だった。


 無くなった左腕、ひしゃげた右腕。

 折れ曲がった両足は骨が細かく砕かれ、ぐにゃぐにゃで紐を結ぶようにつなげられていた。


 両目はえぐり取られて存在しない。

 背中の皮は剥がされ骨と筋肉が剥き出しになり、串刺しにされた二つの目玉が突き刺さっていた。それは命を馬鹿にするかのような光景。


 明らかに誰かに弄ばれていた事がわかる。


 目もなく両手両足も使えない父。五体不満足で機能していない四肢を顎も使って動かし、ナメクジよりも遅い速度でリビングの奥に向かって進んでいる。


 ……もはや、別の生き物だ。


 なぜ動いているのかも分からない。


 刹那。

 遅れて状況を理解したロイの胃液が込み上げた。

 父ではなくなった父を見て吐瀉物を撒き散らす。


「――ォ゛え゛ぇぇッッ!!」

「――、」


 ボトボトと胃液が床に落ちるが、変形した父親は気にも留めず進み続ける。


 よく見ると、耳や鼻すら無かった。


 モナは吐きそうになる胃を我慢する事で限界だった。


 そこに集中しすぎて、竜の形をした魔獣が真っ正面から来た事にも気付かなかった。だが、魔獣が自分の父の目の前に立った時――、モナの遮断していた意識が戻る。


「――お兄ちゃん!魔獣だッッッ!」

「――あぅ」


 俯くロイの肩を揺らし、必死に呼びかける。

 絶望の淵に居たロイに生きる活力がない。


「お兄ちゃん!お兄ちゃん!」

「――ぅあぁ」

「モナ達も殺されちゃう!起きて!ねえ!」


 正面に回り肩を揺するが、ロイは力が抜けたままだ。


「お兄ちゃんは――モナが守らなきゃ」


 勢いよく唸った魔獣が、爪で父を引っ掻いた。

 ズパァァ!と、部屋に鮮血と肉片が舞う。異常な音と血飛沫にモナが怯むが、無視してロイの肩を起こし――思いのままに強烈なビンタをした。


「起きなさい!ばか!!」

「――っ!」


 乾いた音が響くと同時、打たれたロイの瞳に正気が宿る。

 目の前には必死に肩を揺すって怒号を浴びせるモナが居た。


「ここは地獄!モナたちしかいない!でも生きるの!」

「…………」


 少し。


「モナたちが生きてる!きっとぱぱとままのおかげ!」

「ぱぱ、まま……」


 また少し。


「沢山もらったから、生きるの!生きてありがとうするの!」

「モナ……」


 ロイの戻る活力と共にモナの瞳は涙でぐちゃぐちゃだ。


「モナだって……何も考えたくない!見たくない、怖い!」

「――――、」


 モナは滲む視界を必死に凝らし精神を保っていた。


「……分かるの、皆死んじゃった。魂が泣いてる」

「モナ、オマエ……」


 そして、俯きそうになる顔をあげて妹は兄を見た。


「それでも、生まれた意味はちゃんと知りたいッ!」


 ギフテッドの影響でモナは人が簡単に居なくなる事を強く実感した。その感情が、生きる意味の自問自答へと繋がっていく。


 命は儚い。命は尊い。命は代わりが効かない。

 命は、亡くなった命の上に生きている。


「モナ。ボクがモナを守る!」

「命をかけてモナもお兄ちゃんを守る!生きる、生きるの!」

「あぁ、生きる。生きて全部なんとかする!!」


 妹の想いが伝わった。


 この時、ロイの心の奥に呼びかけた「生きる」事が、モナの万物霊障のギフテッドによるものである自覚は本人にはなかった。


「ぱぱ!ごめんなさい!!」

「――っ!」


 魔獣に食い散らされた父に大きな声で謝る。

 ロイは泣きながら叫んだ。モナは人が亡くなる度に視覚的な死の実感とギフテッドによる感覚的な死の実感の両方を得る為言葉に詰まる。


 複雑な感情を押し殺して、モナがロイの手を握った。


「お兄ちゃん、こっち!!」

「あぁ!」


 ――2人は、一気に走り出す。


 そして向かう先にはすぐあの場所がある。


「魔獣、動かないで」


 小さく願いを込める。

 その先の魔獣が硬直する感覚を得た。確認すると速度を落とさずそのまま進もうとして――、


「…………………………まま?」

「――――っ!!」


 ロイが立ち止まってしまう。


 惨たらしい死体になった裸体の母がそこにいた。

 全身の打撲と引っ掻き傷、よく分からない体液でベトベトになり、太い針が胸を貫通した姿だった。


 逃げないようにするためか、両足首はへし折られている。

 にも関わらず表情はどこか穏やかなままだった。


 何よりそこに乗っかるようにして硬直しているゴブリンが、絶望的な構図を作ってしまっている。子供にとって見るも無惨な光景だった。


「――お兄ちゃんッ! ……もう死んでる。行くよ」

「――うぅぁぁあああああああああああッッッ!!」


 大きく叫びながら、とにかく走った。

 走って走って走り続けた。

 

 モナが魔獣を感知しながら、隙間を縫って走る。


 ロイが躓いて転んでも、すぐ立ち上がって走る。


 時折襲うバギルの群れも、モノともせずに走る。


 2人手を繋いで、絶望から逃げるように背を向けて進み続けた。全ては生きるため。繋げてもらった命を粗末にしないため。


「はぁ、はぁ、はぁ――」


 どれだけ進んだのだろうか。


 進めば進むほど村が壊滅した事実を知り、転がる死体を見た。父を食った魔獣は家畜にまで手を出していた。


 そうして命が終わる度に、視覚と第六感の両方で感じてしまうモナの心は、枯れ果ててしまいそうだった。


 更に、兄には言い出せない状況もあった。


「…………足、多分もう使えない」

「はぁ、はぁ、――なに?モナ何かいった?」

「ううん、なんでもないの」


 ロイは最初トイレに行くためにルームシューズを履いていたが、モナは慌ててロイを追うため駆け出して裸足だった。


 足の裏は裂傷でずたぼろになり、おそらく左足に長いガラス片が刺さったのだろう。踵からくるぶしまで貫通し皮膚を突き破って、血は止まったものの周りが変色している。


 更に不幸な事に、まだ村はすぐ側で陽も出てない。

 深い闇夜だというのに、途中で助けた同年代の子供達が他に5人もいた。


「モナ……他の子たちがパニックになってる。早く抜け出さないと危険だよ」

「うん、わかってるよ。お兄ちゃん」


 そして極め付けは、すぐ側まで近づいてきている一匹の魔獣……。この魂の知覚は父を食った、竜の魔獣だった。きっとロイを起こす時にモナが背中で浴びた父の血の匂いをたどっている。


 幸いにもロイにはあまり付着していない。

 他の子たちも、大きな血痕はない。


 つまり……モナは今、完全な足手纏いになっている。


 自分がいると、生きて帰ることができない。


「お兄ちゃん。すこしだけ良いかな」

「――どうしたんだよ」


「おもちゃ壊してごめんね。黄色のリボンつけたかったの」

「そ、そんな事かよ!ばか、分かってたよ」


「怒ってるよね」

「あぁ怒ってる。でも、突っぱねた自分に一番怒ってる」


「許してくれる?」

「仕方ないから許してやるね!感謝して忘れろ」


「ありがとう」

「な、なんだよ……!改めて言ってくんな!」


「ねえ」

「まだなんかあんのか」


「あたま、撫でて」

「――、まぁここまで来れたのはモナのお陰だし?少しくらいはお兄ちゃんらしくしてやれなくもないケド?」


「なでて」

「わかったよ!ほら!」


「ふふふ」

「なんだよ、気持ちわりーな!」


「お兄ちゃん」

「だから何なんださっきから!」


「生きてるね」

「そうだな、マジで色々あったけどな!!」


「お兄ちゃん」

「何だよ」


「呼んだだけ」

「もう用がないって事かよ!バカがよ」


「あと100万回は呼びたいの」

「それ、後でいっぱい呼ぶ券とか作るから先行くぞ」


「今もう一回だけ呼ばせて」

「わかったわかった。マジで一回な」


「ロイお兄ちゃん」

「……本当オマエさ〜、どうし――」


「誕生日おめでとう」

「…………」


「愛してる」

「――っ!!」


 そして。

 その時はやってきた。


「生きてね」

「モナ、おま――」


「魔獣だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッッッ!!」


 瞬間、行く道で助けた少年が物凄い大声をあげる。

 見れば遠くから走ってくる竜の魔獣がそこに居た。


「北に走ってッ!――森の中に入ってッッ!!!」


 いつも通りモナが大きな声で指示。

 慌ててロイ含む全員が走り出した。森は全力で走ったその先にある。


 各々が死を覚悟してただ進む。

 生きている実感も無いほど、無我夢中で走るしかなかった。


 ――モナだけが、その場にただ立ち止まった。


「わー、はやい」


 ロイ含む全員が全力で走ってる姿を遠目で見ていた。子供とはいえ、全力疾走するとこんなにすぐに遠くに行くんだなとモナは思った。同時に離れていく兄の姿が少し悲しかった。


「もうつかれちゃったよ。死んだみんなの命の声が聞こえるから。人は命の上に立つのに、立ってる途中でも下から声が聞こえるなんて酷いよ」


 モナはギフテッドの恩恵により、救われた部分とそうでない部分の両方を感じていた。精神的疲労。命に対して考えるあまり、命がわからなくなりつつあった。


「そんな中でも、お兄ちゃんは生きて欲しいって思える」


 モナは大好きな兄の笑顔を思い浮かべた。


「きっとこれが家族って事なんだね。ままもぱぱも、こんな気持ちでモナたちを育てて、生かしてくれたんだね」


 魂の声が聞こえる。この笑い声はきっと父のもの。


「ぱぱは何だかんだ、モナたちよりままの事ばかり考えてた気がする」


 魂の声が聞こえる。この温もりはきっと母のもの。


「ままは、皆に愛を注いでいたんだね。今ならちゃんと分かる気がする」


 そして、ロイの魂の声は聞こえなかった。


「お兄ちゃんの魂は……見たくないな。ぱぱとままとモナが繋いだ、大事な命だから」


 迫り来る音を無視して、モナは自分が泣いている事に気づく。


「あれ……何でだろう……幸せなのに、涙が」


 モナは、この涙の意味を知らない。

 そして今後も知ることはなく終わりを迎える。


「足痛いなあ。お腹すいたなあ。お風呂入りたい。あと、お兄ちゃんに膝枕してもらいたい!……カードゲームしたい。球遊びしたい。かけっこしたい。かくれんぼしたい。大人になってお買い物したい。綺麗になって、彼氏とか作っちゃって……ぱぱとお兄ちゃんを困らせたい。ままには自慢したいなぁ。あと、結婚したらお兄ちゃんみたいな子供は欲しくない。じつはいやらしい目で女の子見てると思うし。でもお兄ちゃんは大好きだから幸せになって欲しい。多分お兄ちゃんは優しすぎるから、恋人なんて滅多にできないと思うけど。あー、家族で旅行したいなあ。あと、生きていたい」


 涙が止まらない。希望が止まない。

 それでも真後ろに、魔獣はやってきた。


「魔獣さん。音はあまり立てないでね。モナも声我慢する」


 何があってもミラーゼの子だと分かる台詞を残した。


「あと魔獣さん。気になってたんだけど……全滅した村の中心に、一つだけ生きた人の魂があったの。そこだけ魔獣さんが居なくて……何か知らな」


 ぐしゃり。とモナの首が無くなった。

 しばらく咀嚼音が続くが次第に音はなくなっていく。


 満足したのか、魔獣は羽を広げて村へ戻っていった。


『お兄ちゃん』


 夜にこだまする最期の音。

 ひたすら突き進む子供達の中に、金髪の少年は居る。

 何万人の命の上に立ち託された小さな背中。


「モナ……全部わかってた。ボクはお兄ちゃんだから」


 無我夢中で走る。

 感情を殺して進む。

 何度も何度も何度も、愛の絆のために感情を殺す。


 ロイは全てを知っている。

 知っているからこそ妹のために振り返らなかった。


 ――今日だけは、陽の光が包み込むように彼を救うだろう。



××××××××××××××××××××



「――そうか。あの時、ぱぱはままの方に進んでたんだ」


 早朝。生暖かい太陽がロイを照らし寮のベッドから降りた。

 もう一つのベッドに人影はない。

 コウキは朝が早いので、いつもロイは1人で起きる。


 彼が物音を立てずにそっと出ていくのは、ロイの眠りが実は深くない事を知っているからだ。ロイもコウキがそうしている事を知っていた。伝えてこない細かい配慮はまるでうちの妹みたいだとロイは遠い記憶を思い出す。


「いよいよ明日がデリオロスゲートだ」


 ロイは引き出しを開けた。

 すると、古い血でくすんだブリキの人形がそこにはあった。首には黄色いリボンが丁寧に巻かれている。


「ボクが持ってきた繋がりは、オマエだけだ」


 持ち上げながら、首のネジが壊れたおもちゃを持ち上げて太陽に翳す。ブリキは極端に汚れている。この血と汗と涙の劣化が誰のものかは知らないが、少なからずあの日を繋ぐ物として残り続けているのは事実だ。


「他は全部、心の中にあるんだ」


 ロイはそれだけ言うと、バッグの中におもちゃを仕舞う。黄色のリボンを解いて、左の手首に巻き付けた。


「物も魂も、全部持っていくから力を貸してくれ」


 今日は休日。最後の修行の為に寮を出ようとした。

 窓の木漏れ日が一瞬ロイを照らし後ろを振り返る。


 もちろん何もない。

 暖かい光がそこにあるだけだった。


「ぱぱ。まま。そしてモナ」


 光しかないからこそロイは言葉を残す。


「……ボクにも、守りたい絆ができたよ」


 ロイ=スリアの広くなった背中をただ光が見送った。


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