まだ生きてるんだ

 次に目を覚ましたのは、病院だった。

 見知った天井を見つめて、少女は誰に告げるわけもなく言う。


『私、なにしてたんだっけ?』


 記憶には、混濁があった。しかし、すぐに何が起きたかを詳細に思い出すことができた。休み時間に友達が誘ってくれたこと、それを承諾して鬼ごっこをして楽しんだこと、その負担のせいで倒れたこと、病院に運ばれたこと。

 それと同時に胸に締め付けるような痛みが走った。


 ゼェハァと、少しだけ呼吸困難な状態になったが、痛みが治るとやっと一息ついて、


『————まだ生きてるんだ、私』


 そう呟いた。


『娘はどうなんですか?』


 暫くして、病室の外から誰とも知らない声が聞こえた。女性の声だ。話している相手は医者で、穏やかな声音でそれに答える。


『おそらく午前中の体育の授業に参加したことで、心臓に負荷がかかったことが原因と考えられます』

『それで、容態はどうなんですか?』

『今は眠っています。バイタルも今は安定していますし、もう少ししたら、目を覚ますと思いますが——』

『そう、ですか』


 どこか安堵したように女性は息を吐き出した。その直後に茅乃は、病院の引き戸を開けて、その二人の元へと顔を見せる。


『先生』

『気付きましたか。しかし、まだ安静にしていないと』

『茅乃っ!! 大丈夫なの? 体育の授業は休みなさいってあれほど言ったのに』

『ごめんなさい。でも、今日は』

『言い訳はいらないわ。いい? あなたの病気はあなたが考えているより、深刻な問題を引き起こすかもしれないの』

『まぁまぁ、お母様。落ち着いてください』

『っ——すみません。声を荒げてしまって』


 もう一人の方はどうやら茅乃の母親のようだ。茅乃を抱きしめて、頭をさすっている。おそらく茅乃の容態の変化を耳にして、駆けつけたのだろう。

 抱きしめられた茅乃も、母親の身体へと腕をまわす。追憶はそこで終わった。

 終わったというのに、


『————まだ生きてるんだ、私』


 その声が耳から離れてくれなかった。


   ꕤ


 病室の景色は焦点へと吸い込まれて、夕焼けに染まる校庭に戻っていた。

 しばらく夢心地が抜けないので、その場で立ち尽くしていると、ふと背後に気配を感じた。そこにいたのは茅乃だ。


「アヤセくん? 遅いから探しに来たけど、何かあった?」

「茅乃、か」

「えっと——とりあえず、はいこれ」

「えっ?」

「ほら、その拭いたほうがいいかなって思って」


 促されるように頬に手を伸ばすと、そこには涙の線がつぅっと伝っていた。悲しみというよりかは別の、虚しさに近いような感情に襲われる。


「なぁ、君は病気だったのか?」


 小首を傾げて、心配を浮かべる茅乃を見ていたら、自然と口をついていた。油蝉の鳴き声が二人の間を通り抜ける。


「えっ、なんで——どうして、それをアヤセくんが知ってるの?」


 言ってしまってから、どう説明するのか考えてなかったことに気付いた。


「俺もよく分からないんだ。だけど、君の記憶が流れてきて」

「私の過去の記憶を見たってこと?」

「っ、——ああ。勝手に覗いたことは悪いと、思ってる」


 返事に目線を逸らす、茅乃。震える指を握りしめて、茅乃の方を見ると、眉根を潜め、渋そうな笑みを浮かべるとこくりと頷く。

 表情は、どこか観念したようにも感じられた。


「心臓がね、悪かったんだ。日常生活くらいなら、問題はなかったんだけど、過度な運動やストレスを感じると、痛むんだ。このあたりが」


 茅乃は自分の胸を抑えてつけて言葉を続ける。


「でも別に隠してたとか、そういうわけじゃなくて、単に言う必要がないと思ってただけ。ほら、人の不幸自慢ほどつまらないものはないって言うし」


 そして、曖昧に笑った。その刹那、ちょっとだけ茅乃が取り繕った笑いをする理由がわかった気がした。茅乃は周囲に余計な心配や配慮を求めないだけでなく、有ろう事か不幸な自分を見せないように隠しているのだと。


 だからこそ笑うという行為で、本当の胸の内を偽るのかもしれない。


 顔に出したつもりはないけど、少しだけ瞳が曇ったのだろう。茅乃はそれに気付くと、小馬鹿にしたような口調で続ける。


「ありゃ、もしかして心配してくれてるの?」

「いや、まぁそりゃ」

「そっか。————でも、ほら大丈夫だよ! 今ではこうやって元気に生活できてるし!」


 どうにも空元気のようにしか見えなかたが、茅乃の気持ちを汲んで割り切ることにした。


「まぁとにかく、病気が治ったようで良かったよ」

「——っ、うん」


 ハッと目を瞬かせて、茅乃は小さく俯いていた。その反応を見て俺は悟る。

 やはり人の記憶を覗き見る行為は、あまりにも身勝手だ。だからこそ、これ以上、泡沫が現れても安易にそれに触れるべきではないと。


   ꕤ


 その帰り道。

 街灯の明かりがわずかに照らす坂道を下りながら、二人で並んで歩いていた。


「それにしても、よく俺の場所が分かったな」

「ん〜、なんでだろ。ビビって感じたんだよね」

「なんだそりゃ」

「あはは、私にもよくわからないや。もしかすると、あの駅に導かれたのに似てるかも——? ま、いっか。それとこれ見てよ」


 茅乃は握っていた茶色い紙袋から直方体の大きな箱を取り出した。


「ボードゲームか?」

「そうそう、人生ゲーム。学校の教材置き場で見つけたんだ。後でしよ?」


 鬼の首でも取ったようにボードゲームを掲げて、茅乃はその横からちらりと顔を覗かせる。


「二人でやるのか? というか、普通に泥棒だろ」

「まぁまぁ、硬いことは言わずにさ。誰も気にしませんよ。はい、持って」

「おい、なんで俺が持つことになるんだ」

「いいじゃんいいじゃん! 力のある若人のアヤセくんが持った方が、最大多数の最大幸福になると思うよ。なんとかオブリージュってやつだよ」

「若人は茅乃も変わらないだろ。あと、ノブレスオブリージュな。ちょっと意味違うけど、ほんとに達者な口だよな」


 夜道では他愛もない、時折、冗談の飛び交う会話が続いていた。とりあえず今は、普通に振る舞えている茅乃を見て、どこか救われるような気がしていた。


   ꕤ


 翌日は雨が降った。

 締め切ったカーテン、やけに薄暗いリビング。

 ソファに並んで腰をかけて、映画を見ながら、俺は茅乃のことを考えていた。ダイニングテーブルには広げられたままのボードゲームがあり、さっきまで人生ゲームという遊戯に一喜一憂していた。

 目蓋の裏には、今でも昨日の茅乃の誤魔化すような笑みが浮かぶ。


 もう、茅乃の記憶を勝手に見ることはやめにしよう。


 今日一日考えて、そう決めた。

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