第13話 白日

 午前の陽射しが何もない部屋をくまなく照らす。

 その中で静一は高山の首に緋色の縄を掛けた。そして手早く首元に一重結びの瘤を作る。縄尻を引くと白い喉が微かに鳴った。視線の外では妖艶な笑みが浮かびはじめているのだろう。


「……」


 一瞬、縄を扱う手が止まった。今ならまだ、身体への負担が軽い縛りへ変更することができる。

 そんな迷いを感じ取ったのか深い息が前髪にかかった。恐る恐る上げた視線の先に、諦念と期待が入り交じった表情が浮かんでいる。

 ここまできて怖じ気づくことなど許されるはずがない。


「続けます」


 頭上に軽く頷く気配を感じながら、等間隔に一重結びの瘤を作っていく。股縄を通すために襦袢の裾をたくし上げると、疵痕一つない腿が日に輝いて見えた。


 この脚を見ることができるのも恐らくこれが最後になるのだろう。


「……」


 再び止まった手を咎めるように、下着から覗く白い脚が微かに動いた。


「失礼いたしました」


 軽く頭を下げ、裾をたくし上げながら脚の間に縄を通す。

 乱れ撓んだ黒い生地に緋色の線が走っていく。そのまま背面で縄尻を首の輪にかけた。


 基調とする縛りは亀甲。それをときに崩し、ときにより複雑な多角形へと変えながら縄を通し,返し、継ぎ足しながら、縄を食う肌が望むまま余すところなく胴を戒めていく。


 乱れた肌襦袢に食い込む幾何学模様が完成すると、静一は背面で縄尻を結び新たな縄を手に取った。二メートル強の緋色の縄。それを半分に折りたたみほのかに頬を染めた顔の前に差し出すと、高山は軽く笑み口を開いた。促されるまま薄い唇から伸びる長い舌を挟むようにして轡を作る。てらてらと光りながら一筋の涎が顎を伝い滴った。細められた切れ長の目も苦痛と愉悦に潤んでいる。


 このままこの表情をずっと眺め続けていたい。

 それでも、まだ成さなくてはならないことは残っている。


 静一はまた新たな縄を手に取った。数ヶ月前、この部屋にはじめて足を踏み入れたときに手渡された縄だ。


「……っ」


 高山は恍惚の評所を浮かべたまま、自ずから腕を背後に回した。


「失礼いたします」


 半分に折った縄を手に軽く一礼し、組まれた腕と背の間に縄を通す。あの夜と同じように。


「ぅ」


 轡に戒められた口から軽い呻きがもれる。今ならばそれが苦痛からきているものだと分かる。

 それでも、手を緩めることなどは求められていない。

 肌が望むままの力で縄を走らせるたびに、呻き声には甘い吐息が交じっていく。後ろ手を縛り上げ縄尻を轡に纏めて結ぶと薄い肩が軽く跳ねた。


 腕が動かなくなるほどの症状が出ているのなら苦痛も相当なものなのだろう。


「次に、進みますね」


「……」


 軽い頷きを確認し、前面へ回る。

 眉を寄せ上気した表情も、乱れた肌襦袢から覗く肌や下着も、その身体が快感を得ていることを明白に示していた。


 樹氷の残した図面に沿うならば、このまま脚縄を施し吊りへ進むことになる。しかし、この部屋には吊り床どころか、縄を通すことができる梁すらない。


「……っ」


 不意に、高山が軽く喉を晒して後ろによろめいた。おそらく、身じろいだ拍子に後手縛りにつながれた轡が引かれたのだろう。


 その様を見た瞬間、自ずと腕が動いた。


 緋色の六角形が食い込む胸に軽く手を添える。それだけで、満足げな微笑みは少しの抵抗もなく緩やかに後ろへ倒れ込んだ。そのまま、捲れあがった裾からの覗く左脚を緋色の幾何学模様で包んでいく。それが終わると、右膝に手を添え軽く曲げさせた。


 右脚を縛り終われば全ての工程が完了する。縄を返す手に力がこもった。


「ぃ」


 悲鳴に似た呻きが耳に届いても力は緩まない。それが自分に望まれている役割なのだから。期待に添うことができれば、また「上手だね」と微笑んでもらえる。

 

 それでも、数時間後にはもう。


「……出来上がりました」


 くるぶしの上に結びを作り、全ての工程が完了した。鈍く痛む腰を伸ばすように上体を起こす。


 無数の多角形に全身を戒められた高山は、恍惚の表情を浮かべたまま微動だにせず横たわっている。白日の元に晒された艶姿に思わず息が止まった。ずっとその姿を眺めていたいのに視界が滲んでいく。


 気がつけば、静一は跪き右足の甲に口づけていた。その途端、横たわった身体が軽く跳ねた。


 たとえこの足が動かなくなろうとも、自分が全てを背負っていく。

 あのホテルで覚悟を決めていれば、横たわる美は自分の元を去らなかったかもしれない。

 今からでも誓うから置いていかないでほしい。

 湧き上がる後悔とともに濡れた頬を擦り付ける。縋るように何度も。


 どのくらいの間、そのままでいたのだろう。


「……」


 呆れと憐れみが入り交じったため息と共に、微かに足の甲が揺れた。

 涙を拭おうとしていたのか、頬から逃れようとしていたのかは分からない。しかし、もう時間が来ているということは分かった。


「……すみません。今、解きますね」


「……」


 静一は涙を拭うと、軽く頷く冷めた表情に促されながら縄を解いていった。

 全ての縄を解き終わると高山はおもむろに上体を起こした。


「写真、撮らなくてよかったの?」


「その、なんだかそういう気になれなくて」


「そう」


「すみません、必要、でしたか?」


「別に」


 漆黒の目がいつものようにどこか遠くを見つめる。


「煙草、いりますか?」


「うん」


 いつものように黒革のケースから煙草を取りだし、いつものように薄い唇に咥えさせて火を点ける。

 幾度となく繰り返した行為も、これで終わりだ。


「あの、これからも……っ!?」


 僅かな可能性にしがみつこうとした言葉は、吹きかけられた甘い香りによって遮られた。もうここを去るべきなのだろう。


「……では、俺はこれで失礼しますね」


「そう」


「向こうへ行っても、どうかお元気で」


「……ん」


 高山は携帯灰皿に灰を落としながら小さく頷く。その瞬間、乱れた前髪が漆黒の目を覆い隠した。


 静一は立ち上がり深々と頭を下げると、振り返らずに部屋を出た。晴れすぎた空の下には相変わらず人の疎らなオフィス街が広がっている。角を数回曲がり細い路地を抜け、最寄りの地下鉄駅がある大通りへ出る。

 数分でたどり着くはずの入口はやけに遠く感じられた。

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