三、ギャング団の奇襲攻撃

 一樹が泣いていたことは知っていた。それだけで幸せだった。泣きたいのにこらえている姿を見るほうがつらい、もっと思うぞんぶん、泣き叫んでほしかった。




 最初に桃香が彼を見たとき、それはあの晩、酔えない酒を頭に入れて、ビル街を面白くもないままさまよっていた不毛なときだった。ふと目についた街路のかん木の隙間に、街灯に照らされる黒い後ろ頭を見つけた。そこはベンチの裏側だった。近寄ってよく見ると、彼の左耳とあごのあたりが見えたが、気づかれなかった。

 あとで聞くと、ジャズのライブのあとで一服していたというから、上機嫌だったはずなのだ。ところが桃香にはその後姿が、とても惨めで悲しく見えた。彼女が不機嫌だったせいもあったかもしれないが、彼女の目には、どんなに良いことがあっても、それを受け入れられずに否定し、決して幸せになれない人の、深い悲しみが見えた。ベンチの背もたれから伸びる彼のきゃしゃな肩から上は、白く冷えきった炎が力なく揺らめいているようだった。どんなに虚勢を張って燃えさかろうとも、実は氷のように冷たく、誰も知らぬ彼だけの古傷の痛みに、声もなくわなないている。そんなゆらめきだった。

 ふと背もたれの下、ズボンの後ろポケットから、なにか黒いものがにょっきりと突き出ているのが見えた。彼女は忍び寄り、手を伸ばすと、迷わずそれを抜き取った。駆け出す彼女を大声をあげて追いかける男。

 それが、全ての始まりだった。



 一樹の歩いたあと、地面に長々と黒い涙の染みが出来ていたが、そのことを、あとでとやかく言いはしなかった。このあと、もっともっと、素晴らしいことが待っている。そんな気がしたから。



   xxxxxx




 まわり一面、広々と何もないからっぽの荒野、空は抜けるような気持ちのいい青空。道路へ行き着くと、思ったより幅が広かった。いったい誰がいつ舗装したのかは想像もつかないが、そこは明らかに黒いアスファルトで、割れ目もでこぼこもなく、きれいだった。二人が上にあがって道の前後を眺めると、どちらも地平の果てまで、えんえん長蛇のように伸びていた。

 ところが後ろを見た一樹が、はっとして前を見返すと、ほとんど同時に桃香もそっちを見た。道の地平線に消えかかった部分に、小さな黒い点があった。それはどんどん大きくなり、指で測ると一センチほどの大きさになった頃には、二人はそれが一台の車だと分かった。

 さらに大きくはっきり見えてくると、黒の外国の高級車だった。マフィアが乗ってそうな、でかくていかつい車。横長の四角いライトの、どっしり悠々と構えている感じが、かえって不穏なものを感じさせる。エンジン音がしないのも不気味だった。ハイブリッド車だろうか。

 車は二人の前に来ると、ほとんど音もなく停まり、中から大きくゴツい男たちが次々に出てきた。グラサンをかけた顔に、短い髪を撫でつけた頭、そして黒の背広と分厚い紺のネクタイ。まさに絵に描いたようなギャングである。

 彼らは全部で五人いて、運転手以外はみんな降りたようだったが、車もマフィアなら、乗っていた連中の容姿のみならず、その雰囲気もまた、ギャングそのものだった。みな一様に唇をへの字に結び、眉間に皺を寄せ、全身から見るからにヤバそうなオーラを放っているので、桃香が怯えて子供のように後ろに隠れた。一樹は、彼らに何か言おうとしてやめた。一番前に出た痩せ型の奴が、さっと銃を向けてきたからだ。

「さっさと乗れ。命が惜しいならな」

 ドスの効いた声で冷たく命じる男。銃で脅されて逆らえるわけがない。こっちは丸腰なうえに、なんらの護身術も習っていない。

 だが、一樹は自分でも驚くほど冷静だった。後ろに囁くように「……大丈夫だ、俺がついてる」と言い、女の手を引いて、黒服が銃でせっつかれるままに、車に乗り込んだ。


 車は引き返すでもなく、そのまま走り出した。車内はやはり広く、後部座席の両端に一人ずつギャング、その間に一樹と桃香が挟まれて座り、前には左に運転手、右側に二人の仲間が並んで座っている。

 しばらく沈黙の中、車に揺られていたが、一樹はすぐに妙なことに気づいた。今、ギャングの集団に拉致されてどこかへ連れて行かれようとしている、まさに絶体絶命の危機のはずなのに、どういうわけか周りに緊張感がないのだ。外で会ったときは、いかにも犯罪者っぽい態度のせいで気づかなかったが、こうしてすぐそばに座ってみると、妙に雰囲気が和やかだ。とても極悪人の集団という感じではない。左右に見える彼らの横顔は、あごが張ってゴツさ半端ないのに、口元が緩んでのほほんとしてすら見える。悪人のイヤらしい笑いとは違う。こうしていると、なんだか気のいい連中と旅している気すらしてくる。

 隣の桃香もそれに気づいたのか、耳打ちしてきた。

「……ねえ、なんか変じゃない?」

「……うん、俺もそう思う」

 一樹は答えると前を向き、それでもあくまで疑心に満ちた顔と声色のまま聞いた。

「おい、俺たちをどこへ連れていくんだ」

「ふふふ、せっかちな坊やとお嬢さんだ……」


 向かって右端にいる、さっき銃を向けて脅した痩せ型の奴が嘲笑うように答え、顔を半分こっちへ向けた。どうも彼がリーダー格のようだ。その口元は悪そうにニヤニヤしている。が、やはり、なにか変だ。彼は、そのままドスの効いた声で続ける。

「聞きたいか。いいかい坊やにお嬢さん、君たちはこれから一番近くの街に行って、車を降ろされる。そこは親切ないい人ばかりいるから、事情を話せば助けてもらえるだろう。おかげで君たちは、あんな砂漠の真ん中で野垂れ死にしなくて済むわけだ、ふふふふ……」

「はあ?」

 意味が分からず困惑の声をあげると、周りのギャングたちも悪そうに笑い出した。まるで冷酷な悪人が、被害者が苦しむのを見て喜んでいるような笑いだが、やっていることは真逆だった。思わず桃香と顔を見合わせると、彼女も目が点になっている。

「あのう……」

 一樹が言いにくそうに切り出すと、笑いがやんだ。

「ええと、ということはなんですか、あなたがたは……僕たちを助けてくれる、というわけですか……?」

「まったくそのとおりだ、ふっふっふ……」

 邪悪に笑うギャングのリーダー。目が見開く一樹。

(そうか、一杯食わされたんだな!)

 とたんに力が抜けてシートに背をもたれ、苦笑いがこみ上げた。

「なんだ、悪い冗談はよしてくれよ、まったく。冷や汗かいたぜ」

 ところが一樹の一言に、リーダーがきょとんとした。

「冗談? いいえ、本気ですが……」


 急に丁寧口調で言われ、一樹はまた驚いた。

「はあ?」

「いえ、ですから、私たちは迷子になった人をお助けするとき、いつもこうしてるんですけど……」

 リーダーは言いながら、困ったように細い眉を下げた。

「なにか、間違ってましたか?」

 周りのギャングたちも、一様に困惑の表情で顔を見合わせたりしている。あまりの事態に、一樹はほとんど驚がくすらしていた。

「いや、あの……だったら、普通に声かけて乗せたらいいじゃん」と一樹。「あんな悪人の誘拐みたいなやり方じゃ、誤解を招きますよ?」

「えっ……」

 いったん下を向いて考え、またこっちを向くリーダー。

「あれが普通じゃないんですか?」

 その顔には、明らかに動揺が走っていた。周りの仲間たちにも動揺が走り、リーダーは困惑の表情でまた足元を見、天をあおぐと、気が抜けたようにぽつりと言った。

「知らなかった……」

(知らなかったのかよ!)


 あまりのことに一樹は一瞬言葉を失ったが、すぐに、これには何か彼ら特有の事情でもあるんだろうと思い、ここは教えてあげることにした。

「ええと、人助けで僕らみたいな迷子を車に乗せて、街まで送ってくれるわけですよね。それでしたら、あんな脅すような感じじゃなく、車から出たら、笑顔で『どうしましたか。迷ったのなら、街までお送りしますよ』とか言えば、相手も安心して乗りますよ」

 それを聞くや、リーダーはすさまじく感動し、両手をあげて狂喜した。

「そ、そんなやり方があったとは! そうか、確かにそれなら相手も喜んで乗ってくれる! す、素晴らしいぃぃぃ!」

 続いて、一樹の周りのギャングも興奮して言いだした。

「そうか、どうりで今まで、恐怖におののいて逃げられたりしたわけだ!」

「ひどいときは、脅そうとしたらチョップで銃を叩き落されたり、向こうから銃撃してきて死にかけたりもしたが、もうこれで怖い思いしなくて済むんだね! やったー!」と手を叩いて喜ぶ。

「な、なんと素晴らしいアイディアだ! 君は天才だ!」

 リーダーが叫び、こっちに身を乗り出して手を握って喜ぶので、一樹は恥ずかしくなった。

「い、いえ、こんなの、たいしたことでは――」

「いいや、あなたは私たちを救ってくれた! ありがとう! 本当にありがとう!」

 握る指に力をいれ、はらはらと泣いて感謝する。どうしていいか分からず桃香を見ると、くすくす笑っているので舌打ちした。

(こいつ、面白がってんな!)


 だが、感謝されるのはまんざらでもないので、次第に嬉しくもなってきた。しかし、ギャングたちのヨイショはどんどんエスカレートした。

「あなたは英雄だ! 救世主だ!」とリーダー。「一言、お名前をお教えください!」

「あ、芦沢一樹です……」

「アシザワ・カズキさまですね! みんな、アシザワ・カズキさまに万歳三唱をー!」

「アシザワ・カズキさま、ばんざーい! ばんざーい!」

「や、やめてくれー!」

 あまりの恥ずかしさに頭を抱えて叫ぶ一樹。ここまで人から誉められて持ち上げられたのは生まれて初めてなので、免疫がまったくなかった。

「ほ、ほんとに、もう……あっ――! 運転っ――!」

 叫んで指した先では、運転手までが万歳三唱していた。車は道路をそれて下の荒地に突っ込み、危うく横転しかけた。

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