56、清明節、申の刻、父親

 荒ぶる水龍に狐火をぶつけると、ジュワッと高温の蒸気が上がる。熱い。

 

「あっつ……!」

 

 紺紺は狐のお面を脱ぎ捨てて、四阿あずまやの橙色の屋根に着地した。


 追いかけてくる暗器を避けて、水龍の再度の突撃を避けて、懐を探りながら跳ぶ。


 空中で沐沐ムームーが体当たりしてきたので、受け身を取って近くの木まで飛ばされる。途中でくるっと回転し、木の幹を足場として蹴って、もう一度ジャンプ。

 

 高く跳びながら演舞台の方向を見れば、宝石商人が舞台袖でかまど娘娘を押し倒している。何やってるんだろう。

 

 いや、それより、皇帝だ。

 殺意を秘めた岳武輪の剣先が、突きの型で皇帝の胸元めがけて接近している――「いけない!」紺紺は懐から取り出した皇帝人形を上にクイッと持ち上げた。

 

 「これ、皇帝陛下!」と念じて本人に影響を与える共感呪術だ。

 

 術は成功し、本物の皇帝がビュンッと跳ぶ。

 跳躍する皇帝の足の下を、武輪の剣が通り過ぎていく。

 ぎりぎり守れた!


 ホッとした瞬間に、水龍が上から覆いかぶさるように飛び掛かってくる。


「きゃっ⁉︎」


 水にのしかかられ、押され、重力に引かれて――紺紺の体は加速して勢いよく池に落ちていった。


 

 * * *

 

 水の中は水龍が荒れ狂い、紺紺は全身を揉みくちゃにされた。


 右に押されたと思えば左に引っ張られて、かと思えば両サイドからぎゅうっと押される――全身がくるくる回転して、上と下もわからなくなる。


 身体が痛い。引きちぎられそう!

 

 目を開けても、ぽこぽこと荒ぶる泡で視界がいっぱいだ。狐火をつくっても、すぐに消えてしまう。

 呼吸が苦しくなってくる。

 意識を保つのが難しくなってくる。

 どうしよう。


「……っ」

 

 そんな中、ふっと水の圧力が弱まった。


 肩が。腕が。誰かに捕まれて、引っ張られる。

 薄く開いた眼には、見慣れた人物が見えた。霞幽だ。


 天文博士の衣裳ではなく、金銀の糸の刺繍が施された白い衣裳で、ゆるく結わえた長く艶やかな黒髪を水流になびかせて。

 切れ長の涼しげな目はこんな時も余裕があって、清々しい。目の前で死にかけてる紺紺が目に入っていないような平常感。 

 けれど、助けてくれるらしい。

 すっと通った鼻筋と薄い唇が近づいてきて、気づいたときには唇が合わさっていた。


「……!」 

 

 軽く開いた唇から、空気が入ってくる。枯渇していた酸素が美味しい。

 縋るようにして空気を貪っていると、気づけば顔が水面に出ていた。


「――――ぷはっ……、ごほっ、ごほっ」

 

 咳き込みながら呼吸を繰り返す体を、霞幽がぐいぐいと池の外に引っ張り出してくれる。

 ――助けてくれたのだ。


「あ、ありがとうございま、ごほっ、ごほっ」

「紺紺さん。お礼はいいから、落ち着いて呼吸をしなさい」


 落ち着いた声に頷くと、背中をさすってくれる。

 呼吸を整えているうちに、少しずつ周囲を見る余裕が生まれてきた。

 

 沐沐は仰向けになって池に浮かんでいた。胸に剣が突きたてられていて、事切れている。霞幽が刺したのだろう。諸葛老師は――

 

「ひぃっ、放せ、やめろぉ!」 

 

 紺紺は目を見開いた。

 諸葛老師は、妖狐にのしかかられていた。


「お、お母様!」

「紺紺さんの母君は、君を案じて飛び込んできたようだ。あの暗殺者は自ら毒を煽ったので、母君はまだ人を殺していない」

 

 暗殺者とは沐沐のことだろう。


 どう見ても毒を煽ったのではなく、剣で胸を突かれて絶命している。


「霞幽様は嘘つきです」

「宮正に賄賂を握らせて『毒を煽った』と記録させれば真実になるよ」

「か、奸臣……」


 奸臣っぽいことを平然と言う彼は全身からは水を滴らせていて、裾の長い衣が肌に張り付いている。

 体つきや襟元から覗く首筋は、こうして見ると案外男らしい。艶やかな前髪をかきあげる仕草は、色気がある。


「……はっ」


 つい見惚れてしまった。それどころじゃないのに!

 

 紺紺は妖狐の背中にしがみつくようにして殺害を止めた。

 

「えっと、お母様。殺さないでください。私、無事です。その老師は証人になります。捕縛します」

「……紫玉」


 ハッと正気に戻った様子の母の声に、安堵する。

  

「はい。私です。えと、今は紺紺と名乗ってますが……」

  

 霞幽が丸薬を口に突っ込み、諸葛老師の意識を奪ってくれる。

 くたりと脱力する老師を見て、妖狐は段々と気を落ち着かせてくれた。


「霞幽様、皇帝陛下をお助けしないと」

「人質を探さないといけないね、紺紺さん」


 二人同時に言って、紺紺は「ん?」と目を点にした。


「えっ、霞幽様? 人質、助けてなかったんですか? 大変じゃないですか!」

「助けてないが?」

「それなら、皇帝陛下も急いで助けないとですし、人質も急いで探さないとで……大変じゃないですかーーーー‼」


 大慌てになる紺紺に、妖狐が心配そうに身を寄せる。毛皮がふわっふわで、あたたかい。

 

「紺紺さん。主上は放っておいてもいいよ」

「ああ~~っ、霞幽様は、そうでしたね。陛下が亡くなられても、東宮を傀儡にすればいいという……か、奸臣……」

「まあ、そうだね。しかし、別にそれだけではない。私はちゃんと手を打っておいたので、心配に及ばないということだ」

「ほ、本当ですかぁ……」

「紺紺さん。私が信じられないと?」

「さっきまではすごく信頼してたんです」

「では、もう一度信頼しなさい」

 

 淡々と答えて、霞幽は視線を橋の向こうへと流した。


「紺紺さん。あれが見えるかい」

「あれ? ……えっ、何かいる……」


 促されるがまま見てみると、もやもやとした影のような何かが見える。人間ほどの大きさで、二つ。

 もやもやは、人間みたいな形をして、人間のように手を振った。


「なんですか、あれ?」


「……」

 

 妖狐がふんふんと鼻を鳴らして、もやもやの後をついていく。

 八つの狐尾はゆらゆら、ふわふわと揺れていた。


 その動きに安心感を煽られるような心地を覚えながら、紺紺はもやもやについて行った。


 ――すると、もやもやは秘密の抜け道の入り口らしき場所を教えてくれた。

 

 枯れ井戸の底だ。底に、鍵付きの戸があった。

 戸の前には、鍵が置いてある。奇妙だ。


 戸を開け、人ひとりが身をかがめてようやく通り抜けられる小さな入り口を通って中に入ってみると、抜け道の中には行方不明だった三人の宮女が隠されていた。


 萌萌モンモン雨春ユイシュン小蘭シャオラン――三人の宮女は実を寄せ合うようにして気を失っていた。

 縄で縛られていたらしいのだが、なぜか縄が解かれて近くに転がっていた。

 そばには桃饅頭入りの蒸篭せいろが置かれていて、紙が添えられている。


 『萌萌。すぐに助けが来るから、下手に歩き回らずにじっと体力を温存するといいわね。ついでに、差し入れを置いていくわ』


 「ついでにさん」の筆跡だ。彼女は、萌萌と親しかったのだ。

 紺紺は複雑な気分になった。


「この抜け道は紺兵隊が掘っていたものだね。開通していたとは知らなかった」


 抜け道の壁に設置された燭台を見て霞幽がつぶやくので、紺紺はびっくりした。


「これ、石苞たちが掘ってた穴……? が、がんばって掘ったんだぁ……」


 その耳に、井戸の外から見守る妖狐が、慕わし気に人の言葉を発したのが聞こえた。


「あの時、あなた様を救えたかもしれないのに、わたくしは……申し訳ありませんでした」


 誰と話しているのだろう?

 とても愛しそうで、悲しげ。


「……紫玉は、良い子に育ちましたわ。ずっと見守っていてくださったのですね」


「……!」


 紺紺は弾かれたように外に向かった。


 井戸まで導いてくれたのは、ここまで連れて来てくれたのは。


「……お父様?」


「ありがとうございました。わたくし……愛しています。ずっと、ずっと」


 母の声が「推測が正しいのだ」と教えてくれる。


 お父様。お父様。お父様。

 いるの? そこに? ほんとうに?


「お父様!」


 戸を開けて、もどかしく外に出て、夕映えの世界を見上げたとき。


 そこには、薄くその輪郭を空気に溶かすようにして消えていく父がいた。

 父は、記憶にあるのと同じ優しく愛情深い眼差しで娘を見て、あたたかに微笑んだ。


『……お前たちを守れなくて、すまなかった』


 懐かしい声は申し訳なさそうに、善良な気配でそう告げて。

 それを最後に、父は消えた。


「あっ……」


 井戸にかけられた縄をのぼり、父に駆け寄って伸ばした手が、虚空を過ぎる。

 地面に倒れ込んだ紺紺の鼻腔には、雨上がりの土の匂いが感じられた。


「……っ」


 じんわりと視界がにじむ。


 父は、ずっと見ていてくれたのだ。

 助けてくれたのだ。


「…………うわあああぁぁん……っ」


 そう思うと、目から涙があふれてきて、止まらなかった。

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