琥珀の王国の探偵少女

澤野玲

第1話「小さな依頼人」

 どうして、みんなウサギのシチューなんて食べるんだろう。わたし、あんな可愛い動物、ぜったいに食べられない。

 

 少女クロエは、馬車にがたごとと揺られながら、そんなことを考えていました。


 馬車の窓からは、陽が沈みつつある街の様子がよくみえました。

 もう、ガス灯には火がともされ、栗色の光が街中を優しく包みます。

 赤や茶色や灰色の敷石がつめられた道では、帰宅する人々が乗る馬車がせわしく行き来しています。

  今日はめずらしく、蒸気自動車の姿もありました。


 クロエは街の建物に目をやります。

 夜間営業の飲食店やパブの店員が、扉の上にあるランプに火をつけます。そうして、街には少しずつ淡い明かりが広がっていきます。


 道の脇には、純朴なレンガでできた無数の料理店が並んでいます。クロエの鋭い鼻は、店々から発せられるさまざまな香りをつかみとります。

 フィッシュ&チップスの、からりとしたころもの匂い。マリガトーニスープのきりっとしたスパイシーな香り。熱々のジャケットポテトの上でとろけるチェダーチーズのなめらかな匂い。


 あちらこちらの店で焼かれるパイの香りもかぎ取れます。ミートパイ、アップルパイ、パンプキンパイの優しい香りです。クロエはどのパイも大好きですが、一番すきなのは口の中で甘酸っぱい香りが広がる、木苺のパイです。


 こんどは、歩道に面したこぶりの広場に目をやります。そこでは、今日は紙芝居が上演されていました。先端がカールする白ひげをはやした演者が、臨場感たっぷりの声で、台詞を読み上げています。子供たちは、紙の中に飲み込まれんばかりに集中して聴いています。

 装飾が施された紙芝居の箱のすぐ隣に、車輪がついた綿菓子の屋台があります。店主は売り物の綿菓子にもまけないほどの柔らかい笑顔を子供たちに向けています。


 今日は、綿菓子はよく売れているのかしら?


 クロエは、そんなことを考えます。


 その日の夕暮れ時も、淡くやわらかな光が満ち溢れ、その光にすべてが優しく包み込まれ、王国は琥珀色に染められていました。





 4月の暖気が蝶のように舞う朝のこと。クロエが住む下宿の建物は、キツネ色の陽光にてらされていました。

 下宿の中のダイニングで、少女クロエ・ガーネットは丸く可愛らしいオーク製の椅子に座っています。朝食はさげられていましたが、ダイニングにはまだ、食事のなめらかな香りがただよっています。

 クロエは朝食後の楽しみの、はちみつ入りホットミルクが小さく波打つカップを眺めています。

 彼女は丸く小く可愛らしい鼻で、ホットミルクの香りを楽しみます。湯舟からでたばかりの赤ちゃんのような優しい匂いがします。


 ダイニングの隅にあるキッチンでは、下宿の女性主人、アークエットさんが、調理器具やクロエが平らげた皿やらを陽気に洗っています。


 アークエットさんはクロエに言います。


「クロエ、あなた25日の蒸気自動車発表会には行くんでしょう? 宮殿前の大公園で開かれる、あの発表会よ。なんでもね、小型車なのに5人も乗れるんですって。蒸気機関の力って、すごいものよね」


 クロエはやわらかい湯気をあげるミルクのカップから目をはなして、そっけなく答えます。


「わたしは、いかない。蒸気自動車なんて、もう珍しくないわ。週に1台はかならず見るもの」


 アークエットさんは皿を洗う手を休めずに言います。


「あのね、クロエ、ほんとうに大事なのは蒸気自動車じゃないの。こんどの発表会にはね、貴族の若い殿方や、お医者の卵、そして、いずれは会社の重役になる男性たちも大勢、見物にいらっしゃるの。あなたは、もう16歳。そろそろ結婚のことを考えて、魅力的な交際相手をみつけてもいい頃なのよ」


 クロエは人差し指の先で、カップをこつんと叩いて言います。


「わたし、男の人に興味ないし、結婚にも興味ない」


 アークエットさんは、布巾で食器を拭きながら言います。


「いつまで、そんなこと言ってられるかしらね」


 そのときでした。下宿ドアの向こうから、年配の男性の声が聞こえました。


「おーい、クロエちゃん、行くぞー」


 いつも下宿までクロエを迎えにきてくれる、農家のトムソンおじいさんです。


 クロエは、家のそとに向かって言います。


「いま行くわー」


 そう言うと、カップにふーっと息を吹きかけ、ミルクを2口、飲みました。


「アークエットさん、ミルク残してごめんさない。いってくるね」


 アークエットさんは、クロエのほうに顔を向けます。ひまわりのように明るい声で言います。


「はい、いってらっしゃい。今日もいい一日になるといいわね」






 仕事場に向かうために家を出た人々が、天からさす橙色の光を浴びて、ほがらかな朝の空気を楽しむ街の中。少女クロエ・ガーネットとトムソンおじいさんは、古びてあちこちからきしむ音がする馬車に乗って、ゆるりと道を進んでいます。


 クロエの麦色のポニーテールが、やさしい午前のそよ風になびきます。


 2人が乗る馬車を引くのは、もとは競走馬のチャンピオンで、いまは銀食器1枚ほどの価値もなくなってしまった、老馬、キング・ジョージです。クロエはキング・ジョージのたてがみを見つめています。あちこちがはげ、油分がなくなり、艶やかさがまったくない、たてがみです。でもクロエは、自分でも理由がわかりませんが、このぱさぱさのたてがみが好きでした。


 クロエのとなりで、手綱を握るトムソンおじいさんが言います。


「なあ、クロエちゃん、おまえさんは足がはやいんだ。わざわざ、わしに4ペンスもはらって、この駄馬が引く馬車なんかに乗らんで、自分で歩いていったほうがはやいんじゃないのかい? まあ、クロエちゃんの下宿は、わしが野菜市場に作物を届けに行く道中だから、まったく手間じゃないがの」


 クロエはキング・ジョージのたてがみから、視線をあげます。ひな鳥の羽衣のように柔らかい朝の日差しを浴びる、陽気な街並みに目を向けます。


「わたし、この馬車から、朝の街の風景をみるのが好きなの。それに、トムソンおじいさんとお話するのも楽しいし」


 トムソンおじいさんは、こくりこくりと小さくうなずきます。


「そうか、そうか。わしもクロエちゃんと話しがながら、街の若い衆から活気をもらうのが、楽しいな」


 素朴な麻布をかぶった幌馬車、豪奢できらびやかなキャビンをもつ箱馬車、真夏の小麦畑のようにつやつやしい毛皮の馬が引くタクシー馬車。おだやかに前進するさまざまな馬車の波のなかで、キング・ジョージはゆるりと道をすすみ、やがてクロエとトムソンおじいさんが乗る馬車は『ガーネット探偵事務所』の前に到着しました。


 キング・ジョージが老いた脚をとめると、クロエはさっそうと馬車をおります。


「ありがとう、トムソンおじいさん。野菜、高く買い取ってもらえるといいわね!」


「そうじゃな。また明日、クロエちゃん」


 老馬が再び進みだすと、クロエ・ガーネットは『ガーネット探偵事務所』の扉へ向かい、鍵をあけました。





『ガーネット探偵事務所』は、執務場所と接客場所が同じ部屋のなかにある、小さな探偵事務所です。あまり陽が差し込まない事務所なので、日中でも照明が必要です。室内にシックな雰囲気をもたらすダマスクス柄の壁には、いくつもの写真がかけられています。多くの写真に映っているのは、清潔感ある服装を身にまとった30代後半の紳士と、地味でもなく華美でもない衣装の、美しい淑女です。

 部屋の奥側にある棚には、埃をかぶった本や、あまりまとめられていない書類がつまっており、そこから古いインクの匂いが発せられて、部屋全体に漂っています。

 

 探偵クロエ・ガーネットは机の上に脚をのせ、背もたれにぐいっと小さな背中をあずけています。


 クロエは事務所にいるときは、カーキ色のチェックのブラウスを着て、下にはパステルイエローのスカートを履いています。


 少女は、サファイアのような青い瞳で、オイルランプの揺れる火を、ぼうっとみつめます。

 

 少女はぼんやりと考えます。


 仕事の依頼……ぜんぜんないなぁ。まだ父さんが生きてた頃……この事務所が父さんのものだったときは、依頼は、何か月も先まで予約でいっぱいだったのに……。


 クロエは机の上で脚を組み、椅子をゆらゆらと揺らします。


 わたし、探偵に向いてないのかしら? ほかの仕事をはじめる? いや、父さんはこの街きっての名探偵だったんだもの、わたしだって、素質があるにちがいないわ!

 とはいえ、依頼人がこないんじゃなぁ……。


 突如、クロエのなかにちょっとしたひらめきがあり、彼女は小さな手のひらを、ぽんと叩きます。


 そうだ! 宣伝をしないのがいけないのよ! そう! 宣伝! 広告よ!

 じゃあ、どこに広告をだす? 新聞の一面の広告欄? いやいや、あの部分は相当な掲載費がかかるわ。ちょっと難しいわね。

 1番裏の隅っこ? あそこに広告を乗せるのは、いくらくらい掛かるんだろう?こんど、新聞社にいってきいてみなきゃ。


 広告には、なんて書く? ここが一番かんじんよ! しっかり考えなきゃ!


 クロエは少々気持ちが高揚しはじめ、椅子のゆれは大きくなります。きしきしとした音は次第に大きくなります。


 これなんか、どう? 『名探偵アンドリュー・ガーネットの娘、クロエ・ガーネットが華麗に問題を解決してみせます!」


 なんか、ぴんとこないわね。


『アンドリュー・ガーネットの血を引く才女、クロエ・ガーネットになんでもおまかせあれ!』


 んー、これもなんだか、しっくりこない。


 そもそも、父さんの名前を使うのって、なんか卑怯な感じよね。うんうん、父さんの名声にたよるのはよくないわ。

 なにか、いい宣伝文句はないかしら……。


 あ! これが、いいかも!


『この国で1番かわいい名探偵! クロエがなんでも解決!』


 ひひひ、この国で1番かわいい、だって! ひひひ!


 クロエはおかしくて、しかたなくなり、椅子をよりいっそう力強く揺らします。


 彼女は、声をだして大笑いします。


「あはは! わたしが、国で1番かわいい、だって!あははは! 1番かわいい! 1番かわいい! あははは!」


 クロエの体は、台風の日の枝のように激しくゆれ、椅子はいまにも壊れそうでした。


 そのとき、事務所の扉がひらき、ドアチャイムがりんりんと鳴りました。


 クロエは、突然の人の訪問にあわてます。


 いけない! お客さん! こんなだらしない姿勢じゃ――


 クロエは、体勢を直そうと、脚にグイっと力をいれました。それが間違いでした。

力の入った脚は伸びきり、クロエは勢いよく後ろへ倒れこみました。椅子の背もたれが、激しく床に衝突しました。もともと丈夫ではなかった背もたれは、無残にもばらばらになってしまいました。


 床に倒れこんだクロエは、頭がくらくらしました。彼女は頭の中で回る星を追い払い、よわよわしく立ち上がります。

 背中がぴりぴりとしました。


「痛たたた……」


 クロエは立ち上がると、たったいま開かれた事務所のドアの方を見ました。


 もちろん人が立っています。


 少年でした。


 クロエは、わずかに集中力がもどった頭でとっさに考えます。


 どうして、探偵事務所に少年が?


 少年が言います。


「ガーネットさんかい?」


 背中の痛みと、くだけた椅子のことで少しいらいらしているクロエは、こう言います。


「そとの看板になんて書いてあった?」


 少年は言います。


「ガーネット探偵事務所って書いてあったよ」


「じゃあ、わたしがガーネットね」


「そうだね」


 クロエはあらためて、少年をまじまじとみます。


 クロエは年齢のわりにだいぶ背が低いのですが、少年の身長はクロエとほぼ同じに見えました。


 12歳くらいかしら?


 少年の身なりはけして良いとはいえず、質素な茶色のベストは着古されていて痛みが目立ちます。水色のシャツは、あちこちが汚れています。


 クロエは少年に言います。


「今日は学校と炭鉱の仕事にはいかないの?」


 少年はおどろきの表情を浮かべます。


「どうして、ぼくが炭鉱堀だってわかったの?」


 クロエは少年の手のほうにあごをしゃくります。


「その手、先端が黒くて、すこし太くて、あなたの年齢のわりには深いしわができてる。炭鉱夫の手よ」


 少年は関心したように、うなずきます。


「さすがだね、ガーネットさん」


 クロエは、すこし口調を変えて言います。


「それで、炭鉱堀の少年さんが、探偵事務所なんかになんの用? まさかとは思うけど、何かの依頼?」


 少年は言います。


「そう、依頼さ」


 こんな小さな少年の依頼? 幼稚な依頼にきまっているわ。いますぐ追い返す?


 彼女は、少年の表情をまじまじとみます。なにか、とても真剣で、とても深刻な顔をしていました。


 一応、話だけでも聞いてみよう。


 クロエは、さきほどまでとはうって変わって、淑女らしい仕草で、部屋の中央にある接客用のソファへ手を向けます。


「まあ、そこに座ってくださいな」


少年は何も言わず、ソファに座ります。


クロエも、ソファと対面したチーク製の椅子に座ります。少年のソファとクロエの椅子の間には、上面が大理石でできた、上品なやや小さめのテーブルがあります。


「それで、あなたのお名前は?」


「ウィル。ウィル・ピーターソン」


「そう。で、ピーターソンさん、いったいどんなご依頼?」


 ウィル少年は、控え目な瞳でクロエをみつめて言います。


「ウィル。ウィルって読んでください。ぼく、苗字で呼ばれるのには、慣れてないものだから」


 クロエは小さくうなずきます。


「そう。で、ウィル、依頼の内容を話して」


 ウィル少年の話しは、このようなものでした。


 ウィル少年は、クロエの街から遠くはなれた、リトル・ハダムという村に住んでいます。

 少年は、母親とふたりで暮らしていました。職業軍人だった父親は、ウィル少年が3歳のときに戦死しています。

 ウィルの母親・マチルダは、4年前に天然痘にかかってしまいました。ここ最近は四肢の痛みがひどく、自分ひとりでは外をあるくこともできないほどの重症です。

 ウィル少年は、毎朝、母親を乗せた車椅子を押し、散歩にでかけます。散歩のコースはほとんど決まっていました。そのなかで、ウィル少年の母親は、ある場所をとても気に入っていました。それは〝井戸の広場〟と呼ばれる、〝広場〟とは名ばかりの、小さな井戸場です。その井戸場には、1体の男性の彫像がありました。とても凛々しい顔つきをした彫像は、等身大の高さで、とても重厚感があるそうです。ウィルの母親は、毎朝、その彫像に見惚れながら、ウィルが作ったライ麦のサンドイッチを食べるのが、何よりもの楽しみでした。

 

 ウィル少年はクロエに言います。


「たぶんね、母さんは、あの彫像に恋をしているんだ」


 ウィル少年の話はつづきます。


 それは、ある朝のことでした。ウィル少年はいつものように、母親が乗る車椅子を押し、朝の散歩にでかけます。いつものコースを、母親が陽の光を楽しめるよう、ゆったりと押して進みます。そして母マチルダの大のお気に入り、彫像がある井戸の広場へ到着します。


 彫像は、無くなっていました。


 いったいどういうことなのか、そのときは少年も母親も強い困惑につつまれました。

 どうして、彫像が無くなったりするの?

 とにかく、ふたりは混迷のなかで、家に帰りました。

 母親はとてもショックを受けたようで、午後はろくに口もきかなかったそうです。

 翌朝、母マチルダは散歩に行きたがりませんでした。

 少年は、ひょっとしたら彫像がもどっているかもしれない! などという淡い期待をいだいて、井戸の広場にひとりでいきました。


 彫像がもどっているわけなど、ありませんでした。


 その日も、母親はろくに口をきかず、なんだかいつにもまして具合がわるそうでした。


 少年は考えます。誰が、いったいなんのために、母が愛するあの彫像を持ち去ったんだろう。

 しかし、そう悠長に思いを巡らせていることも出来ませんでした。ウィルの母親は毎晩のようにベッドで涙をこぼし、容態はみるみる悪化し、今ではベッドから起き上がることも、ままならないありさまでした。


 ウィル少年は、ぎらぎらとした真剣なまなざしで、クロエをみつめて言います。


「ぼく、あんなに悲しそうな母さんをみていられないんだ」


 クロエは言います。


「警察には行ったの?」


 少年は、肩を落とし、悲し気に顔をさげます。


「警察には行ったよ。そしたらね『いまは、羊の大量脱走の始末で、彫像どころじゃない』って、相手にされなかったよ」


 まあ、もどったところで、誰の利益にもならない彫像より、羊毛やお肉になる羊の群れのほうが大切よね。


 などと探偵の少女は思います。


 ウィル少年は再び顔をあげ、大きく開かれた栗色の瞳でクロエをみつめ、熱のこもった口調で言います。


「ガーネットさん、誰があの彫像を持ち去ったのかをつきとめて、彫像を取り戻しておくれよ!」


 まず、大事なことをクロエはたずねます。


「彫像がなくなったことに気づいたのは、何日?」


「8日だよ」


 クロエは考えます。


……4月8日の朝……。つまり、彫像が持ち去られたのは、4月7日、ちょうど聖金曜日の夕方から深夜。今日は4月16日。この1週間ちかくの間に、雨が1〜2度降ってる。

 足跡や、微細な手がかりは、もう雨水に流し落とされてるわね。

 

 それでも、クロエは、調査はできなくはない、と思いました。

 少女は腕を組んで、じっくりと考え込みます。


 クロエがテーブルの上の白い大理石を睨みながら、思考に意識を集中させているあいだ、ウィル少年は身動きひとつせず、探偵が口を開くのをただただ待っていました。


 長い間があったあと、クロエが言いました。


「わかったわ。あなた、お金がなさそうだから、この事務所の最低料金で引き受けるわ。前金で3ポンド、あなたが納得のいくかたちで調査が解決したら、もう3ポンド。どうする?」


 少年は、ぐっと身を引き、なんだか落ち着かない顔つきになりました。

 ウィル少年は言います。


「そ……その、ぼくは今日、有り金を全部もってきたんだけど……」


「もってきたんだけど?」


 ウィル少年は恥ずかしそうに言います。


「僕が払えるのは、全部で1ポンドだけだよ……」


 クロエは呆れたように顔をあげます。


「わるいけど、それじゃ依頼は受けられない。ごめんなさいね」


 ウィル少年は身を乗り出します。


「どうしても、だめかい?」


 クロエはウィル少年の目をみつめ、少しきつい口調でいいます。


「こういう商売はね、一度、規定の金額より安い値段で引き受けると、次に来たお客も、また規定額より低い値段をふっかけてくるものなの。だから、うちの最低額、合計6ポンド以下で引き受けることはできないのよ。わかってちょうだい」


 少年は傷を負った子ヤギのように力弱く立ち上がりました。


「わかったよ、大切な時間を無駄にしてごめんなさい……」


 ウィルはそういうと、薄汚れたベストのポケットから、紙きれを取り出し、それをテーブルの上に置きました。


「これ、ぼくのうちの住所だよ。もし……もし、気がかわったら、電報を送っておくれよ」


 クロエは紙きれを手に取ることもせず、口をひらくこともしませんでした。


「それじゃ、ガーネットさん、おじゃましたね」


 少年はそういうと、道端を転がる新聞紙よりも力なく、ガーネット探偵事務所から出ていきました。

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