第一話 妖狐の幻惑◇②◇

 結局、大学で得られた情報は、雑木林に出る美女の話くらいなもので、大介がぼんやりとしている理由らしきものは、他には見当たらなかった。雑木林、美女、と繰り返し呟きながら、愛美は夕日に照らされた大学の門をくぐる。

 しばらく考えながら歩いていた。大学では他の友人たちにも、美女の話は聞いてみたが、あまり多くの人が知っている訳ではないらしい。遭遇する確率も高くはなく、実際に遭遇したという話を聞いたのは、陸上部の男子学生一人だった。やたら自慢げに話していたが、つまり大介とは違い、ぼんやりしていた訳ではない。

 ……などと考えながら歩いていたのが悪かったのだろうか。ふと顔を上げてみると、愛美は、全く知らない路地に入り込んでいたことに気付いた。薄暗く、細長い通路だ。

引き返そうかと思ったとき、彼女は足元に、一匹の猫がいるのを見つけた。茶色の毛並みで、白い虎模様が入っている。よく見ると、尾は二つに別れている。ただの猫ではないらしい。高校では、古文の授業のとき、「猫また」というものを習ったことがある。徒然草の記述であるそれに近いものがそこにいたが、目の前の猫またに、人を喰うような様子はない。しかし、生粋の猫好きである愛美にすら、この猫または一切の可愛げを廃したふてぶてしい猫にしか見えないのは、一体どういうことだろう。

 猫またが、後ろを向いて歩き出した。二本の尾を揺らして去っていく。愛美がそれを眺めていると、猫または振り返って愛美を見た。睨まれたようだ。ついてこい、という意味だったらしい。後を追って行くと、やがて何やら妖しげなこぢんまりとした建物が現れた。

 何かの店だろうか、「妖屋」と書かれた看板がかかっている。周りを見ても、ぼろぼろのアパートや空き家のようなものがあるだけで、人のいそうな気配はない。猫または、「妖屋」の扉を開けて中に入っていく。その仕草があまりにも自然だったので、愛美は目の前の生物(?)が猫の姿をしていることを、忘れそうになった。後に続いて中に入ると、奥の机には男性が一人いて、机の上に飛び乗った猫またを優しく撫でた。

 背の高い男性だ。黒いスーツの上に、丈の長い黒いロングコートを着ている。季節はまもなく夏の終わりだが、特に不自然には思えない。やや長めの黒髪なので、全身真っ黒だ。精悍な目つきで、右目には片眼鏡をかけている。第一印象は、ミステリアスな青年、といったところだ。

「客、連れてきたぞ」

 それが猫またの声だと理解するのに、愛美には二瞬ほどの時間な必要だった。話せるなら初めからそうしてくれればいいのに、とか、猫または本当に人語を話せたのか、とか、そういった感想は全てが置き去りである。

祀瑠まつる、腹減ったからニシン」

 そこは猫なのかよ。

 喉まで出かかった声を、愛美は慌てて飲み込んだ。男性はどこからともなく魚の載った皿を取り出し、机の上に置く。

「お待たせしてすみません、どうぞお掛けください」

 男性は、猫またにニシンを与えると、愛美にソファを勧めた。愛美が座ると、対面に腰を下ろした男性は、コートの懐から名刺を取りだして差し出した。

「まずは、軽く自己紹介を。僕はこの境界きょうがい妖屋あやかしやをやっております、怪祖かいざき祀瑠といいます。以後、よろしくどうぞ」

「はあ……えっ」

 曖昧な返事をして名刺を受け取った愛美は、そこに書かれた名前を見て固まった。怪祖祀瑠、なかなかすごい名前があったものだ。

「あなたは……金井愛美さんですね。チャトラがここに連れてきたということは、何か妖怪に関わるお悩みがあるかと思いますが」

「チャトラ?」

「あなたを先導した猫またです。まあ、僕の使い魔みたいなもので」

 とは言うが、ニシンを要求した態度からして、チャトラは猫様そのものだ。どちらが使役されているのか分からない。飼い主は猫の下僕、などと言われることが多々あるが、一面の真実なのかもしれない。とはいえ、人語を話す猫など他にいないだろうが……。

「ぜひお聴かせいただけますか。あなたが今抱えている、最も大きな悩み事を」

 言われるままに、愛美は一通りの事情を話した。一息に全て話してしまうと、いつの間にやらニシンを食べ終えたチャトラが、「撫でろ」と言わんばかりに怪祖の膝の上に乗って陣取っている。揺れる二本の尾を眺めながら、喉の乾きを自覚したところで、愛美の前のテーブルに茶が差し出された。

「どうぞ。ぬらりひょん様が選ばれた、体に良い緑茶です」

 ありがたく例を言って一口飲み、愛美は茶を差し出した人物を見上げた。白い着物を着た、髪の長い、若い女だ。髪は雪のような銀白色、瞳は氷のような水色、透き通るような白い肌の、美しく若い女性……。

「あああー! 男を惑わす超美人! もしかしてあなたが原因なんじゃ……」

「ええっ、わたしですか!?」

 思わず(失礼極まりないことに)指さして叫んだ愛美と、驚いた女性の声が重なる。目の前でそれを見ていた怪祖は、つい苦笑した。

「いや、恐らく無関係でしょう。彼女はこの季節、ほとんど境界から出ませんから」

 なんだ、と肩を落とし、愛美は女性に頭を下げた。

「それよりも、他にその妖怪に心当たりがあります。出現した雑木林は山に近い。とすると、あなたの恋人が遭遇したのは、妖狐かもしれません」

「ああ、またか……」

 着物の女性も苦笑しているところを見るに、よくあることらしい。過去にも似た事例があったようだ。

 少し話をしに行きましょうか、と言って、怪祖が席を立った。



主コメ

境界とは本来、この世と異界の境目を指す言葉ですが、この作品ではこの世と異界の間に存在する一つの空間として定義しています。多分作中で解説することはないので、ここで先に述べておきます。

なろう投稿分と揃ったので、次回は一日空きます。

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