第40話 あなたのそばに(番外編)
個室のベッドに座り、他愛のない話に花を咲かせる私たちだったが、そのうち千枝は、浮かない顔で下を向いた。
窓から差し込む光が眩しかったのだろうか?
私はカーテンを閉めるもの、千枝の表情は一向に変わらなかった。
「千枝、今日はどうしたんだ? 元気がないな。体調が悪いのか?」
「ううん、体調は悪くないよ」
「だったら、何か心配ごとでもあるのか?」
「……彩弓には好きな人がいるんだよね?」
「ああ、いるとも」
「その人とは付き合ってるの?」
「ああ、付き合っているとも」
「じゃあ、相手にどこまで許してるの?」
「どこまでとは?」
訊ねると、千枝は真っ赤になって顔を背けた。
「やっぱり、今のは聞かなかったことにして」
「聞いてしまったことは、聞かなかったことにはできないぞ」
「彩弓はいじわるだね」
「もしや、千枝にも好きな人がいるのか?」
「う……うん」
「その人とは付き合っているのか?」
「そうだよ。最近付き合い始めたんだけど……でも私って病気でいつ発作があるかわからないし……普通のカップルみたいにはいかないよね」
「ふむ。千枝には千枝の事情があるから、仕方のない話だな」
「でも、やっぱり……触れ合わないと、不安にさせてしまうかもしれないし。私も次に進むべきか悩んでるんだ」
「触れ合うとは具体的に何をするのだ? 動物園のふれあいコーナーならわかるが」
「これ以上は、恥ずかしくて口にできないよ」
「そうか、恥ずかしいことなのか。そういえば伊利亜が、殺す気で触れるから覚悟しろとか言ってたな」
私が伊利亜の言葉をそのまま口にすると、千枝はさらに顔を真っ赤にした。
「彩弓の恋人は情熱的なんだね」
「いや、あいつはいつも私を冷めた目で見てくるんだ」
「もしかして、着せ替えごっこをした人?」
「そうなんだ。姉には怒られたが、またやりたいと思っている。その時は千枝も遊びに来るといい」
「彩弓の恋人になる人は大変だね。でも楽しそうでいいな」
千枝は花が咲いたように笑った。一見すればどこにでもいる少女だが、重い病気のせいで行動を制限されているとは、誰が思うだろうか。
「それにしても、千枝にも恋人がいたとはな……私の知ってる人間か?」
「……うん」
「そうか。なら、私も挨拶したいな。千枝を大事にしてほしいものだ」
「彩弓は私のお父さん……じゃなくて、お母さんみたいだね」
「大事な友達だからな。心配するのは当たり前だ。それで……誰なんだ?」
「……えっと」
私がさりげなく訊ねると、千枝は困った顔をする。
「言いたくないなら、言いたくなった時に教えてくれ」
「ち、違うの! 言いたくないわけじゃないけど……知ったら、彩弓がどんな顔をするかわからないから」
「私が? どうしてだ?」
「……びっくりすると思うし」
「千枝が選んだ相手なら、大丈夫だろう」
「そうかな?
「あの面倒くさがりな霧生先輩が怒るのも珍しいな——で、誰なんだ?」
「……ボソッ」
「声が小さくて聞こえないぞ?」
「……甚十さん」
「ああ、甚十か……って、なんだと!?」
私はその名前を聞いた瞬間、興奮して立ち上がる。
どんな相手でも祝福するつもりだったが——甚十が過去にしたことを考えると、落ち着いてなどいられなかった。
「彩弓、そんなに怒らないで」
「これが怒らずにいられるか! あいつは何をしでかすかわからない奴だからな! そんな奴に大事な千枝を渡せるか!」
「でも、私が選んだ人なら、大丈夫って言ってくれたじゃない」
交際相手が甚十と聞いて怒りを燃やす私だったが、泣きそうな千枝を見ていると、なんだか胸が痛くなって、自然と怒りが消えていた。
どうも私は、千枝の涙には弱いようだ。
「……そうだな。千枝が選んだ人間なら、私が口を出す筋合いはないだろう。すまない、千枝」
「彩弓、ごめんね」
「何を謝るんだ! 謝るのは私のほうだ。千枝だって青春を
悲し気な千枝を見ていると、それ以上私は何も言うことができなかった。
***
「やあ、彩弓。今日も可愛いね……って、何をそんなに怒ってるの?」
千枝から衝撃の交際発言を聞いた翌日、私は昼間から甚十を灯台の足元に呼び出した。
だが甚十は何もわかっていない様子で、私に会うなり愛想を振りまいていた。
「おい、甚十……千枝と付き合っているというのは本当なのか?」
「え? 甚十さん……霧生先輩の妹と付き合ってるの? マジで?」
私が甚十に訊ねると、野次馬の健が驚きの声をあげる。
本当は甚十と二人きりで会うつもりだったが、うっかりグループチャットに書き込んだせいで、健や尚人、伊利亜までもがついてきたのである。
だが周囲が複雑な顔をする中でも、甚十は相変わらずどこ吹く風だった。
「なんだ、もうバレたの?」
「なあにが、今日も可愛いね——だ。そういうことは千枝以外に言うべきではないぞ!」
私がたしなめると、甚十は肩を
「それで、今日はどうして俺を呼びだしたの?」
「お前が千枝を不安にさせているのかと思うと、腹が立ったんだ!」
「千枝が不安? どうしてそう思うの?」
「あいつは悩んでいたんだ。普通のカップルのように触れあえないことを心配していた。どうして触れてやらないんだ? 手を繋いだり、接吻くらいはできるだろう?」
「彩弓……伊利亜と進んでないことがバレバレだね」
甚十が言うと、知らん顔をしてそばにいた伊利亜がむせた。
私は目を丸くする。
「なんだ? 別の触れ合いがあるのか?」
「彩弓はいつまでもそのままでいてほしい気もするけど、伊利亜が可哀相だね」
「違うよ、甚十さん。彩弓が成人するまで清い付き合いをするようにって、友梨香さんに釘を刺されてるんだよ」
健が告げると、甚十は複雑そうに笑った。
「そうか……もしあの時、俺が彩弓に触れていたら、友梨香さんに殺されるところだったね」
「あの時って何?」
尚人が怪訝な顔で訊ねるもの、私はそれを遮るようにして口を挟んだ。
「それより、千枝が不安にならないようにそばにいてやってくれないか? 千枝は甚十が不安にならないか心配していたが、千枝のほうが不安そうだったんだ」
「わかってる。俺も、覚悟を決めないとね」
「甚十さん……でも霧生先輩の妹って、無理できないんじゃ」
健が恐る恐る口を出すが、甚十は清々しいほどの笑顔で告げる。
「俺は千枝に会って、初めて触れ合わなくても幸せになれることを知ったんだよ」
甚十の意外な言葉に、私はさらに口を出そうとするが——。
「――そうか。帰るぞ、彩弓」
私が口を開くよりも先に、伊利亜に手を引かれた。
「え? でも、甚十にもっと言ってやりたいのに……って、伊利亜に名前で呼ばれた!」
「今の甚十さんなら、大丈夫だ。それに俺たち外野が口を出すようなことじゃない」
「でも……」
「そうだね。彩弓には悪いけど、霧生先輩の妹なら、彩弓よりしっかりしてるし、大丈夫だと思うよ」
健にまで言われて、私は納得がいかないながらも、言い返すことができず。それ以上、甚十をつつくことはできなかった。
「うーむ……わかった。今日のところは帰る。けど、千枝を泣かせたら許さないからな!」
「わかってるよ」
***
「甚十さん。もしかして待たせちゃった?」
「大丈夫、俺も今来たところだから」
千枝を病院近くの公園に呼び出した甚十は、千枝を見つけるなり柔らかく笑った。
甚十がそんな顔を見せるのは、千枝の前だけだった。
二人はそのまま芝生が敷き詰められた道を歩く。
目的もなく公園を歩くのが日課になっていた。
ただそばにいるだけで満たされる、そんな関係だった。
「あのね、実は私たちが付き合ってること、彩弓に言ったんだ」
ふと、千枝が口を開いた。その声には、嬉しさが滲んでいた。ずっと言いたくてたまらなかったのだろう。
今まで言わせられなかったのは、自分の節操のなさが原因だというのはわかっているので、甚十は申し訳ない気持ちになる。
「そうか。で、彩弓はなんて言ってた?」
「最初は怒ってたけど、私が選んだ人なら大丈夫だって言ってくれたんだ」
「彩弓らしいね」
それから二人は、花壇に囲まれた散歩コースを歩き、時計台が見える広場へとやってくる。
時計はちょうど十二時をさしている。
そろそろお昼にしようと、千枝は言うが——。
「あのね、千枝」
「うん」
「実はお願いがあるんだ」
「お願い? 私でも叶えられること?」
「千枝じゃないと叶えられないことだよ」
「なあに?」
「俺と……」
「うん」
甚十の固唾をのむ音が響いた。
緊張感漂う雰囲気に、千枝は少しだけ怯えた顔をする。
千枝が甚十に捨てられることを恐れているのは甚十も知っていた。
だからこそ、安心させるために言うべきだと思った。
「俺と、結婚してくれないかな?」
「え……」
「こんなにも人を好きになったのは初めてなんだ。だから、俺が千枝を独り占めしたいんだ」
「でも、私……病気があるから。何もできないんだよ?」
「いいのいいの。千枝といるだけで、俺は心地いいから」
軽く言う甚十の笑顔に、千枝は胸を押さえる。発作かと思えば、そうではない様子だった。
「でも私……」
「でも、はやめよう。俺が欲しいのは『でも』じゃない」
千枝が涙をこぼすと、甚十は優しく包み込む。
「千枝、俺を幸せにしてください」
「そんな……私が幸せにしてもらってばかりなのに」
「俺は千枝以上に幸せになれる自信があるよ」
「なにそれ」
「こんないい男、他にいないと思うけど?」
甚十が茶化すと、千枝は笑いながら頷いた。
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