第20話 衝動



「みのりさん……!」


 いつものカフェに姿を現したみのりの泣き腫らした目に、絢子と弥生は驚いたように立ち上がった。二人が浮かべる痛ましそうな表情に、みのりは気恥ずかしそうに頭をかいた。


「遅刻だよね、ごめん」

「そんなのいいから!! いいから座って!」

「みのりさん、大丈夫ですか!?」


 心底心配して体調を気遣ってくれる絢子と弥生に、嬉しくて震える唇を引き結んでも頬が高揚した。


「……ありがと」


 顔を上げてニッと笑ったみのりのいつもの笑顔に、絢子と弥生は少しだけホッと表情を緩めた。でもすぐに表情を固くした。


「何があったの……?」


 みのりは困ったようにため息をつくと、スマホを取り出した。チラリと弥生を見ると、察したように弥生は頷いてくれた。みのりも頷きを返すと、久しぶりの「残業」の証拠写真をチーム・サレ妻へ送信する。

 それぞれの通知音が小さく音をたて、絢子と弥生が画面を確認する。由衣と直樹、留美と大地。それぞれがホテルへ入っていく写真と、出てくる画像。その場に沈黙が落ちた。


「……それ見ちゃったら、なんか悲しくもないのに涙が止まらなくなっちゃって……あ、でもバレてないよ! ちゃんとウチ、うまく誤魔化せたし!」


 パタパタと両手を振りながら、明るい声色で話すみのりに、絢子がガタンと無言で席を立った。窓際のソファー席に座るみのりの隣に、そのまま腰を下ろす。


「絢子さん?」


 覗き込んだ絢子は悔しそうに唇を噛み締め俯いている。慌てて吹っ切れたから大丈夫だと言おうとした左隣に、急に温もりを感じて顔を上げると弥生が慰めるようにみのりに寄り添ってきていた。


「……私たちがいます」


 静かな弥生の声に、絢子が無言でブンブンと首を縦に何度も振った。みのりは一瞬言葉を失い、ゆっくりと口角が上がる。


「……二人とも、ありがと! ウチね、本当にもう大丈夫! ウチが一緒に幸せになろうって思ってた人は、死んだんだってわかったから!」

「死んだ……?」

「うん! ウチが結婚したダーリンはもう死んじゃったの。今いるのはダーリンを殺した顔だけそっくりなゴミ! だから容赦しない!」


 グッと瞳の色を強くしたみのりに、絢子は眉尻を下げて小さく頷いた。きっとこういう人だ。そう信じて愛して結婚した夫は、最初から存在しなかった。もしくは死んでしまった。みのりはそう心の整理をつけたらしい。


「だからウチはもう大丈夫! 弥生さんは……大丈夫……?」


 残業の相手がいつもと違ったのは大地だけではない。みのりが心配そうに寄り添ってくれている弥生をそっと振り返る。


「問題ないですよ? むしろおかわりラッキーって思ってます」


 にっこりと美貌を微笑ませた弥生は、全く強がっている様子もなかった。それでも気遣わしげに弥生を見つめる絢子とみのりに、弥生は苦笑した。


「本当になんともないんですよ。私は多分録音を聞いた時に、張り詰めていた糸が切れちゃったんだと思います」

「あれは……うん……」

「ふふっ……私、直樹さんに愛されたくて必死だったんです。告白も結婚も、何をするにも自分からで。愛されてるって安心できたことがなくて」

「弥生さん……」

「でもあの録音を何度も聴いて、どうしたらいいかを考えてた時に、プツンって糸が切れたみたいな気がして。そしたらどうでも良くなってて。あんなに愛されたくて必死だったのに、本当に心の底からどうでもいいって気持ちになって」

「うん……」

「それからは本当になんとも思わなくなりました。なんなら今は慰謝料のおかわりが嬉しいなってくらいですよ?」


 弥生はみのりに申し訳なさそうな顔を向けた。


「……本当は泣くべきなんでしょうけど……すいません。みのりさんは辛いのに、全くなんともなくてなんか申し訳ないです……」


 ちょっとびっくりした顔をしたみのりは、絢子と顔を見合わせるとぷっと一緒に吹き出した。


「なんともないから申し訳ないって……!」

「そうです。なんともないならそれでいいんですよ」


 もう壊れてしまって元に戻せないのだ。辛くないならそれが一番いい。発覚当時は一番取り乱していた弥生が、誰よりも先に吹っ切れたようだ。


「でも、なんだか私だけ空気読めてないみたいで……」

「こういうのは人それぞれだと思いますよ」

「そうだよ。悲しまないからって空気読めていないとかじゃないから!」


 困ったような弥生に、みのりと絢子はますます笑った。ひとしきり笑って、ふうとため息をついて顔を見合わせる。


「……私は、どう感じるんでしょうかね?」


 悲しくなるのか、それともどうでもいいと感じるのか。発覚当時とは随分変わった哲也への感情。この上さらに裏切りを重ねられたとき、絢子はどんな感情を抱くのか。ぽつっとつぶやいた絢子に、みのりと弥生は思案顔をする。


「絢子さんの旦那さんだけ動きがないですもんね……」

「それこそ空気読んで他の女と、とかしてないよね」

「この場合、それがいいのか悪いのか……」

「まあ、それはそうだよね」

「参加、しますかね……?」

「多分。多数側の人のはずなので……」

「絢子さんの旦那さん、マジで謎だよねぇ。ウチのとこは下半身で行動だし、弥生さんとこは拗らせじゃん? 絢子さんとこはなんかイマイチわかんない……」

「そうね……」


 絢子も苦笑しながら頷いた。深く知っていると思っていた哲也は、不倫が発覚してから知らない人になっている。それと同時に哲也に向ける感情が、どんなものなのかもわからなくなってきている。

 絢子はそっと席を立ち、向かい側の席に戻った。みのりは絢子に感謝の笑みを小さく浮かべ、すぐにきゅっと表情を改めると弥生に向き直った。

 

「それと……弥生さん、気をつけてね?」

「何を……ですか?」


 びっくりしたように弥生は口に運ぼうとしたカップを止めて、身を乗り出したみのりに首を傾げる。


「多分旦那さん、何かしら行動すると思うから」

「らしくない……ですか?」

「うん。機嫌を取ってきたりとか何かしてくると思う」

「どうしてです?」

「浮気相手、増えたから。よく言うじゃん? 浮気すると優しくなるとかって」


 よくわからないと眉を顰めた弥生に、みのりはため息をついた。


「今日、うちのゴミが出がけにほっぺにチューしていったの……ずっとそんなことしてなかったのにさ。浮気の最初だけじゃなくて、後ろめたい何かが起きると機嫌とってくるみたい」

「そう……ですか……」


 弥生はよくわかっていなかったが、みのりの言う通りだった。

 会合を終え帰宅し、今日は「残業」をしてこなかった直樹が、帰宅後に外したネクタイを弥生に渡しながら言った。


「風呂に入って来いよ」

「……え?」


 貼り付けていた笑顔のまま、弥生は動きを止めた。


「だから風呂に入って来いって」


 思わず顔を上げた弥生は、薄ら笑いを浮かべて弥生を見ている。当然弥生が喜ぶと思っている顔。弥生を見下し、自分が優位と信じて疑わないその表情。

 瞬間、凪だった弥生の心に吹き出すような怒りが湧いた。弥生は直樹を睨みつけ、受け取っていたネクタイを投げ捨てた。そのまま踵を返し、必要最低限の荷物をまとめ始める。

 間抜け面でポカンとしていた直樹が覚醒し、慌てて玄関に向かう弥生を追いかける。


「弥生……?」


 弥生は振り返ることなく、そのまま玄関を飛び出した。


「おい! 弥生……!」


 強く呼び止める直樹の声を無視して、そのまま弥生は歩き続けた。しばらくするとスマホがひっきりなしに着信を知らせ始める。無言で電源を落とすと、目の前が赤く染める怒りに突き動かされるまま歩き続けた。

 どれくらい歩いたのか。やっと周りを見る余裕を取り戻した時には、電柱の住所で二駅先まできていたことに気がついた。ドッと疲れが押し寄せ、見つけた公園のベンチに座り込む。


「……どうしよう」


 座り込んだベンチで弥生は頭を抱える。一度も反抗もせず従順だった自分の突然の暴挙は、間違いなく直樹に不信感を持たれたはずだ。


「今からでも……」


 戻ろうかときた道を振り返った瞬間、直樹のあの薄ら笑いが浮かんで強烈な怒りが湧き上がった。もう何事もない顔で、直樹の顔を見ることはできない。どうしても来た道を引き返せない。


「……ごめん、なさい」


 絢子とみのりの顔が浮かんで、弥生の瞳にじわりと涙が浮かぶ。共に支え合ってここまで戦ってきたチームメイト達。弥生の行動のせいで、何もかも台無しになるかもしれない。二人に迷惑をかけることになるのが、何よりも申し訳なかった。でももう戻れない。どうしてもあの男と同じ空間にはいたくない。弥生はそれほど直樹を憎んでいたことを、今やっと自覚した。


「絢子さん……みのりさん……本当にごめんなさい……」


 戻れない自分の愚かさを二人に謝った。


「ごめんなさい……」

「あ、あの……!」


 絶望に顔を覆って泣いていた弥生は、頭上からかかった声に顔をあげ涙で濡れた瞳を見開いた。

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