第38話 明日はきっと今日と違う1日⑥

「そうだ、僕が正気なうちに聞きたいのだけど、ディラはミロクかマイトレヤという言葉を聞いたことはあるかな?」

「ミロクとマイトレヤ? ごめん、どちらも聞いた事はない。

 それは何?」


「いや、武器屋の御曹司からそんな言葉がでたので聞いてみただけだ。僕のいた国でもあった言葉だったので」

 池でディラが書いた文字を思い出した。もしかしたら過去にも地球から転移した人が複数人いたのかもしれない

「どういう意味なの?」


 弥勒菩薩は、遠い未来に“仏”に相当する”如来にょらい”になって人々を助けにいらっしゃるとされる。マイトレヤは梵語サンスクリットの弥勒である。

 ニールと同族の武器屋の息子が、僕のことをミロクと言ったのでもしかしたらと思っただけのことである


「有名な人の名前かな」

 専門の方に話したら異議を申し立てられそうだ

「後でどういう人達か教えてよ」

 ”後で”ということはここで消される意図は限りなくないことの現れなのだろうか?


 宗教に関することも、この国で僕の命が続くならば知っておく必要もあるだろう。そういえば、アントラセンにも、ヒフガにも寺院や神社、教会やモスクのような建造物がなかったような気がする


「儀式を始めましょうか」

 肩に触れた手から言葉が伝わってくる。

 思えば今日は大きな戦闘があった。ディラは疲れていないのだろうか? 儀式を恐れていると思われるのもしゃくなので、疲労を労う言葉を遠慮した。一方僕は、地球と違う重力の影響か大仕事をした割りには信じられないほど疲労がなかった。


 突然ディラの手が頬に触れると、唇を重ねてきた。

 なるほど、儀式には大量の魔力が必要なのだろう。なぜか僕の身体には大量の魔力が蓄積されている特殊体質のようである。自分がガソリンスタンドのようにディラとニールに利用されているのがおかしかった。


 儀式とはいえ、地球にいた頃の恋人に似た女性との口づけは興奮を伴わずにいられない。ディラの息が荒くなって呼吸が乱れている。その息づかいに理性が壊れていき、ディラの背中に手を回すことを何度も自重した。今は大事な儀式の最中だ。


 そんな気持ちと裏腹に、ディラは僕の背中に手を回し強く引き寄せる。この口づけは、日本で恋人同士が交わすものと違わない気がした。ともあれ、押し寄せる本望ほんもうに逆らって我慢を続けた。儀式の後に得られる効果は絶大だ、よこしまな願望で結果を台無しにすることはできない


「お風呂に入りましょう」

 ディラが伝えてきた。魔力量を満たしたので、次は身体を清めるのだろう。つまり日本の文化でいうみそぎのようなものだと推測する。


 ディラに引かれてレンガの壁にある木製の扉を開けた。そこは3畳ほどの個室で、大きなガラス製の鏡があった。木製のバケツに水が蓄えてあり、洗面台と外に排水できるように傾斜のある細い水路ができていた。木製の棚にはバスローブのようなものが2組置かれている。


 気付くとディラは服を脱ぎ始めていた。目が合うと動作を止めて僕を見た。ディラの目は僕が早く脱ぐことを促しているようだ。ディラも禊ぎの必要があるのかもしれない。昼間のニールのこともあったので、そういうものかと、そそくさと脱ぎだした。ただ、裸のディラを前にして何もしない自信はまったくない。


 最後の下着を脱ぐ前に、振り向くと既にディラは服を全て脱いでいて、隠すこともなくこちらを眺めている。ディラの顔は地球にいる恋人”由樹”に似ているが、体つきは全く違っていた。日中魔術師の防具に隠されたディラの身体は均衡が取れていて、繊細な写実画を美術館で見ているかのようだった。絵画に直接手を触れてはいけない禁忌きんきいだかせる美しさがそこにあった。


 当然といえば当然なのだが、藤色の毛は髪だけではない。目のやり場に困るというのはこのことだ。昼間のニール同様、ディラの振る舞いをみると、繁殖期と賢者期のある世界では地球の感覚と顕著に違うのかもしれない。


 僕が服を全て脱ぎ終えて振り向くと、ディラは藤色の杖を亜空間から取り出して僕の方に向かって振った。

 地面に引っ張られ、荷物を背負わされたような感覚が全身のを襲い、自由が奪われていく感じがした。確か、これは午後の戦闘でカストに放ったものと同じかもしれない。

 ディラの美しい身体に見とれてしまい、完全に判断力を失っていたようだ。

 ともあれ、人生最後の風景がこんなに美しいものならば悔いはない。


 <つづく>


 

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