暫くして伊佐弥は眉を寄せた。

「僕はお駒さんにそんなこと一言も言ってませんよね?」

「言ってなくても分かります。私だけじゃなく三和で暮らす殆どの者が知っていることです。榊子さんだけでなく使用人までも伊佐弥さんをぞんざいに扱ってきたと。貴方を守るべき父親は仕事を理由に都から帰って来ませんし。だから、私が守ろうとしたのです。私は三和の神の眷属で、貴方は神様の足下で暮らす善良な氏子の一人なのですから。長子である榊子お嬢様が居なくなれば、蛇城家の子供は貴方一人になります。格高き神の眷属である名家蛇城の全てが貴方の物となるのです。だから――」

「うけっ、うけけけけけけ!」

 言葉を紡げば紡ぐほど伊佐弥の顔から表情が失われていくのに焦ったお駒は、何とかして彼を取り込もうと舌を回すが、社木のけたたましい笑い声に邪魔をされた。

「何故笑う」

「いやあ、だって嘘でしょ、それ。分っかり易いうーそっ! うけけけけっ。吾輩のことを知ってるなら、吾輩の能力のことも知ってるよねえ? 君からは妬み嫉みの念を感じるよう」

「私が彼に嫉妬していると?」

「まさかあ。お姉さんの方にだよ。坊ちゃんの為なんてとんでもない。君は蛇城を陥れたかっただけさあ。純血種の榊子さんよりも人間との混血児である伊佐弥君が当主になった方が、家の格が落ちて君にとっては都合が良いからね。尤もお、御父上がまだまだご健在だからあ、また純血種の子供が生まれてくる可能性もあるんだけどねえ」

 お駒が息を飲む音が響いた。図星であったのだ。伊佐弥は悲しげに顔を歪ませた。

「うけけっ、小狡さだけが取り柄の化け狐が。君に神の眷属となる資格なんてなーいよ。無駄話はこれ位にして、そろそろ決着を付けようじゃあないか!」

「許さん。許さんぞ、貴様! そうだ。良いことを思い付いた。お前達を供物とすれば良いのだ。そうすれば神様の腹も満たすことが出来、お前達の口封じも出来る」

「お駒さん!」

 伊佐弥は悲嘆の念を込めて叫ぶ。

「ご免なさい、伊佐弥さん。でも、これは仕方のないことなの。だから、どうか貴方の中に混じる蛇城の血肉を余す所なく私の神様に下さい」

 返ってきた声にも悲しみや憐れみの感情が混じっている様に聞こえた。この世で彼女以外に誰も得をしない残酷な要求をしておきながら。

 お駒の身体から強大な妖気が吹き出し、全身の毛が針の様に逆立つ。次に、皮膚の表面がぼこぼこと隆起して肉体が肥大化し始めた。一本だった彼女の尾は分裂して二つ、三つと増えていく。最終的に彼女の身の丈は伊佐弥達の三倍程度まで膨れ上がり、尾は五本になった。赤黒く変色した口からは上等の獲物を前にして我慢しきれないと言いたげに涎を垂らしている。神への奉仕を口実に、彼女自身が獲物の肉を存分に味わいたいと思っているのが伝わってきた。

「くそっ、こんなことになるなんて!」

 伊佐弥はそう乱暴に吐き捨てる。お駒の崇拝対象である神でさえも身体を強張らせている。だが、何故か社木だけは余裕のある表情を浮かべていた。

「大丈夫、大丈夫。さあ、ご覧あれ。吾輩の呪いの力を!」

 社木は軽やかに宣言すると、衣服の前面を勢い良くはだけさせた。薄っすらと筋肉の付いた胴が露わになる。一同は彼の身体を目の当たりにして、ぎょっとした。

(穴? 社木先生の身体に幾つもの穴が開いている)

 塞がり切った傷跡ではない。社木の胸や腹には生々しい様相の穴が複数開いていた。穴の中は黒ずんでおり状態が分からないが、何かが詰まっているという訳ではなさそうだ。また閉じていないにも拘らず、傷口からは血が噴き出してはいなかった。

 見ている内に痛ましさに耐え切れなり、伊佐弥は顔を背けた。表に晒されているのは胴の部分だけだが、服に隠れた場所にも似たような穴が開いているのかもしれない。痛くはないのだろうか、そんな状態で長く生き永らえることが出来るのだろうか、と様々なことを考えてしまう。

 社木は伊佐弥の初々しい反応を面白がり、またけらけらと笑い出した。

「うけけけけっ。そう言えば、坊ちゃんにはまだ吾輩の正体をちゃんと教えていなかったねえ。吾輩は木霊さ。ある神社の境内に立っていた木の精霊。ただ、その神社はちょっと曰く付きでねえ。いや、神社自体は曰く付きじゃあなかったんだけど、神社のある地域では結構長い期間『丑の刻参り』ってのが流行ってたんだよう。知ってるう、『丑の刻参り』?」

「確か丑の刻に藁で作った人形を神社の御神木に釘で打ち付けて他人を呪うんですよね」

「そうそう。まあ、吾輩は御神木でも何でもなかったんだけどさあ。ああいう人種って、ちょっときてるの多いし。まあ、流行ってたし。神社中の木が被害にあったんだよねえ。数多くの人々の負の念を釘を穿たれ空いた穴から中枢に流し込まれた呪木。その内の一本が吾輩だった訳だ。流石に神様との繋がりが強いだけあって、御神木の方は何とか耐えられたみたいなんだけど、有象無象の連中はそうはいかない。吾輩の体の中には今も尚、流し込まれた負の念が滞留しているんだあ。うけっ、うけけけけ。神をも恐れぬこの怨念、君達にも少しだけ分けてあげるよ」

 言い終わるが早いか、社木の身体に空いた穴から黒く粘度の高い液体が溢れ出し、地面へと流れ落ちる。足元を埋め尽くすまで広がった頃、黒い粘液は突如としてお駒へと襲い掛かった。身体へ付着した粘液は、徐々に体内へと沁み込んでいく。そうしてお駒の体内を毒の様に傷付ける。お駒は咆哮し暴れた。だが、その後に彼女は声を荒らげて言った。

「見縊るな! 私が何百年修業したと思っている? この程度の呪い、食い千切ってくれるわ!」

 実際、彼女は妖力を膜状に変化させて体毛や皮膚を覆い、辛うじて倒れることなく耐えている。このまま社木に内包されている怨念が尽きるまで凌ぎ切れば、形勢を逆転されるかもしれない。しかし、社木は笑顔を崩さなかった。

「うんうん、君はそうかもねえ。でも、聞き逃したあ? 吾輩はさっき君『達』って言ったんだよお」

 そこでお駒は動きを止めた。本能的に彼の言葉がはったりや虚勢から来るものではないと知り、必死に頭を働かせる。狡猾な狐が社木の真意に気付くのに大して時間は掛からなかった。

「まさか……止めろ!」

「ぐっ、うぐおおおおっ!」

 お駒の側で苦悶の声が上がる。叫んでいるのは彼女の欲の拠り所たる弱き神だ。社木が吐き出した怨念は、彼にも攻撃を仕掛けたのである。お駒は神体を覆う粘液に噛み付き、引き千切ろうとした。だが、それは水を噛む様なもの。無駄な試みであった。

「神様! 神様! 酷い。神様、何てこと!」

 神に纏わり付いていた黒い粘液は、やがて墨汁が半紙に沁み込む様に神の体内へと吸い込まれていった。すると、神の気配が大きく変化する。彼が放っていた金色の光は黒い靄へと変わり、肌は青紫へと変色していく。呻きも聞こえなくなった。お駒は暴れ狂うのを止め、彼を凝視した。

「神様?」

 恐る恐る尋ねるお駒に対し、返って来たのは――。

「許さない」

 鈍の様に重く他者を上から圧し潰す様な音であった。先程までは汚されながらも辛うじて清らかさを保った状態が表れた綺麗な声だったのに、今となっては見る影もない。

「心卑しイ化け狐め。全てハお前の所為■。奪■尽くさレ■。愛シい者達■、私自身■、全テ」

 時折ぶつぶつと異音が混じる。発音もおかしい。彼は正常な状態ではなかった。小刻みに震え出すお駒を前に、彼はよろめきながら立ち上がった。同時に、花のような形をした金色の文様が彼の全身に浮かび、身の丈がぐんぐんと伸びる。そして、肥大化したお駒よりも更に大柄になった所で、彼女を睨め付けた眼が赤い炎を放った。

「許■ナい、許さ■■。死■デ■■エ。――■■■■■■■」

 最後に認識不能な言葉を発して、彼は拳を振り上げた。

「待って、神様! 違う。私は、私は――」

 拒絶されることへの焦りか、それとも保身からか。お駒は涙を流しながら許しを請う。しかし、その言葉は途中で途切れた。神は彼女を許さなかった。叩き潰され引き裂かれ、お駒は時を置かずして絶命したが、怒りに我を忘れた神は止まらない。相手が死して尚、攻撃の手を緩めることはなかった。

「うけっ、うけけけけっ、ケケッ、化■快悔■■希!」

 社木は笑う。心の底から笑う。瞼を潤ませ、腹を抱えて仰け反る。その横で伊佐弥は思わず膝を突き、呆然と両者の光景を眺めていた。

「これは……」

「怨念に負けて魂を汚染され祟り神へと変じたのさ」

 伊佐弥の呟きで少しばかり正気を取り戻したのか、社木は上機嫌で説明する。

「ついでに性質が変わったことと怨念を取り込んだことで神力も強化され、奴の望み通りに元気を取り戻してくれたって訳だ。幾ら化け狐が強かろうと猛り狂った神には及ぶまい。それにしても、くっくっくっ、あっはっはっはっはっ! ああっ、良い気味だ。最高だ! 恨む奴、憎む奴、妬む奴、怒る奴、悲しむ奴、苦しむ奴、恐れる奴、そして奴等を放置する神共も、皆、大っ嫌いだ。零落れる様は見ていて気分が良い。呪われろ、呪われろ、呪いに巻かれて消えてしまえ! ははあっ、あはははは!」

「社木先生……」

 社木の口調は何時もの道化粧したものとは全く違っていた。これで二度目。一度目は真面目な方が演技だと思ってしまったが、今なら普段の方が演技であったのだと確信出来る。奔放である様に振る舞いながら、彼は欲心を隠した他者を寄せ付けない様に厚い壁を作っていたのだ。そして、今が素の状態。本心を曝け出している。それ程までに眼前にある光景は彼の内面を揺さ振ったのだ。そんな彼の本質の一端を知った上で伊佐弥は思った。

(今の貴方も貴方が嫌う者達と同じ状態ですよ、と言ってしまって良いのだろうか? 彼はきっと、とても傷付いているんだ)

 異常で苛烈な姿に恐れも感じるが、憐れみも覚える。傷付かない訳がないのだ。赤の他人の身勝手で穢され本質を歪められ、挙句神域の住人とは程遠い怪物へと変えられてしまったのだから。

 正視に耐えず、伊佐弥は下を向く。そこで、伊佐弥の耳に社木の「むっ」と言う声が届いた。疑問に思った伊佐弥は顔を上げて社木の方を見ようとしたが――。

「確保ーっ!」

「うわあっ!」

 眠った鳥が飛び立つ程の喚声が響き渡り、四方から大勢の役人達が飛び出してきた。屈強な男達に飛び乗られて悲鳴を上げた伊佐弥は、されるがままに地面へと倒れ込み突っ伏すこととなった。

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