眠る花

壷家つほ

前編

 声が聞こえる。

 女の声だ。途切れ途切れに、消え入る前の蝋燭の灯火のように弱々しく響いている。

 否、これは正確には声ではない。無差別に耳に届く音声ではない。

 これは魂が発する信号の一種。誰かの心が上げた悲鳴のようなもの。

 神である彼は、意識すれば人が内に秘めた心の声をも拾うことができるのだ。

 彼は静かに瞼を伏せ、そして聞き入った。

 女は叫ぶ。



 ――行かなければ。進まなければ。この暗闇の先に住んでおられるという女神様に、我が子の命を救って頂くのだ。

 ――行かなければ。進まなければ。例え、この命が尽きようとも――。



   ◇◇◇



「まったく……魂の熟す頃合いを待って生かしておいたが、つい喰い時を逸してしもうたわ」

 彼の傍らに座する異形の女が溜息を漏らした。

 彼女の名はネカメフィスという。地上界でも有数の広さを誇るマトラ洞窟、日の光も届かぬその最奥に建てられた舘の主だ。

 ネカメフィスの上半身は人型の女性の形をしており、下半身は大樹の根、髪の毛はその一本一本が赤い蔓草になっていて、所々に白い花が髪飾りのように咲き誇っている。顔こそ妙齢の女性のそれであったが、彼女が纏う空気はどこか巨木のような威圧感を持っていた。実際、彼女は同族の中でも特に高齢な木精――《木》の精霊――である。

 ネカメフィスの視線の先には彼女の髪に咲いている物と同じ形の白い花が一輪咲いている。その花は他の花よりも大きく、花弁の上に真球の水晶のような水泡が浮いていた。そして、水泡の表面には舘に続く洞窟の光景が映し出されていた。

 映像の中心にいるのは痩せこけ薄汚れた地上人の女だった。

 ある時、彼女の子供が流行病で倒れ、明日をも知れぬ身となったそうだ。辺境の村では医者も神職も当てには出来ず、困り果て泣き暮らしていた母親の脳裏に蘇ったのが、このマトラ洞窟に住むという女神の伝説であった。女神に我が子を病から救って貰う為、意を決して彼女は危険の多い洞窟に単身乗り込んでくる。

 だが、洞窟の女神――実際には木精ネカメフィスであるが――は、洞窟に〈術〉を掛けて彼女が永遠に自分の許へと辿り着けないようにしたのである。

「ネカメフィスよ、お前は何時から生物の魂を食すようになったのだ。邪神や魔族の類じゃあるまいに」

 ネカメフィスの傍らに立つ神は眉を寄せ、そう彼女を窘めた。世に眠神パストスと呼ばれる彼は、この木精の古くからの友人である。

「戯言よ。そのような顔をするでない」

 眠神の忠告にネカメフィスは嘲笑でもって答えた。

「ネカメフィス、何故に居館に通じる回廊の空間を閉鎖した? 可哀想に、斯様な場所にたった一人で閉じ込められて。無力な地上人にこの迷宮は抜け出せぬであろうよ」

 彼もまた水泡の映像を見詰めていた。

 眠神はあまり感情を表に出すことをしない神である。今この時もまた無表情を貫いているので、顔を見ただけでは付き合いの長いネカメフィスにも彼の心中は把握し辛かった。ただ、単純に言葉だけを聞けば、彼はこの地上人を哀れんでいるように感じる。

 地上人を最も忌み嫌う種族の一柱である彼が、だ。

「ふん、この者は卑しい地上人の身分で我が領内に不法侵入を働いたのじゃ。この程度の罰では足りぬくらいぞ。……お前こそ、どういった気の迷いだ?」

「うん?」

「地上人の愚かしさ、無能さを尤も厭うておるのは、他ならぬ彼等を創造した神族であった筈だろうが。なあ、眠神パストスよ。私には今、お前があの女子に肩入れしているように見えるのだがな」

「そんなつもりはない、さ」

 実に飄々とした素振りであった。全てを悟り切ったような、或いはこちらの気持ちなどまるで意に介さないというような眠神の様子が、ネカメフィスは少し鼻に付いた。

「眠神よ、気紛れなそなたの言葉、私は信用することができぬ。故に、そなたが何かをしでかす前に言っておく。これは、我が庭先で起こったこと。我が庭先にて処理させるべき些事だ。神族であろうと手出しは無用に願いたい」

「……」

「……」

 両者は共に沈黙する。腹の探り合いをしていた。

 ややあって、先に眠神が口を開いた。

「喜ぶが良い、ネカメフィス。今の不敬な発言を聞いて、急に手出しをしたい気持ちが涌いてきたぞ」

「何っ?」

 眠神は重ねて言った。

「手出しするぞ。ああ、心配するな。他人の館の庭先で主の顔に泥を塗るような真似はせんさ。要するに、事を起こすのがここでなければ良いのだろう?」

「どうするつもりだ?」

「あの者は子供の救命を求めて、お前の領内に侵入したのであろうが。ならば女の住まいへ行き、希望通りに子供の命を救ってやれば、全て解決。女はこの地を去ることを望み、お前もこれ以上領地を侵されずに済むという訳だ。後はお前がその子供じみた怒りを収めるだけで良い」

「なっ!」

 ネカメフィスは慌てる。非常に不味い展開だった。眠神も末席とは言え、やはり神族だ。彼女の隠し事に気付いたのかもしれない。

「女の住まいは洞窟入口の近くにあった村か?」

 その問いに恐らく意味はない。彼の〈神眼〉はネカメフィスの記憶を読み取り、その位置を既に把握しているに違いなかった。

(だったら、いっそのことこちらの意図も全て読み取ってくれれば良いものを!)

 だが文字通り全てを見通すことは、作り物の人形のような顔を崩さない眠神でも、なけなしの良心に障るらしい。

 眠神は着衣の背、縦に切れ目の入った部分を肌蹴させると、蜻蛉に似た形状の透き通った羽を広げた。

「待て、眠神。そう、急くでない」

「じゃあな!」

 そう言い放つと、眠神は宙へ舞い上がり、そのまま館の外の洞窟へと飛び去ってしまった。

「他人の話を聞け!」

 ネカメフィスの怒声が館の中に虚しく木霊した。

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