第10話・塾とコンビニ

 四年生から通い続けていた教室から近所の教室へと転校したことで、佳奈の顔に張り付いていた子供らしくない疲労感が消え、愛華は心底ホッとしていた。当然、環境が変わったことでしばらくの通塾は緊張していたみたいだが、知っている講師や友達も何人かいたらしく、新しい教室にもすぐに慣れることができたみたいだった。

 勿論、あれ以降、佳奈が寝坊することは一度もない。


 ――もっと早くに気付いてあげれていたらなぁ……


 後悔しても仕方がないが、入試直前のどうしようもない時期にならなくて良かった。夏休み明けにでもなっていたら塾側から転校を断られる可能性だってあっただろう。ギリギリセーフだ。


 塾から貰ってきた封筒の中には、早くも夏期講習の案内プリントが入っていた。ちらっと見ただけだったが、中学受験クラスは二週間近くも講習があるらしく、休みの半分も塾通いしなきゃいけないみたいで、愛華は思わず「うわぁ」と唸ってしまった。イマドキの小学生もなかなか大変そうだ。


 愛華がアルバイトしているコンビニの、道路を挟んで真向いにあるビルに佳奈の通う塾はテナントとして入っている。五階建ての内のニ階と三階だから、バイト中に向かいを見上げれば、ロールカーテン越しに生徒達がウロウロしている影が見えることがある。勿論、この距離だから授業の前後にはコンビニが子供達の溜まり場になることも多い。


「この時間に小学生が出歩いてるって、すごい時代になったもんよねぇ」


 パート勤務の山岡が、駅前ロータリーで走り回っている子供達を眺めながら呟いている。ベテランパートの山岡には息子が二人いるが、どちらも成人して家を出てしまっているらしい。一人で時間を持て余していてもと、パートなのに週五のフル勤務で社員並みにシフトに入っている。店長からの信頼も厚く、所謂、この店の裏ボス的な存在だ。


「私が子供の頃なんて、何時だろうと暗くなる前には帰って来いって言われたものよ」

「私も祖母からそう言われてたかも……」

「そうでしょー? でも、あの子達も早く帰ったところで家で一人きりだったりするのよねぇ……塾に行かせてる方が親も安心だって聞くわよ」


 時代よねぇ、としみじみ嘆きながら、店内設置のゴミ箱に新しい袋をセットしている。学童の代わりに自習室へ行かせる為に塾へ入れるんだって、とご近所さんから聞いたという話をドヤ顔で口にする。最近の塾は入退室を保護者へメールで通知したりして、かなり手厚いらしいのよ、と。


 山岡が言うことに、確かにそうかもと愛華は心の中で深く頷いていた。今まさに佳奈が家で一人きりの留守番中。こうして自分が外に出ている間は塾に行ってくれていた方がよっぽど安心できるのにと思ってしまったからだ。


 駅のホームに電車が到着したらしく、改札を抜けた乗客達が一斉に店の自動ドアから雪崩れ込んでくる。夕食用のお弁当や総菜と共に、アルコール類を抱えたサラリーマンがカウンター前に列をつくり始め、二人の店員は二台のレジをフル稼働させていた。

 列が途切れ出してホッと気を緩めても、すぐに反対方向の電車が来てしまい、また同じようにレジが混み始める。この時間帯はこれがあるのに、なぜか日中と同じ時給なのがどうにも解せない。


 裏ボスである山岡から店長へ直談判をお願いすれば、何とか時給アップしないだろうかと一部のバイトが画策しているのはまだ本人には内緒だ。


 人気の弁当やオニギリが一通り売り切れ出した頃、客足はかなり落ち着いてくる。品揃えが悪くなってくると、数十メートル先にある別のコンビニに客が流れていくからだ。その頃になってようやく、交代予定の別のバイト達が姿を見せ始める。


「お疲れっす」

「お疲れ様でーす」


 夜勤をメインに入っているメンバーは、愛華と同じ学生バイトやフリーターがほとんど。防犯上、以降は男子ばかりになってしまうから、愛華は先に女子トイレだけをチェックしに行く。予備ペーパーの補充を済ませ、サニタリーボックスのビニール袋を入れ替えて、やっとタイムカードを切ることができる。


 帰り際にスイーツコーナーを覗いて、愛華はシュークリームとショートケーキのパックを真剣に見比べていた。Wクリームのビッグシューは以前に佳奈にあげた時、とても嬉しそうに食べてくれていた。妹は何も言わないが、きっと甘い物が好きなはずで、特に生クリームが多いのが好みなんじゃないかと推測している。

 だから今日はクリームと苺が乗った定番のショートケーキの方を手に取ってみる。


 愛華が帰宅した時、佳奈はいつものように二階の自室にいるようだった。リビングの隅には畳まれた洗濯物がきちんと積み重ねられていて、今日も佳奈が帰って来てから取り入れてくれたのだろう。キッチンの水切りラックには洗い終わったカレー皿とスプーンが並べられ、カウンターの上には愛華がすぐに使えるようにと同じ皿とスプーンが重ねて置かれていた。


「佳奈ちゃん、ケーキ買って来たんだけど食べない?」


 バイト前に作り置いていたカレーを温め直し、ご飯と一緒に皿に盛り付ける。そして、小皿にショートケーキを用意してから、二階に向かって階段の下から声を掛けてみた。


 呼びかけにすぐ反応は返ってこなかった。けれど、愛華は特に気にせずダイニングへと戻っていく。一人でのんびりと夕食を食べていると、しばらく経ってから佳奈の部屋のドアが開閉される音が天井越しに聞こえてくる。そして、階段を降り、廊下を歩いてくる足音。


「……おかえりなさい」

「ただいま。今日は苺ショートなんだけど、食べられる?」


 こくん、と黙って頷く佳奈の顔が、少し嬉しそうに綻んでいるように見えた。やっぱりクリーム系が好きみたいだ。愛華は心の中でにやりと微笑む。佳奈は迷わず向かいの席に腰かけると、「いただきます」と小さく呟いてからケーキのフィルムを慎重に剥がし始めた。


 ショートケーキの三角の部分からフォークで掬って食べている妹を、愛華はカレーライスを頬張りながら眺めていた。表情には出さないように気をつけていたが、心の中では密かにニヤける。

 家に居てもほとんどの時間を自分の部屋で過ごしている妹も、お土産のスイーツで誘えば必ず降りてきてくれることに気付いたのだ。しかも、それをかなり楽しみにしてくれてるみたいなのだから、バイトのある日は買って帰らずにはいられない。


 ――あれっ、これって餌付けってやつなのかな?


 例え愛華が買ってくる甘い物に釣られただけだとしても、こうして向かい合っている内に少しずつ慣れていってくれればいいのにと願う。美味しそうに苺を頬張っている妹の姿に、次は何を買って来てあげようかと悩むのも結構好きかもしれない。

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